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僕の「惑星ザムザ」評に対する布施琳太郎さんの応答への再応答

僕は先日、美術手帖に拙稿「鑑賞者と芸術がともに思考する作品を求めて。石田裕己評「惑星ザムザ」展」を寄稿いたしました。そうしたら、です。このタイミングで、「惑星ザムザ」キュレーターの布施さんご自身から応答をいただく形になりました。

批評から議論が出発する。そのようなことはアートにとってとても良い(が珍しくなってしまっている)ことであるように思い、そのきっかけを作れただけで執筆の意味はあったのかな、などと思います。

特に後半は、僕への応答というよりは布施さんご自身の今後の活動についてのステートメントのようにも感じられ、僕の議論の範疇から大幅に離れるものとして読みましたが、とはいえいくつか応答すべき点があると思い、それを述べつつ、僕が当時考えていたこと、そして今考えていることを明確にしましょう。

言うまでもないことではあるのですが、上の二つの記事を読んでいないと全然文脈が分からない記事となっているので、まずはそちらを。

布施さんの僕に対する批判で最も中心的な論点は、僕は批評を通して「目の前に作品や展覧会が存在することの衝撃を通じて歴史自体をつくり替えるような言説の創造」ではなく、思弁的実在論(SR)への接続での展覧会の「歴史的な固有名の引用による歴史化」を行っているというものでしょう。

僕がここで注意を促したいのは、僕は本文においてSRの用語を使うことを徹底して避けている、という点です。言及は註にとどめ、徹底的に布施さんのステートメントをなぞるようにして行っているわけです。

 ステートメントにおいて布施は、まず「歴史や現実」を「再組織」する「人々の想像力」が、「最も知的で複雑な営み」であることを指摘する。「書物的な理性」と関連する、物質を「安定したテキストやコンテキスト」へと至らしめることとも表現されるこの営為は、まさにこれまで見てきた概念的な認識、すなわち、人間が、ともすれば理解不可能でもありうるモノを理解可能な物語へと当てはめていく形式にほかならない。ここでは歴史・現実・物質が、人間によって認識され物語化=再組織化される対象──われわれの議論における〈モノ〉にほぼ対応する──として並置されている。

だいたいこんな感じです。これは、「批評家が流行思想に恣意的に当てはめて展覧会を論じている」といった印象を与えることを避け、そもそもとしてキュレーションがそういった思想との高い親和性を備えている、ということを示すための戦略でした(し、これは註4にも明示してあります)。

そもそもSRに限らず、(エコロジー的でもある)「人間以前の物質」のような論点の展覧会は相当に「流行り」であり、「テキスト以前の物質から思考を開始する」「惑星ザムザ」もまた、そのような流れに位置づけられうる展覧会ではなかったでしょうか。

そして布施さんご自身が、以前からSRに対する造詣の深さを示されている部分もあり、こちらの記事では、SRとの関連がしばしば指摘される哲学者であるカトリーヌ・マラブーに触れ、しかもカフカの『変身』——いうまでもなくザムザの由来ですね——が参照される箇所に言及されている。

彼女は『偶発事の存在論: 破壊的可塑性についての試論』において、いくつかの文学作品を引用しながら破壊的可塑性というアイデアが何を意味するのかを露わにした。例えばカフカの『変身』について「グレゴール(・ザムザ)の目覚めは、破壊的可塑性の完全な表現であるように思える」と述べている 。

マラブーと「惑星ザムザ」の関係は応答でも示唆されています。これらから、キュレーションの際にSRはある程度意識せざるをえなかっただろう、というようなことは言えるだろうと。

布施さんが意識されることと実際に展覧会が議論に接続されることはもちろん別の話です。しかし、接続を避ける仕掛けはあまりなかった。固有名や具体的な言及はないけれど、相当に近い議論をしている。

つまり何が言いたいかというと、実際に引用してはいないとはいえ、「歴史的な固有名の引用による歴史化」のベクトルはキュレーションそれ自体に内在していたのではないか、ということです。そしてその投機性を批判するのならば、その批判は自らにも返ってきうるのではないか、ということです。

SRを踏まえて批評した僕は、ある種完全にそういう展覧会自身の「誰にどう批評されたいか」にのせられた形になると思います。そして、そこを透明化してSRの導入の責任を一方的に僕に帰するのはフェアではない気がする、とも思います。

僕が註で「マイクロポップ」を持ち出して説明したことを再び述べれば「現代思想などの同時代の潮流とも関連づけながら、若手から中堅の数多くの作家に共通する志向性を見出そうとするキュレーションの戦略」を重要なものであると考えております(松井みどりさんをとても尊敬していますし)。しかし、布施さんご自身の論に即せば、その戦略を「持ちうる」展覧会であった点は「惑星ザムザ」の失敗となってしまうように思われます。

実際、そのようなベクトルの前景化によって作品の可能性が縮減されてしまった事例もあったと考えます。そして、このような縮減が最も明確に表れていたのは、百瀬文さんの《Born to die》ではなかったでしょうか。

この展示の文脈では、文化的な文節の前の(性行為の矯声/出産の苦痛の声を並列的に発する)物質としての人間身体の露呈という点が強調されますが、その結果、フェミニズムの文脈で作品が持つすぐれて政治的な潜在性、すなわち、「女性がインターネット空間や生権力の中で、提示されるパイプ同然の、男性に都合の良い欲望の対象になるか人口の再生産の道具になるかの二者択一に陥る事態を痛烈に批判すること」が見出しづらくなっているように思われます。

そして<鑑賞者と芸術がともに思考する作品>については僕の記述と布施さんのご理解に齟齬があるようにも思われるので、こちらで少し言及しましょう。

ブリオーの戦略については、むしろ〈鑑賞者が芸術を通して思考する作品〉に該当し、(美術史的な接続はともかく)「惑星ザムザ」の戦略と親和性が高いように思います。
「崇高」は、「思考不可能なものをその思考不可能性において思考するような局面に出現するもの」であると(きわめて暴力的に要約すれば)説明できます。そういった、日本の文脈で言えば「否定神学」的でもある方向性は、「テキスト以前の物質」(あるいは「理解不可能な個体──時として、人間以外の形をした人間──」)を出発点としながら、それでもなおそれについての言葉が生じることを目指す布施さんの戦略と合致するのではないか、と思います。

では、<鑑賞者と芸術がともに思考する作品>はいかにして語りうる(と僕が執筆時点で考えていた)か。言葉としては抽象的でしたが、僕が想定していたのは極めて具体的な次元——すなわち、それぞれの芸術作品がおよぼす作用と、それがいかにして鑑賞者に経験され、全く別のあり方をもたらすか——においてです。記事では素描に留まりましたが、例えば倉知さんの作品について述べれば、それぞれのシーンを取り出し、さらにそのつなぎも含めてもたらしうる効果を分析することが、その思考の記述にとって肝要となるでしょう。

そこにおいてこそ、布施さんがおっしゃるところの、「目の前に作品や展覧会が存在することの衝撃を通じて歴史自体をつくり替えるような言説の創造」も可能になるように思います。

そしてスペクタクル批判は、集まること自体に対する批判ではなく、それによって鑑賞がアトラクションと変わらない消費の経験に還元され、展覧会の「出口に到達したとき、昨日までと同じように生きていくことができなくな」ることが不可能になる事を問題としていたわけです。

そうした還元において、「惑星ザムザ」もまた、「地球環境へのアクチュアルな介入を行うつもりもなく口にされる「環境危機」や「人新世」という言葉」同様の「処方箋」になってはいなかったか、ということを僕は思っていましたし、その印象は記事のクラインへの言及などを読んでも変わらない気がします(鑑賞者にとって、一時的に不在を肯定してくれるセラピー的な経験となって、実質的には変化がもたらされないこと)

ここからは自分の話題となってしまい恐縮ですが、2~3週間ほどの記事の内容の反省を通じて、僕の考える<鑑賞者と芸術がともに思考する作品>という枠組みもまた、一つのセラピー的な処方箋にすぎないと思うようになりつつあります。

執筆以前から、この枠組みから出発して展覧会をキュレーションしたいな、のようなことを思っていたのですが(それが記事執筆のモチベーションでもありました)、執筆を契機として再考することを余儀なくされました。

ということで(何も確定していない事の宣伝となり本当に恐縮なのですが)、僕が今目指しているのは、「惑星ザムザ」およびこれらの記事への応答になるような展覧会を立ち上げることです。それはおそらく来年になるでしょう。全ての流れが速いこの世界において、一年前の展覧会の応答がなされる(しかも展覧会で)など、なかなか奇妙な事態なように思います。しかし僕はそこでなにかが可能となるのではないかと思いたい。

ということで、もしよければ、布施さんやこれを読んでいただいた皆様に、この展開をお待ちいただければ、と強く思っております。場所も期間も詳細も決まっていないので、協力していただける方を常に募集しております……!スペースの方でもアーティストの方でも、ご関心ある方ぜひ…!

以上、めちゃくちゃ長い応答と宣伝でした……!二つもっとも言いたいことを切り出して来れば、にまとめれば、

・実際に引用してはいないとはいえ、「歴史的な固有名の引用による歴史化」のベクトルは、「惑星ザムザ」キュレーションそれ自体に内在していたのではないか。

・こういった(自分のものも含む)議論への応答としての展覧会を準備している部分はあるので、ご協力していただける方・スペースを常々募集しています!

ということです。

コメントなど、ぜひ僕のTwitter(@onoren2001)のDMかメール(iyuukii1015@gmail.com)まで。


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