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マジックアワー

開けっ広げた土間で、よく冷えた炭酸水を飲んでいるのに、異常なほどの熱気と湿度が重くまとわりついて汗が噴き出してくる。異常なほどの熱気と湿度をずっしりと含んだ暑さが、何日も続いた最後の日だったとおもう。大型の台風が、日本の背中を舐めるように進んでいた。雲は、激しく流れるものやしじまに漂うもの、群れるものや巨大なものとさまざまで、そのどれもがグレイの影を帯びながら金色に輝いている。

季節が変わる。去りゆくものの寂しさと、変化に呼応する高まりが入り混じった空は、せわしなくて、やるせなくて、何かがこみあげてこぼれてしまう直前のような気配に満ちていた。

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その日のテレビは、7歳の女の子がキャンプ場で行方不明になったニュースで持ちきりだった。家族のいた場所から子供の足でもさほどかからない場所に彼女はいるはずだ。そう、誰もが思っていた失踪の初日。しかしそれから3日間経っても、女の子は見つかっていない。

そして、マジック・アワーが訪れる。黄金からそのまま茜色に染まって静かに暮れていくはずの空が、その日は違った。ばらと琥珀、すみれ、藍…自分の中に埋もれた遠い記憶や、夢の中で見たやわらかな手触りを思い出させるようなトーンが、刻々と空を彩って、まるでお祭り騒ぎのパレードのよう。バイパス沿いのトラックに占領されかけている道の駅で車を停めた。

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あの女の子は、見つかっただろうか。

道の駅を出て、富士川の河口を渡る頃、空には壮大な雲の絵巻が広がっていた。叫びだしたいような、狂おしさに身を浸す。自分は誰でもなく、ここはどこでもなく、鳥やけものや木々と一緒になって、世界に溶け出していく。

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あの女の子は、見つかっただろうか…。

魔法がかけられた世界では、悲しいことは起こらない。けれどそれはあまりにあっけなく、ストン!と音がするように扉は閉まり、すべてがいつもの平凡な世界に突如として、戻ってしまう。

墨色のべったりとした空だけが、私の行く先に残されている。

ラジオのニュースを聞きながら、車を飛ばす。日々、いろいろのことが起こっているけれど、すべては雲のように流れてしまい、物語のエンディングが訪れるころには、みんな誰がどうしたなんてことは、もう忘れている。

あの女の子は…。

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マジック・アワー。

時間を超えられることがあるとしたら、もう逢えない人に逢えることがあるとしたら、きっとあんな空の下だ。

そう願わずにいられないこの、小さな世界で。

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