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アーティスト向け「虚体験ファシリテーションスクール」についてのメモ

こんにちは、臼井隆志です。

今日は「アートの探索」のブログを更新します。今日は、現在進行中の「虚体験ファシリテーションスクール」について、考えたことや気づいたことを書きます。

このマガジンは、アートワークショップを専門とする臼井隆志が、ワークショップデザインについての考察や作品の感想などを書きためておくマガジンです。週1~2本、2500字程度の記事を公開しています。

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「コネリングスタディ」というプロジェクトのなかで、アーティスト向けにファシリテーションのスクールを開催している。このプログラムが持つ可能性について考えたい。

「コネリングスタディ」では、子どもと共有可能な演劇体験のあり方を探求している。

子どもという観客は非常に騒がしい。騒がしい観客を許容するには、舞台と客席、演者と観客、みられる/みる、といった従来の関係性を変質させる必要がある。いわば、観客が作品にいかに”参加”できるか?という問いに答える必要があるのだ。

オンライン演劇と子どもの参加

コロナ禍において、演劇の意味はすっかり変容した。緊急事態宣言下では、オンラインでの演劇のあり方が様々に模索された。

ZOOMやYoutube Live などを活用し、俳優の日常と接続したり、観客とのインタラクションが設計されたりするなど、実験的な活動はいまも続いている。

しかし、こうした配信型のオンラインの演劇にはどうにも物足りなさがあった。ZOOMという場をつかったエンターテイメントとしてはユニークなものも多くあるが、「見る/見られる」の関係を逆に強く規定するように感じた。

そのなかで、コネリングスタディでは、5月〜6月にかけて、ダンサーのAokidとともに「地球自由」という作品のオンライン上演にワークショップを掛け合わせたような実験を行なった。

Aokidの作品世界に子どもたちをいざないながら、子どもたちの創作をうながそうとしたAokidとの実践は、非常に面白い取り組みであった。

しかし、オンラインでの子どもたちとワークショップを行うには、もっと精緻な工夫が必要だった。何かいい方法はないか、探索していた。

「虚体験ワークショップ」との出会い

ちょうど同じ緊急事態宣言下の5月、ミミクリデザインで知り合った田中真里奈さんが実践している「虚体験」というワークのあり方に出会った。

「虚体験」とは、「実体験」に対置される概念である。

実体験とは、たとえば屋久島の森に実際に足を運び、屋久杉の匂いを嗅ぎ、木肌に触れ、山に登り、汗をかくといった経験である。

一方で虚体験とは、目を閉じて、語りを聞きながら自然発生的に思い浮かんだものを観察し、表現していくありかただ。

虚体験の中では、月の上を歩くことも、海底にいくことも、身体をどこまでも膨らむ風船のように広げることもできる。

この虚体験ワークショップの方法論に、作品の上演と観客の参加を同時に成立させる可能性を、ぼくは見出したのだ。

虚体験ワークショップの方法

虚体験ワークショップでは、参加者がファシリテーターの語りを聞き、自然に思い浮かんだイメージを観察し、それを描き出したり、動いてみたりする。このようなワークは、どのようにして可能なのだろうか?

たとえば、田中さんのワークショップにはこのようなストーリーがある。

「あなたの目の前には、美しい湖が広がっている。その湖の水を手ですくい上げてみよう。すると不思議なことに、手の中の水のかたちが少しずつまとまって、水の団子ができました。その団子を、丘に向かって転がしてみましょう。どんどんどんどん、水団子の転がるあとが伸びていきます」

と、こういうような語りを聞く。実際には水が団子になることはありえないし、それが転がり続けることもありえない。しかし、目を閉じて思い浮かべるだけなら可能だ。

こうした語りを聞いた子どもたちに「水団子の転がった道はどんなふうになっていたか、絵に描いてみよう」というと、次々に思い浮かんだ風景を絵に描きはじめる。

水団子の道筋のなかに、魚が泳ぎはじめたとか、川ができて水車が回る村があったとか、キリンがいたとか、風景をどんどん描く。描くことでさらに風景が広がっていく。

自然発生の風景を描く:中動態的表現

ここでポイントがひとつある。子どもたちは能動的にイメージを作り出そうとしているのではないということだ。

ゼロから風景を生み出そうとしているのではない。目を閉じて語りをきいたときに「観察」したものを描いているのだ。「魚を描こう」ではなく、「(目を閉じたときに)魚がいたから描こう」ということなのだ。

このようにして思い浮かぶものを、田中さんは「スポンタネイティー(自然発生)」という言葉で説明している。即興演劇の大家、キース・ジョンストンの言葉の引用だ。頑張ってどうにかしようとしない。自然発生的に思い浮かぶものに身をまかせるようにすることが即興のポイントであるという。

このような表現のあり方を、中動態という言葉を借りて捉えてみたい。

中動態とは、國分功一郎さんが再評価した概念で、能動や受動といったあり方を外れる動詞を意味することばだ。

例えば「絵を描く」というとき、田中さんの依頼で子どもたちが絵を描いているのであれば、田中さんが主体で、子どもたちは客体となる。しかし、子どもたちは田中さんの語りから思い浮かんだものを描いているため、この虚体験ワークにおいて「描く」ということばは、主体・客体の分割ができない。「描く(能動態)」でも「描かされる(受動態)」でもない、語りによって思い浮かんでしまったものを描き出していくという、中動態的表現として考えることができるだろう。

鑑賞と創作を混在させる:上演とワークショップのあいだ

このような「虚体験」の「中動態的」表現には、作品鑑賞として/創作表現活動としての両方の可能性がある。

虚体験ワークの参加者は、目を閉じて語りを聞きながら思い浮かんだものを描く。ここで描かれるものは、「描こう」と思って主体的に描くものでもなければ、「描いてください」と言われて受動的に描かされているものでもない。目を閉じて思い浮かんだものを観察し、描くことで記録する、というあり方なのだ。だから、参加者も、何かを表現しなければ、とか、何かを思い浮かべなければ、と、「主体的に」「頑張って」描こうとする必要がない。

この虚体験ワークの面白いところは、田中さんの表現と子どもの表現が混在しているところだ。冒頭の水団子の物語は、田中さんの表現である。しかし、目を閉じて思い浮かべたシーンというのは子どもたちの表現である。

ぼくは、田中さんのファシリテーションを見学し、アーティストの創作と子どもたちの創作が折り重なる「体験」のありかたの雛形を見た。

このような体験は、作品の鑑賞であり、創作表現である。作品の上演であり、ワークショップである。この相反すると思われていたものを、高度に両立される方法論なのだ。

虚体験ワークショップの方法論を、アーティストに共有する

この「虚体験」はオンライン演劇のさまざま実践に対して感じていた、観客と演者のインタラクションの不足を補ってくれるようだった。この体験のあり方は、オンラインでの芸術表現の新しい形式を作り出すはずだ。

「この虚体験の形式を借りて、多様なアーティストが作品/ワークショップを展開する風景を見てみたい。」

田中さんの話を聞いたり実践を見たりすればするほど、そんな衝動がぼくのなかに湧いていくのを感じた。

「この体験を、アーティスト向けにレクチャーし、それぞれのアーティストに方法として使ってもらったらどうなるだろうか?」

そのようなことをprecogチームと話し合い、アーティスト向けのワークショップを実施することになった。それが「虚体験ファシリテーションスクール」だ。

実際に10月8日からスタートしたアーティスト向け「虚体験ファシリテーションスクール」では、劇作家・演出家・俳優・ダンサー・DJ・電子音楽家・プレーリーダーといったさまざまな表現者が集まった。

プログラムの中間報告

初日は、このプログラムへの参加動機を一人一人共有して、その後は虚体験ワークを実際にやってみる。

2日目は、虚体験の理論的な背景についてレクチャーがあり、その後に質問や感想を共有し合う。

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ワーク、レクチャー、対話を通じてすでに見えてきたいくつかのポイントがある。

たとえば、虚体験ワークショップと、演出や振付、俳優の演技との共通項だ。虚体験における語りと創作は、演劇における戯曲と演技の関係性に似ていること、また、「水が団子になるということにする」というような、「ありえないことを現実に起こることにする」というのは演劇の基本的な約束事であるということ。

他にも、音楽を聞いた時に思い浮かべる風景、というあり方は、そもそもが「虚体験」的だという発見もあった。普段DJやトラックメーカーとして活動されている参加者の方が、初日が終わったあとの数時間で曲をひとつ作り、2日目の冒頭で鑑賞しながらイメージを共有するというちいさな時間もうまれていた。

本当に「見ていないもの」を自然発生させることは可能か?

来週末には、実際に虚体験ワークショップを一人一人がつくってみて、その過程を共有する。全5回のワークを通じて、アーティストたちがどのような「虚体験」をつくりだすのか、非常に楽しみである。

プログラムのファシリテーションをしながら、ぼくもやってみたいことを書き出してみようかなとおもって、色々と考えてみた。

たとえば、「虚体験は参加者の無意識にアクセスしている」という仮説で考えると、「ジェンダーバイアスをあぶり出すような虚体験ができないかな?」と考えている。

例えば、ある寓話を話したときに、その人物の性別をどのように思い浮かべたか?というような虚体験のあり方だ。「社長」「外科医」という言葉から男性が出てきたか?「看護師」「保育士」といった言葉から女性がでてきたか?といったようなことだ。

できれば、ジェンダーロールの逆転を生み出すような、あるいは男性女性といった二分法で性をとらえないようなアプローチをとってみたい。

しかし、人が経験から蓄積させた無意識のなかで、そのようなジェンダーバイアスを乗り越えるようなイメージを「自然発生」させることは可能なのか?という問いが立っている。

続きが楽しみだ。

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