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忘れていた物を取り戻しに

はじめまして。伊藤悠人と申します。

産まれは三重県四日市市。
1988年11月7日生まれ今年で33歳になります。
今も四日市市に家族4人で暮らしています。

突然ですが、毎日好きな事できてますか?
僕はここ数年好きな事をしていませんでした。幸せな瞬間はありましたが、日々の生活(主に仕事)は楽しくありませんでした。と言うか、好きな事を出来ないように自分自身をコントロールしていたと思います。

ここ最近驚く程に人生が大きく変わる瞬間を何度も経験し、ようやく自分と向き合う時間ができました。
今までの人生は、他人の為の人生だと気づきました。
別に悪くは無いと思います。自分の選択によって周囲の人が幸せに生活できるのであれば犠牲になりました。

しかし、本当にやりたい事を突き詰め始めると、自分の人生を納得する物にしたいと心の底から思うようになりました。また同時に愛娘2人に対して、かっこいいパパとは何かと考える時間が増えました。

そして今まで生きてきて忘れていた気持ちを取り戻しに行動し始めました。
その為にはもう一度過去を振り返る必要もあると思い行動します。僕は特別優秀では無いです。しかし僕には今から記すこの生き様が紛れもない財産です。

少し長いですが、最後まで御付き合いしていただけると幸いです。

◆誕生〜幼稚園・保育園時代 

僕の実家は先祖代々続く老舗建築板金業を営んでいる家庭に、姉と弟の三人兄弟の真ん中で長男としてうまれた。
自宅は会社工場の2階で、工場裏には曽祖父と祖父母と住み込みの職人が住んでいる離れがあり、かなり特殊な家庭環境だった。

曽祖父はいつも離れの2階にほぼ寝たきりで、僕が遊びに行くといつもゴーフルの缶に入っているお菓子をくれた。いつしか"2階じいちゃん"って呼ぶようになった。

そんな"2階じいちゃん"だが、私が4歳になる年に肺癌で亡くなった。
告別式は工場に祭壇を祀り、工場前の道路に焼香をあげる人の行列をなすほどだった事を鮮明に覚えている。その時、家業はすごい仕事をしているんだと思うようになった。

その後私立の幼稚園に通っていた私は、年中から年長に変わるタイミングで急に近くの保育園に転園することになる。

何があったが知らないが2歳上の姉は、食事の時に何も口にせずただ泣いていた。小学校にも行かなくなり、常に泣いていた。
食事をしないのでみるみる痩せて入院することになる。
後から聞いた話だが、姉は給食の時間に目の前にいた友達が牛乳を嘔吐し、それを見て”自分も口から戻すかもしれない”という恐怖から食事ができなくなり、精神的な病を患っていた。

母は姉に付き添い病院で寝泊まりする事になり昼に戻ってきて洗濯をしてまた病院への繰り返し。
父は現場に出向き仕事をしていたので帰りも遅く、この時期は祖母に育てられていた。祖母はビタミンCを取りなさい。っと言いC.Cレモンを毎日飲み、ご飯もたらふく食べさせてくれた。そしてこの時から太り始めた。

そして弟が生まれ母も手が負えなくなり、近くの保育園に転園となった。

僕はその時から我慢の人生が始まった。

自力で食事が出来るようになり退院してきた姉。
しかし、学校に行く事が出来ず不登校児となった。

ある日の朝、祖父が「なんで学校に行かせないんだ!!」っと母に怒鳴り扉の影で姉が泣いていた。
振り返るとまだ小さい弟が泣いている。

その時自分は泣いてはいけない。良い子でいなければならない。迷惑をかけれない。甘えられない。親の言うことを聞かないといけない。我慢しなければならない。
色々な感情が生まれた瞬間だった。

◆小学生時代 

地元の小学校は市内有数の小さな学校で各学年1クラスしかなかった。

入学して、すぐにいじめの洗礼を受けることになる。
姉の同級生から
”お前の姉ちゃんなんで学校来ないんだ!”
”ズル休みしすぎだろ!”

何も言えなかった。
むしろ理由を答えたところで何も変わらなかった。ひたすら耐えた。
どうすることも出来ないのはわかっていた。

毎日姉クラス担任から渡される配布物。
家に帰って母に渡すも、それどころではなかった。

我慢した。でも母に甘えたかった。

しかし僕にも小学校で一生の友達Kと出会う。Kは保育園でも一緒だったがあまり遊んだ記憶が無かった。彼とは運動会の徒競走で同着1位になり、そこから意気投合し常に二人で遊んでいた。

高学年になったある日、転校生がやって来る。横浜から父の転勤で四日市に引っ越してきた。彼は、根っからの野球少年だった。

彼の影響で放課後学校のグラウンドで野球をするようになる。
どんどん仲間が増えていった。チームは作れないが、見様見真似で守備練習とかして楽しんでいた。この時始めて他人の動きを意識した。プレーの中で誰かのためにフォローをすることを覚えた。

一方姉の拒食体質も日を追うごとに良くなっていったが、相変わらず学校には行けず引きこもっていた。
ある日家にピアノの先生を自宅に呼び、姉がピアノの練習をしていた。

曲はバッハのネヌエット。
私は初めてピアノの音に触れた。心地よかった。自分もピアノが弾きたいと思い、姉のレッスン後に一人で見様見真似に練習をした。

そしたら、姉より先に曲を完成させた。そしてその日から姉はピアノを弾くことは無かった。僕は始めて音楽に興味を持った瞬間だ。

色々な楽器を弾きたくなり、小学6年生の時お年玉を握りしめ街の楽器屋にギターを買いに行った。
没頭した、しかし音楽教室には通うことはしなかった。むしろ我慢した
”お金も掛かるし、親に送り迎えをしてもらう時間も無い”と自分を納得させていた。
しかし、どんどん弾ける曲が増えていった。ひたすら独学でやり込んだ。

それと同時に野球から離れていった。

◆中学時代 

1.音楽部

地元の中学に進学したが、小学校も小さな学校だったためメンバーはほとんど変わらなかった。
この頃から姉は保健室登校ができるようになっていた。

中学は必ず部活に参加しなくてはならないが、なにせ小さな学校だったため選べるほど部活は多くない。運動部は野球かサッカーかバレーの三択
文化部は音楽部とパソコン部のどちらかしか無かった。

小学校で野球に打ち込んでいた仲間はKも含めて野球部に入部。

しかし僕は体験に行ったものの音楽部に入部する事に。

音楽部と言っても軽音楽部みたいなもので、同級生はおらず先輩の中でギターを弾いていた。

Kと初めて別々の道を選んだ。「それでよかった」そう僕は思っていた。

土日に行われる練習試合や夏休み中の合宿。大量の洗濯物、朝練、全て母親に負担が行く。
最善の選択だと自分に言い聞かせ、ますます音楽にのめり込んでいった。

当時は175R(イナゴライダー)やロードオブメジャーなどのバンドが多く存在していたが、その頃は既に洋楽を聴き漁っていた。
周りに洋楽の良さを伝えようとしても、話の会う人はだれもいなかった。

登下校もMDウォークマンで洋楽を常に一人で聞いていた。
"The offspring" "green day" "NOFX" "bad religion" 
特に洋楽パンクが大好きだった。英語は全くわからないが、
テンポが速い曲に歪んだギターとシャウトする声。
自分の心が開放される気分だった。でもどこか寂しい気持ちも残っていた。

2.野球部

音楽室からはグラウンドが一望でき、いつでもサッカー部と野球部の様子が見れた。
才能なのか解らないが、曲を覚えるのが得意だったのでさっさと練習を終わらしてはグラウンドを毎日眺めていた。

中学二年に上がったある日の放課後、親友Kから”ゆーちゃんキャッチボールしやん?”って誘われた。その時、何気なくキャッチボールした時間が僕の人生を動かした。

”僕やっぱり野球がしたい”

そう両親に告げ、次の日には転部届を提出し野球部に入部した。
今思うと初めて自分の意志を貫いた瞬間だったかもしれない。
それを知ったKは自分の事のように喜んでくれた。

しかし、毎日の練習はキツかった。顧問は若い先生で熱血だった。でも仲間といる時間が楽しかったし、合宿も仲間がいたから乗り越えれた。

しかし最初で最後の中体連の公式試合。いつもなら勝てた相手にまさかの初戦敗退。みんなは泣いて悔しがっていたが僕はなぜかスッキリしていた。

途中からではあったが、初めて僕の意思で決断し最後までやり抜いたからこそ産まれた感情だった。

そこからは僕の選択で全てを進める決心をしたつもりだった。

部活を引退し、進路の話がちらほら出ている時にKに彼女が出来た。
恋愛をしたことが今まで無かった僕にとっては、未知の領域だった。
好きな人はいたが、お付き合いするという事がいまいちよくわからない。
どうすることも出来ないまま時は過ぎ、告白すること無く心にそっと蓋を閉じた。

3.高校入試

頭は良くもなく悪くもなく平均的だった。
とりあえず普通科の高校へ進学することを考えていたが。
”まだ見ぬ世界で、自分を試してみたい”そんな思いがいつしか湧き出てきていた。

小中学校と小さな学校だったためほとんど同級生の顔ぶれは変わらず、三重県の高校へ進学すれば誰かとは必ず一緒になる。それが嫌だった。
自分の過去を知らない人の中に飛び込みたい。そう思い県外の高校を調べていた。

ある時両親の知り合いから教えていただいた高校が目に止まり、学校見学に出向きそこを受験することになった。場所は千葉県柏市。
四日市市と比べたら、とてつもなく都会で魅力的だった。
しかしそこで初めて挫折をする。

推薦入試も一般入試もあっけなく不合格。
それもそのはず。過去問しか手をつけず、傾向と対策もわからずほぼ地頭だけでの受験だった。努力してなかった。
でも、県外への憧れは消えなかった。しかし、私立の高校は県立より一般入試が早いため、この時点で選べれるのは限られいる。
今度は岐阜県にある高校に一般入試で挑んだ。最後のチャンス。今回ばかりは必死だった。これを逃せば、県内の高校しか選択肢がなくなるからだ。

結果は合格。

安心した。そしてワクワクしていた。両親から離れて自分の世界を手に入れられると思ったいた。
しかし、寮生活が今後苦しい生活になるとは知る由もなかった。

今思えばあっという間の3年間。
転部したこともあり、人より多く経験させてもらった。
卒業式後Kと川の堤防で喋っていた。Kは地元の高校に進学する。ここから、別々の道が始まる瞬間だった。僕もKもそれぞれの道を歩み、大人になってまたキャッチボールしようと約束をして僕の中学校生活は終わった。

◆高校時代

迎えた入寮当日。

家から車で約1時間30分ほどの人里離れた山の中に僕が通う学校があった。

家から布団や着替えなど一折準備して向かった。入寮の手続きとチューターと呼ばれる学生寮を管理している先生との面談を終え、寮に向かった。

各ユニットの中に4つの個室が有り、2,3年生の先輩2人と生活となる。
先輩方に寮のルール等を教えていただき、食堂で夕食を取りその日を終えると思った。

消灯後、急にとてつもない不安に襲われた。”帰りたい”
完全にホームシックだった。次の日入学式なので、まだ両親も近くのビジネスホテルにいるが明後日の事を考えると不安で夜も眠れなくなった。

結局一睡もできずに入学式の全く記憶が残らぬまま両親と別れることとなった。

ついさっきまで両親といた時間に戻りたい。5分前、いや3分前でも良い。とにかく両親と一緒に居たい。
僕の心の底から凄い勢いで襲ってきた感情だった。
親に甘えず我慢した幼少期
その思いがここで爆発した。

高校生活1年目は苦悩の連続だった。
極度のホームシックで夜は一睡もできない日々が続き、食事も喉を通らない。クラスにも馴染めず、孤立した。
日に日に声も小さくなり、人を避けるようになった。

ある日の夜中、寮の先輩数名に呼び出された。
明りをつけず、廊下から漏れるかすかな光で誰がいるか、かろうじて見えるくらいの暗さの中僕は先輩に囲まれていた。
”お前全然挨拶しねーよな””態度悪いんだよ””目つけられてるぞ””寮の中でも足引っ張ってんだよ”様々な罵声を浴びせられ袋叩きにあった。

いわいるシバきってやつだった。下級生はこの出来事を非常に恐れてた。

もう辛い。学校辞めたい。帰りたい。

そう言って毎日外にある公衆電話で母に電話していた。

そんな僕にチューターは優しかった。毎朝僕の表情を見ては、声をかけてもらい些細な事でも一生懸命耳を傾けてくれた。夜遅くまで僕の悩みや苦しみを聞いてくれた。あの時間がなければ高校を自主退学していたと思う。まさしく恩師である。

そして寮の同級生にも救われた。とにかく迷惑かけれないと思っていたが身体が思うように動かなかった。それでも皆僕の事を全力で支えてくれた。食事や学校の配布物など持ってきてくれた。夜中遅くまで他愛も無い事を話した。本当に助けられた。嬉しかった。人のありがたみを感じていた。

周りのおかげも有り、徐々に登校することが出来るようになり、ようやく学校に慣れてきた。皆と少しスタートが遅いが、僕のペースで進む決心をしていた。

1.部活編

この高校生活では必ず部活動に参加しないといけない規則だった。
野球部は強化指定部で寮も完備している高校なので、全国から選手を集めて本気で甲子園を目指している。そんなところに僕はハナから入部はするつもり無かった。

音楽系は吹奏楽部、ピアノ部、和太鼓部の3つ。
僕は悩んだ挙げ句和太鼓部に入部した。

打楽器にも興味があり、小さい時に街のお祭りで和太鼓をやっていた経験から入部に至った。入部して気がついたが、女子率が以上に高かった。
男子は全体の2割もいなかった。色んな意味でドキドキしてた。

和太鼓部の主な活動は年に一回の吹奏楽部とピアノ部の合同で行う定期演奏会と地域のお祭りや成人式に呼ばれるなどのイベント出演。
そして一番力を入れる岐阜県総合文化祭郷土芸能部門のコンクール出演だ。
最優秀賞をもらった学校だけが全国に行ける為、年に一回の大会に全てをかけて練習する。

1年生の頃は演奏メンバーになるわけでもなく、箸にも棒にもかからないまま終えていった。

2年生の時にこの大会における衝撃的事実を知る事となる。
少ない男子生徒の僕が大太鼓を任され演奏メンバーに入ることが出来た。
しかし引っかかっている事が1つあった。

この大会は毎年同じ高校が勝ち続けている。確かに上手い演奏をする。しかし、勝てない相手ではない。去年も贔屓無しで見てもいい勝負していると思う。しかしいつも2位。
なんか、納得が行かなかった。
先生にその思いをぶつけてみた所、出来レースに近いと答えが帰ってきて衝撃を受けた。

”毎年勝ち続けている高校が開催会場を押さえ、審査員を選定し保護者会が送迎をしている”

信じたくはなかったが、心理的に情が働く環境だと高校生なりに思った。
この時最後の大会は圧倒的に上回らないと勝てない。オーディエンスを巻き込んで、審査員の意識を完全に持っていく。そう心に強く誓った。

手に豆が何回も出来ては潰れの繰り返し、今なおその豆が残るほど練習した。無我夢中だった。メンバーと心を1つにし、目には見ることは出来ないを信じた。感覚が研ぎ澄まされ、根拠のない自身がついた。
勝てる気しかしなかった。

大会当日、周りは緊張していたがやたら僕は冷静だった。
舞台袖で円陣を組んだ時、僕はキャプテンでもなんでもないけど皆に言葉をかけた。

"今ある自分を信じ、仲間を信じ、音を信じて審査員の心を貫くぞ いいな!"

本番は圧倒的だった。
常勝高の保護者も、今年はヤバいという言葉を漏らしていた程だったらしい。

全ての演目が終わり、結果発表の瞬間。
僕たちは最優秀賞だった。僕は客席を立ちメンバーの歓喜の声と同時に”全国だぁ!!!”っと大声を張り上げた。

圧倒的不利な状況からの逆転劇。こんなにも必死になったことは無かった。本気で掴んだ全国の切符だった。顧問も生徒もボロボロ泣いた。僕も人目を憚る事無く泣いた。我慢をせず嬉し涙を噛み締めた。

3年生の夏、全国大会のステージに無事立つことが出来た。
もうこの時は幸せな気分で勝ち負けよりも、全国の舞台を踏めたことが何よりも嬉しかった。本当に幸せな瞬間だった。

2.大学受験

高校での成績は良くもなく悪くもなくだ。しかし僕の夢は明確だった。
和太鼓部でステージに立つ時に必ずお世話になる舞台スタッフ。その方々の存在がいつしか憧れになっていた。裏方の美学に惚れ込み、特に音響エンジニアに憧れた。
当時は専門学校から就職という道が一般的と言われいたが、僕は大学を選択した。

名古屋芸術大学音楽学部にサウンドメディア学科というのが存在し楽曲制作及びレコーディング・エンジニアのカリキュラムの中に音響も含まれているためそこを目指した。というか、そこしか考えられなかった。
なぜなら、実家から通える範囲で考えていたからだ。
高校3年間実家から離れて暮らし、親のありがたみを感じていた。
関東の大学へ進学して、一人暮らしをする選択は皆無だった。

高校から推薦をいただき、小論文と実技を経て音大に合格した。
そう実技をしたのだ。もちろん独学でやりきった。
大学の先生方からは
”あなたレッスン受けたことないでしょ”の一言。
バレバレであった。

3.居酒屋てっぺんとの出会い

高校も3年生の2学期が終わると、進路が確定している生徒は実家に帰省する事になっていたため、僕は苦しんだ寮生活から開放された。

実家に戻っても、卒業式まで自由なので自動車免許を取るかアルバイトをするしか無かった。
高校3年の同級生で地元が近い友達がいた。
彼から急に電話が来て、「悠人今暇してる?桑名に”てっぺん”っていう面白い居酒屋があるんやけど、一緒にいかへん?」
そう言われ、一緒にお店に出向いた。
しかし、ついた時間は16時頃。居酒屋としては早すぎる。そうオープン前だった。食事をしに来たんと違うのか???
よくわからずお店に入ると、とてつもなく元気のいい声で挨拶してくれた。
正直圧倒された。何だここは!!
通された座敷に座り、店長さんから一言
「今から本気の朝礼を行うためのオリエンテーションを始めます。」
??どういう事??

この居酒屋てっぺんでは本気の朝礼が有名で営業前にスタッフ全員でテンションを上げ、最高のコンディションで営業をスタートさせるというもの。

そこに一般の人も参加する仕組みがあるらしく、今回それに友達は応募していた。

いやいや、話が違う。しかし、その朝礼を参加して人生が変わった。

朝礼が始まると、
まず目を閉じて瞑想する。最高の状態をイメージをする。
そして「おはようございます!!!!」とバカでかい声で挨拶。
その時点で僕は若干引いている。。。
そこから挨拶訓練をする「いらっしゃいませ」「ありがとうございます」など挨拶を全力で繰り返す。基本全力。喉が痛い。
そして、スピーチ訓練というのがある。そこでは、スピーチのテーマがその場で発表されそれについて全力でスピーチするという訓練だ。
そして、そのスピーチする順番は挙手で決まる。
判断基準は
速さではなくエネルギー量。全力で挙手をし全力でハイ!!と言う。
本気で行かないとだめだという事。僕は本気で取りに行った。チャンスを掴みに行った。トップでは掴めなかったが、指名していただけた。
スピーチテーマは夢。
本気で自分がやりたいこと、なりたい未来を声を枯らして話した。
そう、裏方としての夢を。

その日の帰り彼に誘われて”てっぺん”でアルバイトをする決断をした。
基本的に学校が無いため、バイトの日は仕込みから入った。僕は調理に彼はホールに配属された。

いざバイトに入ると覚えることも多く、まさに戦場。初めての社会は凄まじいものだった。社員もアルバイトも関係なく同じように扱われた。たしかにお客様から見たら社員もバイトも関係ないからだ。
ダメな時はとことん詰められる。高校生だからと言って容赦ない。バイト上がりに何回も落ち込んで涙を流した。
それと同時に本気で改善しようと取り組んだ。仕込みが間に合わない時は店長にお願いして、早く出勤させてもらって仕込んだ。効率よく料理を提供出来るように工夫を重ねた。お客様が元気になっていただく事を常に考えた。チームが絶好調になる為に尽くした。がむしゃらになった。

アルバイトを初めて直ぐに店長から、名刺作る提案をされた。初めは「アルバイトなのに名刺を貰えるのか!」っとびっくりした。
しかし、名刺を作るにあたって条件があった。行動力基本動作10カ条という紙を渡された。


第1条  ぐずぐずと始めるな。時間厳守、行動5分前には所定の場所で、仕事の準備と心の準備を整えて待機せよ。
第2条  行動に当たっては、短時間で最高の成績を上げることを心に誓え。そして心の中に達成意欲がメラメラと燃えるまで は決して、行動に移ってはならない。やってやるぞと一声叫べ。
第3条  指示を受けたら大きな声でハイと返事をし、ただちにとりかかること。いったん行動を開始したのちは猟犬の如く忠実 に、キツネの如く賢くそしてライオンの如く勇猛に。
第4条  はじめに結果の報告書を作成し、仕事の進行と共に空欄を埋めてゆけ。これを企画という。
第5条  行うべき作業を列記し、項目に優先順位を記せ。
第6条  行動は敏速を旨とす。このためには動作はきびきびと、言語は簡潔明瞭にてきぱきと進めよ。
第7条   質問されたら全員即座に手を挙げあげ、指名された者は簡潔明瞭に答えること。わからない場合は、わからない旨 はっきり答えよ。
第8条   いかなる困難に直面しても目的を放棄せず時が深更に及ぼうとも最後までやり遂げる不退転の強い意志をもて。
第9条   行動の価値を決定するのは、所要時間と結果の良し悪しである。最も短い時間で最良の結果を得られるよう、常に 手順・方法を工夫改善し、昨日より今日、今日より明日と、時間の短縮と結果の向上を図れ。
第10条 行動は命令者への結果報告によって完了する。やりっぱなしは何もしないよりまだ悪い。報告及び事後処理を完璧に やれ。

これを一言一句間違える事無く制限時間に本気で暗唱する。

これで本気度が試される。僕は暗記が得意では無いので、時間がかかっていたが名刺を欲しさに努力した。
友達が先に試験を受け、2回で合格していった。
正直焦っていた。ライバル視はしていないつもりだが、周りから比べられていると感じていた。
いざ試験になると出勤しているメンバー全員の前で大声で行うため記憶が飛んだり詰まったりして僕は3回落ちた。
情けなかった。朝礼前に行う試験の為、落ちた日は全然テンションが上がらない。その日の出来事でこんなにもポテンシャルが発揮できないと肌で感じた。

営業終わりのある日店長に呼び止められ、
自分で掴みに行く事を忘れてはいけない。出来るイメージを持ち続ける。自分一人ではなく、仲間にも助けを求めて練習に付き合ってもらえ。そうすれば必ず結果はついてくる。そしてその結果が一人の喜びではなく皆の喜びに変わる。そう当時の店長に教えていただいた。今でもハッキリ覚えてる。
リーダーっていう存在の大きさと安心感を肌で感じた。

4回目の試験でようやく合格。本当に嬉しかった。アルバイトの僕に対しても全力でスタッフ全員喜んでくれた。そこには本当の絆があった。比べられていると思っているのは自分自身の勝手な妄想だった。

そんな”てっぺん”でのアルバイトも大学が始まると、なかなかシフトに入ることが出来なくなり、皆に惜しまれながら”てっぺん”を卒業した。
短い期間だったが、本当に濃かった。社会の厳しさ、社会の楽しさの両方教えていただけた。
そして何より、夢を持ち続ける大切さと仲間の絆を教えてもらった。

◆大学時代

今まで音楽を独学でやってきた僕なので、1回生から出鼻を挫く事になる。
音大の必修科目、避けては通れない”楽典”という講義があった。音楽理論の講義だ。

さっぱり解らん。。。感覚人間の駄目な所全開だった。
楽典に関しては、努力しかないと思ったし、楽曲制作では必ず必要となってくる科目。地道にやっていたが、テストはいつもギリギリのラインだった。

そしてもう一つ。ピアノのレッスンも必修だ。
これも独学でやってきたツケが回ってきていた。指の使い方からペダルの踏むタイミングなど、全てを否定されズタボロだった。これに関しては直す気はさらさら無かった。なぜなら、楽しくないから。自分のやりたいスタイルで音楽を楽しみたい方が優先順位は上だった。
そこで先生とは衝突を繰り返し、大学へ行くのが億劫になった。

音を楽しみたいと思っていたが、そのために我慢をしなければならない事が息苦しかった。そのときには音楽を楽しむことはできなくなっていた。

通学の電車の中で毎日自問自答していた。
僕の出した答えは3回生に上がる時に自ら大学を去る事だった。

高い入学費を支払ってもらいながらも、その自覚がなかった。そして自分に驕りがあった。情けなかったと本当に思うし両親には申し訳ないことをした。

中退した事を恥ずかしくて言えなかった。黙っていた時期もあり、卒業していると思っている方もいるかも知れない。言い訳になるかも知れないが、素直に打ち明けることが出来ない弱い自分が出ていたと思う。この場を借りてお詫びいたします。

◆社会人舞台編

僕は舞台の夢は諦めなかった。地元のライブハウスでアルバイトをしたり、イベントの設営スタッフの派遣などもした。

アルバイトの度に裏方への思いが増し、行動を始めた。

同じ三重県にある舞台制作音響会社の社長と連絡を取ることが出来た。
アポを取り、直接出向き働かせて欲しいとお願いした。

ライブハウス等での経験が有り、ケーブル裁きやマイクの取り扱いなどは一通りこなせたので即戦力で雇ってもらえた。

しかもなんとバイトなのにも関わらず、ツアーに同行することになったのだ。
出演者は海外から来日されたバンド。
群馬・横浜・名古屋の3都市を回る日程でワクワクしながら出発した。

初日は群馬県伊勢崎市の市民ホールでの催し。
前日近くのホテルに泊まり、当日朝から舞台のセットをしていた。

セットが完了してからリハーサルの予定なのだが、演者がなかなか現れず舞台の上で照明さんと世間話をしていた。そうしたら、”カタカタカタ”っと照明器具同士が当たる音が聞こえた。
照明さんが「地震???」っと言葉を放った瞬間、凄まじい揺れを襲った。

舞台から客席に飛び降り、屋外へ全力で走った。
ロビーの立派なシャンデリアが崩れ落ち、ガラスの扉は割れ凄まじい状態。
なんとか駐車場までたどり着いたがますます揺れが大きくなり立つことすらままならない状況。駐車してある車の列が前後に乱れるほど激しく揺れた。
本当に生きた心地がしなかった。

これが後の東日本大震災だ。

すぐさまハイエースに逃げ込み、携帯のワンセグでニュースを食い入るように見た。
自分たちのいる伊勢崎市は震度6。
それと同時に津波の衝撃的な映像が流れ、スタッフ全員が息を詰まらせていた。恐怖で震えが止まらない。すぐさま両親にはメールで連絡が出来たが、今後の動きがどうなるか分からないと伝えた。
ここからが本当に大変だった覚えがある。

余震が続く為、伊勢崎のホールは催し物が全面中止となり、撤収をせざる負えなくなった。

避難経路を確保しながら撤収したが、ツアースケジュールは強行すると言い渡され、横浜に向かったが高速道路は全て通行止め。下道での移動となりかなり時間を要した。横浜と名古屋の移動は通行止めが解除されたので高速道路で移動だったのが不幸中の幸いだ。
その道中、対向車線には自衛隊や救助隊のと何回すれ違ったか分からない。
今日本は危機的状況に直面していると肌で感じていた。
それと同時に命の大切さと生きている有難みを肌で感じた出来事だった。

それから月日が経ち、晴れて正社員として働かせて頂けることとなった。
そして社員になる以上自分の中で決めたことがあった。

毎月自分の給料以上の仕事を取ってくる。音響エンジニアと同時に営業としての意識も備えて仕事をする。

これだけは必ず取り組んだ。積極的に営業したし、自分で催し物も企画運営もした。ありがたいことにライブハウス界隈の方々から仕事が舞い込み営業成績は常に社内トップだった。

業務の方は、刺激的な毎日を過ごしていた。散々怒られもしたが、無事に本番を終えた達成感が僕は大好きだった。
主催者の笑顔、お客様の拍手、演者の涙。すべて僕のエネルギーとなり。どんどん創作意欲が湧いてくる。
本当に天職だと心の底から何度も思った。

所属していた会社は、地方テレビ局の進行ディレクター業務も請け負っていて、夕方の生放送番組を担当していた。
この生放送での業務も僕はとても楽しかった。程よい緊張感の中、出演者とアイコンタクトを取りながら進行するチーム感が何とも言えない心地よさがあった。

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(情報番組フロアディレクター時代)

この一瞬に一生をかけて仕事にいつも臨んでいた。
舞台の本番は長くても2時間程度。
同じ空間を共有できる人たちなんて大ホールで多くて1000人ほど。
その人生の中でのたった2時間を、一人ひとりの思いに残すことが真の仕事だと僕は常々感じていた。そこに美学があると確信していた。紙にも写真にも残らない。映像には残るかも知れないが、空気感や躍動感などは映像から感じ取ることは不可能。
その場にいないと味わえない感動。興奮。全てがこの舞台には詰まっていると信じていた。

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自分の行動で夢を掴んだこの仕事。給料が安くても毎日充実していた。朝早くから家を出て、日付が変わるまで仕事をするとか当たり前だった。体力的にも精神的にも辛かったが好きだから出来た。
しかしその思いも3年と短い期間で終わってしまう。

◆社会人家業編

とある日、弟から相談したいことがあるから飲みに行かへん?と言われ、近くの居酒屋に二人で行った。

当時弟はスポーツトレーナーを目指し専門学校で学んでいたが、余りにも試験のハードルが高く挫折していた。

そして弟からの相談の内容が、
「俺、専門学校卒業したら家業に入ろうと思うんやけどええかな??」

僕の答えは、もちろんOKである。
むしろ、その方がありがたい。僕はやりたい事を全うしていた。大好きな舞台の仕事を続けるつもりでいた。
しかし心のどこかには弟が家業を継ぐ事で、実家での居場所が無くなるのではないかと不安になっていた。

違う日に突然今度は父に呼び出され
「慈人(弟)が家の仕事を手伝ってくれると言っているが、私は悠人に会社を継いで欲しい。そして兄弟で力を合わせて会社を守っていって欲しいのが私の願いだ。どうだろうか?家で働かないか?」

展開が急過ぎて頭が真っ白になった。

しかしここでまたしても我慢を発動してしまった。親の言うことを聞いた。というか、もう逃れられない現実がそこにはあった。

昭和2年創業の老舗建設業。地域では誰もが知る会社だ。実家の近くを歩くと声もかけられる。
「あんた伊藤さん所の四代目かい?大きい身体で恵まれてるね!将来安泰だよ」
ご近所でこんな言葉が掛けられるのは日常茶飯事。
しまいには、会社の取引先から挨拶まで来る。まだ継いでもいないのに。

どんどん外堀を埋められたと言うか、気持ち的に断れない環境がそこにはあった。
そして舞台の仕事を諦める気持ちを作り出した。

仕方ない。社員も抱えてるし僕がやるしかない。我慢すれば両親や弟は喜ぶ。ましてや先代の祖父母も大喜びだ。

様々な気持ちと言葉を自分に投げかけて、やりたい事に蓋をした。

舞台音響会社を退職する事を社長に伝えた。非常に残念だが家業を継ぐなら仕方が無いと言われた。

本当はこの会社に残ってもっと舞台と携わりたいのが本心。
いつしか自分に嘘をつくのが上手くなっていた。

そして2014年3月僕は嘘の人生を歩む事となった。

全く一からのスタート。戸惑いも隠せず現場に行った。
全然楽しくない。そんなこと初めからわかってた。

4月に入り、父からの勧めで半年間修行に出向くこととなった。
場所は群馬県で兄弟二人暮らし。弟とは仲は良かったので、喧嘩などもしたことが無い。
弟は初めて実家を出る事となり、かなり不安だったらしいが僕と一緒だから大丈夫と言っていた。

最初の3ヶ月は職業訓練所で基礎的な事を徹底的に叩き込まれた。
毎日辛かったが無心でこなした。

残りの3ヶ月は実際に現場で作業になる。
僕と弟は新潟に出張となった。
しかも職長として仕切る立場で新築現場を任されたのだ。

おまけに他のメンバーは日本語もままならないインドネシアからの外国人実習生。
さすがにきつかった。。。
建設業界に入って3ヶ月で現場職長は未知の世界。
図面の読み方も、施行方法も解らずすべてが手探りだった。
上司に電話を掛ける毎日。
あのときは死にものぐるいだった。遅れれば遅れるだけ他の業者に迷惑がかかるため、常にプレッシャーが重くのし掛かる。

普段仲いい弟とも言い合った事もあったし、言葉が通じないインドネシア人にも当たっていた。精神状態は追い詰められていた。

毎日、年上の業者の方々に指示を出さなければならなかった。
しかし、前職の経験がここで生かされる。人を動かすのは進行ディレクターのノウハウが生きる。
知識は無いなら聞けばいい。出来なければ、やってもらえばいい。誰でも出来ることを自分がして、スケジュールを管理する事に重点を置いた。

そうしたら、現場がスムーズに動き始めた。
ちょっと嬉しかった。

僕は作業員では無く、人を使う事の方が長けていると改めて感じていた。

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(左から:弟 外国人実習生 僕)

出張先の現場も無事に完工して、僕達の修行が終わった。

実家に帰ると、家業の仕事が忙しく毎日遅くまで働いた。大きな物件ではなく一般住宅がメインだ。帰ってきて初日に現場で先輩社員に衝撃的な一言を浴びせられた。

「修行先で教えてもらった事は全部忘れろ。うちにはうちのやり方がある。」

じゃあ何のために修行に行ったんだよ…

正直意味がわからなかった。
罵られながら好きでもない仕事を続ける事はすごくエネルギーを使った。

とにかくこなす。無心で業務を終わらせる事ばかり考えていた。
しかし、社長(父)は僕がなにかミスをすると決まって渋い顔をしながら「ほんま頼むわ。格好が付かない。」
と何度も僕に言ってきた。

この言葉を聞くのが本当に嫌だった。
別に頼まれるほどの事をしたくなかった。
こんな思いをしながらずっと仕事をしなければならないのか。
毎日自問自答の日々。
長男じゃなかったら今頃どんな人生を歩んでいたんだろう。
いつしかこんな感情まで出てきてしまうほど。

このままずっとこの仕事を続けていかなければならない。
会社を継がなければならない。
社員を守らなければならない。

”ねばならない”が、並んでいた。

そのころは周りがうらやましかった。飲食店を始める友達や、会社を立ち上げて頑張っている先輩。
お祝いするたびに、僕はこの柵がなければ何をしているだろう。と何度も考えていた。

もがいていた。自分で決めつけた抜けれもしないトンネルの中で。

◆結婚してからの変化

家業に入り5年目の時、僕は結婚した。
相手は、地元での友達。
知り合って長いが、些細なことからお付き合いに発展しそのまま結婚。

妻は、四日市でエステサロンのオーナーをしている経営者。
エステティシャンが私の天職!っと良く話してくれていた。キラキラしていたし、心の底から羨ましかった。
でも僕は家族を持った以上、さらに家業をなんとか続けていかなければならないと自分に追い打ちを掛けていた。

そんな妻からある日突然

「そろそろ痩せたほうが良いんじゃないの?」
「肥満外来の病院予約しておいたから行ってきて。」

ダイエットという事を真剣に取り組んだことがなかった。
恥ずかしさがあったが妻にも迷惑かけれないし、増えるであろう家族の為と思い病院に向かった。

一通り栄養素とカロリー計算などの知識と主治医からのカウセリングを受け、ひとまず自分でやってみて駄目なら薬を頼りましょうとの事。

医者に頼まないと減量できない自分の意志の弱さが情けなかった。
ここから変わると心に誓い、半年で30kgの減量に成功したのだ。

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妻には人生を変えてもらったし、自分に自信がついた
心から妻には感謝している。

人は本当に変われると自分で体現したのだ。

◆コーチング・GOAL-Bとの出会い

そんな家業に勤めて7年が過ぎた。この頃になると現場を統括し、自分自身も現場に出向き作業をするという働き方になり、工事部長という肩書までついた。

ある日お世話になっている労務士さんの勧めで事業継承について本格的に学ぶセミナーを父と出席した。

ついに来たな。。。そんな気分だったのを覚えている。

いよいよこの仕事で骨を埋める覚悟をしなければならないのか。
7年も自分に嘘を付き続けていた僕の心が震えていた。

そんなときにyoutubeでAKIOBLOGに出会った。

”今日も最高の1日にします!!”

この言葉が当時羨ましかった。
最高の1日を目指す事なんて考えてもいなかった。むしろ、何事もなく1日が過ぎてほしいと思うほど。しかし、この動画を堺にどんどんハマっていく。
こんなに生き生きした人生送ることができたらどれだけ幸せだろう。
動画が更新されていくにつれて、自分の人生を見直す時間が増えていった。

本当に何がしたいのか。答えは出ていたはずなのに動かない。動けられない。

でも、だらだらと月日が経つのが嫌だった。

これはコーチングを受ける他ない。

GOAL-Bのホームページを開き、そこで気になる人に目が止まった。
古川誠さんだ。

居酒屋てっぺん出身に心ひかれた。
すぐさまオリエンテーションで顔合わせをした。長々と自分の話しをしてしまったが、とても充実した時間がそこにはあった。

コーチングがスタートして、自分自身と向き合いとにかく本当の自分をさらけだそうとするのだが、なにせ自分に嘘をつくのがうまいのですぐ仮面を被る。どこかしらで今の現状基準ですべてを考えていた。

コーチングセッションを何度か受け数日たったある夜、ふと山宮健太郎さんとAKIOBLOGさんのルーティン動画を見ていた。

ちらっとWeworkのTシャツとマグカップに描いてある言葉に目が止まる。

Do what you love. "好きなことをする"

衝撃が走った。
その夜、無意識に
「我慢しなくていいから、自分の好きなことをとことんしなさい。
我慢しなくていいから、自分のやりたいことをとことんしなさい。」

と泣きながら娘を寝かしつけていた。

娘が寝てから、暗い部屋の天井を見上げて放心状態だった。

自分の使命って何だ?命の使い道を真剣に考えた。

そして僕のゴールが降りてきた。

【好きを実現する社会を作る】

そこから人生が動き出した。

◆動き出す自分の人生

凄まじいスピードで人生を動かし始めた。

とにかく知恵が欲しく本を読み漁った。
なにができるのか解らなかったが、とにかく読んだ。
今まで本を読む事すらしてこなかった僕が何かに取り付かれたかのように。

そしてやりたいこともっと探求していくために、GOAL-BのHuddleという目標達成コミュニティサロンに参加した。

このコミュニティーサロンのzoom交流会で運命的な出会いがあった。

久保田甲斐さんだ。

パワーリフターで大会でも素晴らしい結果を残している。
彼の真っ直ぐな眼差しで、

来年にGOAL-Bでパワーリフティングの大会を開催する。

この一言が、僕の心を動かした。

完全に求めていた環境、景色、イメージが想像できた。
思いが溢れて止まらなかった。明らかに興奮していた。

交流会後古川さんのコーチングセッションが入っていたが、
終始甲斐さんの事を話していた。
そして古川さんにお願いして甲斐さんとつないでいただいた。

人生が動いている。タイミングと行動と周囲の支えとがリンクして。

止まることが怖くなるくらいワクワクしていた。

身体が勝手に動いていく。次の日には名古屋にあるGOAL-Bジムに向かっていた。そこで甲斐さんと、今回の舞台について熱く語り合った。

この映像から解るくらいワクワクしている。こんな自分をここ最近見ていない。
僕はこの動画をいつしか何回も眺めていた。
無意識に「やっぱこれだよな」っと言葉が出ていた。

◆これからの自分~忘れていたものを取り戻しに~

僕はコーチングとGOAL-Bに出会ってから劇的に人生が変化していった。

約100年続く老舗の建設会社の家に長男として産まれ、一度掴んだ夢を自分の作り出した意思で手放した。

沢山我慢した。嘘の自分を正当化するために、仮面をかぶり続けた。
しかし、もう良いだろう。

コーチングを受けている中で古川誠さんに
have to (~しなければならない)ではなく wont to(~したい)で生きる
と教えていただいた。

”~したい”とか烏滸がましい。自分勝手だ。と最初は思っていたが、
誠さんに「自分の人生、自分が主人公ですよ」と教えていただき、気づかされた。目が覚めた。

僕の本来やりたい姿は裏方

そして、自分のゴールである

【好きを実現する社会を作る】

その根底には

”人の好きに携わりたい”

僕が好きを実現したい人の裏方をする
好きが実現している人々を見て刺激を受ける人が増える
その刺激を受けた人が好きを追求し行動し始める
追求し行動を始める人が増え社会全体に広がる

このサイクルが回り始めた途端に僕のゴールは近づく確信があり、完全に僕のやりたい事の先にゴールがある状態。

僕は人生をささげる決意をしました。

素直に心の中が満たされ、エネルギーが湧き出る感覚があった。

僕はこれからの人生、何があるかわかりません。
しかし僕は以下のことを決めました。


自分に嘘をつかない。自分に素直になる。自分を好きになる。

この3点は絶対に持ち続ける事を誓います。

今までの人生は自分に嘘をつき、自分に仮面を被り、自分が嫌いだった。
人生は選択の連続です。一つ一つの選択において自分と向き合い決めて行きます。

この行動によって本当の自分に出会えることができ、心が最高の状態に持っていくことが出来る確信があります。
自分の心が最高の状態になると、自然と周りの人達も最高の状態にすることも出来る。

そして常に感謝し続ける。
当たり前ではないこの環境。周り支え。これまでの人生。そしてこれからの人生。
自分一人では出来なかったことも周りの方々に支えられ成し遂げられた。
そして、両親から頂いたこの命に感謝してこれからの人生歩んでいきます。

これからの自分は挑戦し続けます。
好きを実現する為にとことん追求し、実現するために挑戦し続けます。
必ず素晴らしい世界を見せれるよう、努力し続け最高のステージを作り続けます。

ここまで長いお時間お付き合い頂きありがとうございました。
僕の生き様を読んでいただき、少しでも自分に素直になれる人が増えれば嬉しく思います。

別に特別な事は必要ないと思います。
僕も自分の気持ちに正直に生きていきます。

好きな気持ちを大切に。好きが実現するように。僕は縁の下の力持ちという舞台が大好きです。

好きが実現する社会を作ります。

ありがとうございました。

伊藤悠人SNS
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