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本を読むこと4-「悪書」について考える

「子どものため」という大義名分

 かつて悪書追放と称されるマンガ本の追放があった。また、PTAは2012年まで「子どもとメディアに関する意識調査」の中で子どもに見せたくない番組の調査を保護者を対象に行っていた。対象に挙がった番組は「8時だョ!全員集合」などお笑い系のバラエティ番組が中心だった。

 私自身は子どもの頃、これらの動きをなんて無意味で愚かな運動なんだろうと思っていた。これらの動きはどう考えても自分の好みに合うか合わないかというレベル以下のものとしか思えなかったからだ。むしろ、凶悪事件や芸能界のスキャンダルを中心としたネタを中心にしていた当時のワイドショーの方が「子どもに見せたくない番組」よりもはるかに下品でレベルの低い番組だと感じていたし、今でもそう考えている。今の常識からは考えられないことだが、凶悪事件、芸能界のスキャンダルを中心にしたワイドショー番組は夏休み、冬休み、春休みの期間、学校から帰った後などでも内容が変わることなく平気で放送されていた。私の家は子どもに見せたくない番組という概念にさほど興味がなかったが、子どもに見せたくない番組に拘る一方でワイドショーを見る親の家庭の子どもは何を思っただろうか、と感じたこともある。

 子どもに見せたくない番組の大義名分は子どものためである。しかし、そこには子どもを未熟な何もわからない存在としかみなさず、大人から見て自身にとって都合がいいか悪いか、自分の好みに合うか合わないかから子どもにこれらの番組を見せまい、知らせまいという発想しかない。

禁書とされた教科書批判本

 だからこそ、悪書と称され、禁書となる本はマンガやポルノだけに留まらない。ジャーナリストの上野清士は自著「教科書物語」が愛知の某新設校で禁書とされた理由について次のように主張する。

何故、ぼくの本だけが”禁書”になったか!(注:ゴシックは原文ママ)理由は簡単、「教科書はほんとうに君たちのものか」(サブタイトル)と、学びの主体者である彼、彼女たちに積極的に語りかけた唯一の本だったからだ。教科書の存在を子どもたちに疑ってもらっては困ると考える大人たちにとっては、非常にやっかいな本だった。
こんな本を子どもたちがみんな手にしたら”正常”な授業が運営できなくなると、頭をカリカリさせた先生たちがいたに違いない。
「こりゃとんでもない悪書だ!」と。
(略)
ぼくが何故、子どもたちの視座ということにこだわったかといえば、教科書そのものが、子どもたちの未来に役立つどころか、子どもたちの現在をも抑圧していると、考えたからだ。(※1)

 確かに上野の教科書批判のスタンスは教科書の内容の是非を問うということよりも、教科書を使って授業を行うことを当然視する教育に対する批判を中心にしたものであった。現に、教科書を使った授業を求める保護者や、教科書の内容が保守的であるとして批判をしている人たちも教科書を絶対視する点で保守政権と同様と主張をしている。(※2)その意味では左右イデオロギーの論争となりがちな歴史教科書に留まらない教科書中心主義教育へのあり方自体を問うものであった。

 だからこそ、上野は生徒よりも学校運営の都合を優先する学校教育のあり方への批判を含んだ「教科書物語」を教育関係者が禁書扱いとしたことを批判した。上野が主張する「学びの主体者である彼、彼女たちに積極的に語りかけた」本を否定することは各々の生徒が主体的に考え、行動するという機会を奪うことを意味する。それは子どもの育成に携わる教育関係者としては極めて問題であると言えよう。教育関係者が生徒の自由や主体性を強調する一方で、実際の行動が教育関係者の都合に沿った形で生徒を統制しようとするのはよくあることと言えばそれまでなのかもしれない。ただ、それは教育関係者がその職務、責務を放棄することを黙認することを意味する点で、教育の荒廃が進む可能性があることを認識すべきだろう。

良書、悪書を見極めるのは自分自身

 かつてのワイドショーの下品さとレベルの低さに触れたところだが、本についてもその類はいくらでもある。児童相談所について調べるためいくつか本を図書館から借りた際に、自身の子どもにバットによる暴力、いわゆるケツバットを行いアザをつくったことを正当化した本があった。この本は、子どものアザを問題視した児童相談所が子どもを保護したことを拉致であるとして裁判所に訴えた当該父親、その弁護士、著者である精神科医の鼎談において、戦後教育によって子どもがエゴイスティックになったという思い込みを一方的に主張し、体罰、暴力を正当化した本であった。

 どう考えても児童相談所の問題を考える上では参考にならない本だし、この手の主張を真に受けるべきではない。だた、それでも私はこの手の類の本を焚書にしたり禁書にするといったことには同意しない。子どもに対してもそれは同じである。本の読み方、本の内容に対する批判的考察の必要性など助言を教育関係者が行うことは必要であろうが、それは禁書、焚書に導くようなやり方であってはならない。飽くまでも生徒の主体的な判断に任せるべきだし、またそうした生徒を育てることこそが教育関係者の責務であるべきだ。

 もちろん、大人であれば本を主体的に読むということは当然であろう。本に書いてあるからとそのまま無批判に受け止めるのではなく、その本と違う見解を知ることはもちろん、その本がきちんと事実に基づき、科学的な考察に基づいているかを見極めることが求められる。その意味でも本を読む基本である多読、精読という作業を通じて、本に読まれるのではなく、本に対して主体的に読むことこそが本来の意味での本を読むことではないだろうか。

皆が集まっているイラスト1

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(※1) 上野清士「教科書」P157(現代書館)

(※2) 上野「前掲」P152,P153

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