逃げろセリヌンティウス

ー太宰治「走れメロス」に敬意を表してー

 セリヌンティウスは驚愕した。あのメロスが街でとんでもない騒ぎを起こしたらしい。「あの」というのは、セリヌンティウスたちの間では、メロスという男は「ちょっとアレ」な奴ということで通っていたからだ。
 「あのメロスが?」目の前には古くからの友人、アンドレアヌスがいる。小太りで、いつも汗をかいている。アンドレアヌスは額の滴りを手の甲で拭いながら答えた。
 「いや、俺もびっくりしたんだよ。王のところへ刃物持って乗り込んでいって逃げもせずに捕まったって」
 この一年、セリヌンティウスが住むシラクスの街は、暗く沈んでいた。王ディオニスが、毎日のように人を殺すからだ。それでも、王の目の前で目立たなければ、たとえば贅沢をしたり偉そうにしたりしなければ、そうそう市民が命を奪われるものではない。ディオニス王はやがて側近か誰かに殺される。それまで一般市民はおとなしくしておけばいいのだ。 
 「ちょっとアレなやつがいるもんだな、と思ってたら、そいつが、ほれ、あのメロスだっていうんだよ。やっぱりあいつ、アレだったよ」アンドレアヌスは嘲りと哀れみの表情を浮かべている。セリヌンティウスの心に、もやもやと灰色の何かが湧き起こってきた。「で、何だって私のところにわざわざそれを言いに来たんだ?」「おまえくらいだろ?友達だったの」セリヌンティウスは苦笑した。友達だったわけではない。ただ家が近所だったのだ。腐れ縁から逃れられないのだ。それに…私は他人からいい人だと思われたいだけなのだ。
 セリヌンティウスは石工である。生来手が器用だった。学生時代に石を削って小さな動物を作ってみたら、驚くほど女の子からモテた。友人から尊敬された。こんなに上手なの見たことない。すごい技術だ。これは一流になるぞ。皆からそう褒められた結果、気がつけば石工になって、街に工房を出していた。人からどう見られているかが気になって仕方がないのだ。 
 その点メロスは正反対であった。人の言うことは全く聞かぬ。いや、聞けぬ、聞こえぬ。5年ほど前、突然「俺は羊と暮らす!」と言い出して、たった一人の妹を連れて十里離れた村へ笛を吹きながら引っ越していった。メロスはそういうアレな奴だった。
 その時、工房の扉が激しく叩かれた。
 「セリヌンティウスはいるか!」
半ば扉を蹴破るようにして体躯のよい目つきの悪い男たちがどかどかと数人押し入った。
 「私がセリヌンティウスだ。逃げも隠れもせぬ」
 とはいえ、狭い石工の工房に窓はなく、隣接する住まいへは男たちが入ってきた扉から一度出なければならず、逃走できる道はない。
 男たちはセリヌンティウスの腕を後ろに回し縄を組んだ。
 「お前は死刑にかけられるのだ」「何ゆえに」「王城に行けばわかる」
工房から外に引き摺り出される。その騒々しさと物々しさに呼ばれるように、セリヌンティウスの美しい妻が隣の住居の戸から飛び出してきた。
セリヌンティウスが「心配はない。何かの誤解だ…」と声をかけようとしたその時、はだける衣服を直す妻の後ろ、戸の向こうに、弟子フィロストラトスらしき男が暗がりに隠れるのが見えた。
 我が弟子フィロストラトスよ。お前は我が住まいで今何を。セリヌンティウスは、妻より5つも若い弟子の、従順に見えて実は狡猾な眼差しを思い出していた。
 
 すでに陽が落ちて数時が過ぎている。セリヌンティウスが入れられた王城の薄暗い牢獄に、松明の煌々とした光と力強い足音が近づいてきた。ディオニス王とその側近たちであった。
 後ろから刑吏に剣でつつかれながら一人の男が胸を張って歩み来る。誇らしげに縄で繋がれた男こそメロスだった。ああ、やはりこの男がセリヌンティウスの重大な一事に大きく絡んでいるのだ。メロスと対顔するのはいつ以来だろうか。確か二年ほど前、セリヌンティウスが留守の間にメロスが突然家を訪ねてきて、妻に飯を作らせ酒を注がせ隣に座らせ、すっかりくつろいでいたことがあった。セリヌンティウスが帰宅するや否や、メロスは酒臭い息を吐きながら「おお、心の友よ。友だからいうのだが、お前の妻は理由をつけて私を帰そうとし、酒を注ぐのを嫌がり、眉間に皺を寄せた。私は正直者だ。お前の妻は顔も中身もいい女ではない。悪いことは言わぬ。別れるがよい」
 あの時以来、妻とは心が通わなくなった。
 
 メロスは朗々とこう述べた。メロスとディオニス王は約束した。メロスは妹に結婚式を上げさせる。三日後の日没までに帰るつもりだが、帰らないとお前が絞め殺される、と。
 セリヌンティウスはメロスが早口で言ったことが、100分の1も理解できなかった。なぜ私が?今の話に私は出てこないのだが?私が?なぜ?
言葉が出ずに口の中が乾いた。とりあえず心を落ち着かせようと必死に唾をごくりと飲み込む。
 「わかってくれたのか、心の友よ!」メロスは腕が痺れるほど硬く、息のできぬほど強くセリヌンティウスを抱きしめた。
 「こうしてはおれぬ。時は待ってはくれないのだ」縄を解き、メロスは牢を出て行った。あまりにもあっさりとメロスが出獄したことに、皆はただ事態がわからずにいた。ディオニスはかの邪智暴虐の王であるとは思えぬほど呆気に取られていたが、はたと我を取り戻したかのように口を閉じ、無言で牢獄を後にした。王の後に大臣たちが下を向いたまま続き、最後に一人の刑吏が牢の鍵を閉める際にちらとセリヌンティウスに憐憫の情を込めた眼差しを向けただけだった。
 牢獄の天井には手のひらほどの大きさの穴窓があった。外は初夏、満点の星である。
 
 夢なのか現なのか。セリヌンティウスは眠ることはおろか、まどろむことすらできなかった。
 この二日、妻は一度も会いにはこなかった。ただ、弟子のフィロストラトスが一遍牢獄を訪れた。フィロストラトスは、借金はあるのか、自宅と工房の名義は誰のものか、顧客名簿は作ってあるのか、もしもの時の保険の契約書はどこにあるのか、などを確認していった。
 「お前、よもや私が死刑になればよいとは思ってやすまいな」セリヌンティウスが尋ねると、鉄格子の向こうのフィロストラトスはそれに答えず、代わりにこう言った。「奥さんのことは、任せてください」
 
 天井の穴窓が時を教えてくれる。あれから2度陽が落ち、3度陽が上った。
メロスは帰ってくるのか。ここから十里。走らずとも歩いて半日もかからず着くことができる。牛でも一晩、馬なら一時あれば。なのに、なぜメロスは3日経っても帰ってこないのか。あの男は人を騙さぬ。ただ、騙すつもりはなくても結果として人を裏切ることはいくらでも考えられる。
 結婚式を一晩で?準備は?招待客は?相手の家は?思ったことをすぐ口に出しやりたいことを迷わずやるあのメロスが、たっぷり酒飲みたい欲やぐっすり眠りたい欲に勝てるのか。立派なことを言うようで実は言い訳が上手いあのメロスが、王との約束をずっと覚えていて村での楽しい生活を捨てることができるのか。
 セリヌンティウスは幼き日のことを思い出した。喧嘩となった隣町の少年を殴ってくると息巻いて飛び出したメロスが、次の角を曲がる前に蟻の行列を見つけて、呑気に鼻歌を歌いながら小さき虫の行く末を見守っていたことを。あの時のメロスの歌の旋律が耳から離れない。
 
 今、穴窓が紫に染まろうとしている。夕刻だ。刑吏の足音が近づいてくる。かんぬきが引き抜かれる。縄を打たれる。石の廊下を歩く。刑場に出る。
このシラクスでは死刑執行は日常にあるが、今宵はあまりに道理なき、理由なき、理屈なき、死刑。群衆は集まり興奮し、湯が沸くほどの熱気が死刑台を取り囲んでいた。
 セリヌンティウスは首に縄を巻かれ、陽の暖かみが失われていくのを待つのみだった。群衆の熱狂と正反対に、刑を執行しようとする王は、黙りこくり、舞台の上はすでに冷え切っていた。
 その時、はるか向こう、遠くにメロスを見た。まだ誰も気がついていない。
 なぜだか弟子のフィロストラトスがそばに付いている。メロスに何事かをささやいている。もっと急ぐように早く走れとメロスを励まし続けてくれているのか。それならば何と愚かな思い違いをしたものだ。
 セリヌンティウスは知らなかったのだ。愛弟子はメロスを足止めしようとしていることを。
 セリヌンティウスの目線に気づき、王もメロスを確認した。ただ、刑の執行を止められないでいた。太陽の最後のひと光が今まさに線のように細くなるこの瞬間にあっても、メロスは顔だけは必死に全速力を出しているように見えて、その歩みは病気の老牛よりも遅かった。王は刑の中止を宣言するか、または刑を執行するかを決めかねた。
 メロスは、なぜか全裸だった。紐一本身に纏ってはいない。男たちは嘲笑い女たちは逃げ惑う。賢者が大川の水を割る奇跡を見せるかのごとく、人々が自然とメロスの道を作っていく。
 やがてメロスはセリヌンティウスの足元に齧りついた。
 群衆はどよめいた。喜劇の最後の場面で最高潮に盛り上がった観客が役者に声をかけるように、あっぱれ!ゆるせ!いいぞ!お見事!それからどした!と口ぐちにわめいた。
 刑吏はその声に押されるように、セリヌンティウスの縄を解く。
 「セリヌンティウス」メロスは血走った眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ」
悪い夢?やっぱり戻らないつもりだったのか。ある日突然死刑になる方がよっぽど悪い夢だ。夢から覚めてまた明日があるお前と違って、私はここで目を閉じたらもう永遠の闇しかないのだ。
 セリヌンティウスは憎々しく頷くと、思い切りメロスの右頬を殴った。群衆がどよめく。メロスの掠れ声が聞こえぬ人々には、時間ギリギリに来たメロスにセリヌンティウスが怒りを持って殴りつけたように見えたのだろう。咄嗟にセリヌンティウスの悪い癖が出た。人からよく見られようと空気を読んだのだ。口角を上げ、無理矢理微笑みを作る。そして声高らかに叫んだ。
 「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生まれて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁でき」
 言い終わりもしないうちに、何の逡巡もなくメロスは弾みをつけてセリヌンティウスを殴った。
 え?お前も殴るか?私がお前を殴る理由は100あるが、お前が私を殴る理由はひとつもない。そうなのだ。メロスはこういう「アレ」な奴なのだ。
 「おお、友よ」
 メロスが思いきりセリヌンティウスを抱きしめる。むせかえるような汗と酒と吐瀉物の入り混じる臭い。こいつ、大酒飲んでやがったのか。無実の男がお前のために死ぬか死なないかのこの瀬戸際で。
 セリヌンティウスはただただ悔しかった。涙が溢れてきた。なぜかメロスも泣いている。
 だが、これですべてが終わった。二度とこいつと会うこともあるまい。涙には、メロスから離れられる安堵も含まれているのかもしれない。
 その時、後ろから声がした。「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」
 道化芝居の最終幕を見終わった群衆が、どっと歓声を上げる。
 「万歳、王様万歳!」
 この王はまったく気分屋で、血を分けた王族たちを次々と死刑台に上らせた。瞬きをする間に腹積もりが変わっていく。思うがまま気の向くまま何をしでかすかわからないメロスと喜怒哀楽の感情が激しく気持ちの安定のしない王と、仲間になんてなれるわけがない。
 しかし、王が民衆の前で誓ったのだ。運命から逃がれることはかなうまい。太陽が沈んだ途端、夕闇が漆黒へと変わる。半刻前死刑台へと登ったときと同じように、もしかしたらそれ以上にセリヌンティウスの眼前に地獄の釜の蓋が開いていく。

 セリヌンティウスは理解した。しまった。ちょっとアレなのは、メロスだけじゃない。この王も民衆も私もだ。もう私は…逃げられない。

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