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飲み屋って小説だ 2024/02/03

より正確に言えば、飲み屋(で繰り広げられる会話)って小説(を読んで登場人物の心情を読み解くときと同じ)だ。
「小説」の部分はあなたが好きな映画であったり、舞台であったりに置き換えてもいいかもしれない。

私は学生の頃からひとりで飲み屋に行くのが好きで、新宿のゴールデン街によく行っていた。
頻度こそ減ったものの(最も通っていたときは週4くらいで行っていた。今思い返せば異常だが、人生において大事なことの半分くらいは飲み屋で教えてもらったと言っても過言ではない)、外でお酒を飲む習慣というのは変わっていない。

先日、歌人の上坂あゆ美さんがやっている『スナックはまゆう』に行った(ヘッダーはその時に撮ったもの。スナックの看板をモチーフにしたバイオレットフィズ)。
入店直後にいらしたのは、上坂さんと、スナックはまゆう別日にお会いしたお客さん(Aさん)、はじめてお会いするお客さん(Bさん)の3名。

「万人が怒るわけではないが、自分は嫌だと思うこと(要約)」という話題になったとき、私は「遅刻の際に『n分ほど遅刻します』と事前連絡がないこと」というのを挙げた。私の主張は以下の通りだ。


  • 遅刻という事実自体に怒りはない

  • 他方で、予定時刻に対して何分程度遅れるのかがわからないと、「あと何分待てばいいのかわからないまま待つ」という時間が発生する

  • 遅刻の程度がわかれば、時間に応じた選択肢を取れるのに、それがわからないことによって、自分でコントロールできない時間が発生する

  • なので、自分の時間や選択を拘束されることに対しての怒りはある(ので連絡が欲しい)


この論理に対してAさんは同意、Bさんは不同意(上坂さんはそれぞれの意見を聞きながら、場を回してくださっていた。自分の意見は伝えつつも話の整理がめちゃくちゃ上手くて見習いたいな、と思う)。
Bさんは「自分自身は遅刻しないように努めるし、遅刻した場合は謝罪と理由を述べる」とした上で、「相手の遅刻によって生じた時間は、神さまがくれた自由な時間だと思っている」とのこと。「その感覚はわからんなあ」という感情と、「ポジティブでめちゃくちゃいいなあ」というふたつの感情を持った。

この一件から、飲み屋において発生する、普段自分が意識的/無意識的にシャットアウトしている、理解のための対話が半強制的に行われることを、面白いと思っているんだなと気付かされた(話者に悪性の感情を持たなければ、という前提条件はあれど)。
私の場合、仕事は別としてプライベートにおいては、理解できないことを「理解できないこと」として大体の場合処理してしまう。価値観の相違に対して健全な議論ができればいいが、往々にして人との議論は疲れるし、すでに自分が好きだと思っている・興味のある物事に対して理解を深めた方が精神衛生上いいと思っている節がある。

ただし、飲み屋という空間においては、会話をしないと場が成立しないことが多い。だからこそ、飲み屋で初めて会う、自分と違う価値観の人の話が好きだし、ある種の非日常が味わえる飲み屋は楽しいと感じるのだろう。

知らない人の、知らない世界の話を聞くのも楽しい。これは、タイトルに掲げた「飲み屋って小説だ」という感覚である。
自分の知らない人(登場人物)、自分の知らない感情や価値観、自分が発することのない言葉や、することのない行動について、考えを巡らせるのは楽しい。ただ、日常的にそれをやり出すとキリがなく疲弊してしまうので、本を読む時であったり、飲み屋に行ったときだったりに求めているのだな、と思った。

そして、この文章を書きながら『ラランドの声溜めラジオ(185回 25:50ごろ)』を聴いていたら、ニシダさんが鳥人間コンテストのことを「琵琶湖にでけーゴミを捨てるでおなじみの」と称していて、心の中で笑いながら「その発想はなかったな〜ラジオも飲み屋かもしれないな」とも思った(この発言に怒る人もいるだろうし、笑う人もいるだろう。私は鳥人間コンテストが好きな上で、笑ってしまった)。

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