ポリアンナは損得勘定で動かない

「ゆたかさとはなにか」そう問われたとき、なにか捻ったことを提言したいという欲求にかられた。恐らくこの欲求が既にゆたかではない。

常に奇をてらった発想をしていきたい、その発想はなかった!やられた!と感服させたい、なんて素敵な感性を持っているんだ…!是非我が社に来てくれないか!とこれを機に大企業に引っこ抜かれたい……ゆたかさの対極にある下卑た願望が私の中でぐるぐると渦を巻いた。しかしそう願ってしまうのは結局のところ自分が平々凡々な人間であると自覚しているからこそである。

平凡を地で行く私が必死に無い感性を絞り出そうと考え抜いた末に導き出した答えは「ゆたかさとは即ちこころのゆたかさである」というやはりなんともはや平凡も平凡、それ以上でもそれ以下でもない答えであった。

それ以上でもそれ以下でもないものに、極力色をつけるべく、私の思うこころのゆたかさついて綴っていきたい。

愛少女ポリアンナ的思考

脳裏に真っ先に浮かんだのは愛少女ポリアンナだ。

私は幼少期、母からクリスマスプレゼントとして渡された児童書の中でポリアンナと出会った。某美少女戦士のステッキを所望していたわたしにとってこの出会い方は一言でいえば悲劇だったのだが、結果として今もこうやってnoteに綴るくらいには心に残る一冊となっている。

ポリアンナは幼くして両親と死別し、引き取られた先の親戚宅では冷遇を受け、さらには不慮の事故により寝たきりになるほどの大怪我を負う。小さな身体、愛くるしい出で立ちで枚挙にいとまがないほど多くの困難に直面するのである。控えめに言って最悪だ、不幸が服を着て歩いている。私がポリアンナであったならば神を恨み、人を呪い、果てには怨霊となって織田無道氏と対峙することになるだろう。

しかし真のポリアンナは違った、彼女はどんなときも「よかった探し」という物事の中にあるポジティブな面を見出す、という神がかったスタンスを貫くことで数々の苦境を乗り越えていく。

ポリアンナのこの考え方は幼い私の心にもグサッと刺さり、以来私はポリアンナのようになりたい、と願いながら生きてきた。が、願うだけで実行には移さなかったので今現在の私の心は決してゆたかではない。ゆたかになりたい。

コロナとポリアンナ

今日、私たちを取り巻く環境は不安を抱かずにはいられないものになっている。というより、不安が世界を席巻している。

地球温暖化だとかミサイルがEEZに落ちたとか落ちないとか昨日今日の話ではない不安が大枠として存在していたが、今回の新型コロナに関しては個人個人がより身近に迫る危機として最も神経をすり減らすことになった。

目に見えないウイルスへの恐怖に怯え、自粛を強いられる生活が続いた。ワイドショーでは連日コロナの文字が踊り、コロナ離婚、コロナ不倫、自粛警察と目新しい造語が次々に登場した。生意気にも首都圏に居を構えている私も例外ではなく、数か月に及んだ自粛自粛自粛の生活で何が何だかわからぬままに気づけば色々と蝕まれた。


気候の良い春、ピクニックをたくさんしたかった

娘の2歳の誕生日にはディズニーランドに行きたかった

両親や兄弟を呼んで娘のために豪勢な誕生会を開きたかった

動物が大好きな娘を東武動物公園に連れて行ってあげたかった


大したことのない事柄ばかりだが、それでもようやく歩けるようになり、少し喋れるようになり、しかしまだまだ赤ちゃんぽさの残る…もしかしたら人生で一番可愛い盛りなのではと思われる愛娘と過ごす、たった一度の2歳の春を、ステイホーム一色で埋め尽くされてしまったことは悲しいし口惜しいし悲しい。

しかし、ここで下ばかり向いていては私は貞子になってしまう。私はポリアンナになりたいのだ。ポリアンナだったら、と私なりに思いを馳せてみるとこう変換することができた。


ピクニックを取りやめたことで家の掃除をする時間ができた

ディズニーランドに行ったら使っていたであろう4万円が浮いた

両親兄弟を呼んだらその分かかったであろう食費が5千円浮いた

東武動物園に行ったら使っていたであろう1万円が浮いた


…ポリアンナになりきれない私はどうしても浅ましく金銭面の損得勘定で物事をはかりがちになった…が、これはこれで一歩前進。人はいきなり聖人君子にはなれないのだ。と思う。ことにする。

そしてポリアンナをマスターする

ひとたびポリアンナ的思考が身につけば、徐々に苦境を楽しめるようになるはずである。やもすれば、早く次の苦境よやってこい、出でよ苦境!の域にも達するかもしれない。

出先で犬の糞を踏んでしまったときには、ちょうどこの靴洗いたかったんだよね、と思える。鳥の糞が頭に落ちた時には、帰宅してすぐシャワーを浴びれば就寝前の時間を有効利用できるな、と思える。公園で娘がトイレに間に合わず服を汚してしまった時には、次はどんな可愛い服を買ってあげようかな、と思える。

…どうしても偏りがちだが、私は出先で汚い事態に見舞われることが本当に多く、よって切実にこの思考を手に入れたい。

例えが極端にはなってしまったが、陰を陽に、マイナスをプラスに変換できる習慣が身に着くということは即ちこころの豊かさに直結するはずだ。そしてそれは確実に生活を時間を豊かにしてくれる。


大きなことではなく、小さなことから、こころをゆたかにしていきたい。そう願いながら今日も私はポリアンナと貞子の狭間を千鳥足で歩いている。




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