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外国籍児童が集まる民間学童保育の現場から見た、美濃加茂の今——子どもたちが国籍を超えてまっすぐ育ち、輝けるまちへ|地域のイノベーター見聞録〈美濃加茂版〉Vol. 5 細野和子/KIDS DEVELOPMENT CENTER

『地域のイノベーター見聞録〈美濃加茂版〉』は、2023年4月より岐阜県美濃加茂市に住み始めた小野寺(地域想合研究室.note編集部)と、2022年10月にこのまちでカレーショップ「らんびー」をオープンさせたばかりの高木さんのふたりでお届けする、新聞で言うところの地域版をイメージした連載企画です。
美濃加茂市は人口約6万人、名古屋まで約1時間と好アクセスのいわゆるベッドタウンです。それだけ聞くと全国のどこにでもありそうなまちに思えてきますが、それはあくまでも表層のイメージです。美濃加茂に限らずどのまちにだって、そこにしかない暮らしの楽しさがあるはず。
われわれは、まちで長く商売をされている方・まちに住む海外の方(美濃加茂は人口の約10%が外国人)・近年移住されてきた方・行政の方、あるいは上記に限らないこのまちに関わるさまざまな方からお話を聞きし、それを記事にしていきます。
記事を通して美濃加茂への理解を深めながら、「このまちの魅力とはどのようなもので、それはいかに形成されているのか?」「まちで精力的に活動する地域のイノベーターたちのモチベーションはどこから生じているのか?」といった、おそらく多くのまちに共通するであろう、街づくりの疑問を探ることも試みます。美濃加茂における街づくりのワンシーン・ワンシーンを高木さんと共に、ここに住みながら追いかけてみたいと思います。

はじめに


地域想合研究室.note編集部の小野寺です。美濃加茂市に住み始めて1年が経過しました。春雨が降った後の美濃加茂に特有だと思われるあの土っぽい春の匂いを嗅ぎとった時、美濃加茂で過ごした時間が確かに自分の中に刻まれているのだなと感じました。夜に木曽川沿いを散歩をするととても気持ち良い4月と5月時期が去り、虫とじめじめと暑さの6月です。

この連載を始めた時から取り上げたいと思っていたテーマが、美濃加茂市で暮らす外国人についてでした。美濃加茂市はもともと製造業の工場が多く、1990年に入管法が改正されて以降、主に日系ブラジル人の流入により急激に外国人人口が増えました。2008年のリーマンショックによって日系ブラジル人の人口が減った後もフィリピン人の人口増加が続き、2024年6月現在、人口の1割にあたる約6000人の外国人が居住しています。[*1]

市内放送はポルトガル語と英語で放送されており、まちにはポルトガル語や英語で書かれた看板がぶら下げられた商店、飲食店、不動産屋、人材派遣会社がたくさんあります。木曽川沿いにあるリバーポートパークではたびたびフィリピンやブラジル系の人があつまるイベントが開催されていました。私のご近所さんもフィリピンの方です。美濃加茂で海外の方を見かけない日はありません。

しかし、この1年間で海外の方と密にやりとりをすることはありませんでした。国際交流協会に行けば接点を持てると知っていながら、なんとなく出向くことをしませんでした。私は海外の方たちと何を話したいのか? 「交流」をしたいのか? よく分かりませんでした。「海外の方」とひとくくりにしてしまっている自分がなんとなく嫌だし、でも具体的な顔を思い浮かべられるほど知った仲の友人はいませんから、やっぱりアクションを起こさなければ……と、悶々と過ごしていました。ちょうどその時、藤井浩人美濃加茂市長のSNSで、こんなポストをみかけました。

外国籍の子どもたちに日本語を教える学童施設……そんな施設があったのか!と興奮気味にすぐに代表者の連絡先を調べて電話をしてみると、なんとその日中に会ってくれると言ってもらえて、それがインタビュー実施に繋がっています。

今回の記事では、フィリピン人を中心とした約10名ほどの外国籍児童が通う学童保育施設『KIDS DEVELOPMENT CENTER』(以下:KDC [*2])を立ち上げた細野和子さんに、美濃加茂市における外国籍児童の教育についてお話を伺いました。美濃加茂市では、前市長の時代に多文化共生の推進を目指して、“In Minokamo, You are not foreigner,You are the partner.”というスローガンが掲げられています。まさに共生のパートナーとしてこれからの美濃加茂をいちばんに担っていく「子どもたち」を起点に、美濃加茂の未来を考えてみます。

*1 美濃加茂市公式HPの人口統計より。
*2 KDCの開所は2022年4月。認可外保育園としてスタートしたが、現在保育事業は休業し学童施設として運営されている。

細野和子さん。書道に取り組む子どもたちを背に、KDCの教室にて。(このほか特記のない撮影:編集部)

エチオピア、名古屋、フィリピン——信念を貫き奔走した日々


——現在はKDCで毎日フィリピンの子どもたちと向き合っている細野さんですが、これまでの人生でどんな道をたどってきたのか、お聞きしたいです。

細野
私は今年で72歳になります。滋賀県の出身で、高校を卒業してからは音楽講師として子どもたちに歌やピアノ、エレクトーンなどを教えていました。30歳の頃に音楽講師の仕事を辞めてからは、山あり谷ありで……。ついに生きるのに行き詰まってしまいました。でも子どもがいるし、死ぬにも死にきれません。さあどうしようと悩んだ末、思い切って日本から出てみることにしたんです。お金も無理して用意しました。当時の私の中には「必ず生きるための何かが見つかるだろう」という確信はあったんです。その気持ちだけを信じて旅に出ました。

——それは、おいくつの時だったのですか?

細野
43歳の時です。中国から旅を始めて、最終的にはエチオピアに辿り着きました。そこで私は、地雷で足を失った子どもや、ポリオ[*3]にかかった子どもを支援するためのクリニックに出入りしていました。たまたま宿で知り合ったドイツ人の女医さんから「一緒に行かないか」と誘われたのがきっかけでした。偶然も偶然です。あてのない旅でしたから。

ボランティア初日、参加してすぐのことです。お医者さんから「ヘレンを手伝ってくれないか」と言われました。ヘレンというのは10歳の女の子で、その日は彼女が生まれて初めて立ち上がる日——義足を付けて——だったんです。彼女が立ちあがろうとすると、義足が足に食い込みます。彼女を支えようと手を持ってあげると、相当な痛みだったのでしょう、ものすごい力で握り返してくるんです。でも彼女は歯を食いしばって、泣かないんですよ。

励ましの声をかけたかったのですが、それよりも先にヘレンが「カズコ、あなたの手が痛いでしょう、ごめんね」と言ったんです。その時、全身が真っ赤になるような感動がありました。そのクリニックには3週間ほど毎日通いました。主にリハビリの手伝いを頼まれていましたが、最低限できることをしただけです。もっと彼女たちのために自分ができることはないのかと考えた時、日本から松葉杖や車椅子を送ることを思い付いたんです。「必ず届けるから」と子どもたちと約束をして、エチオピアを後にしました。

エチオピアのクリニックでボランティアしていた時の写真。KDCの教室の壁に写真が貼られている。写真左が細野さん。

*3 ポリオ(急性灰白髄炎):脊髄性小児麻痺とも呼ばれ、名前のとおり子ども(特に5歳以下)がかかることが多い病気。手足の筋肉や呼吸する筋肉等に麻痺を生じることがある。永続的な後遺症を残すことがあり、特に成人では亡くなる確率が高い(参考:厚生労働省HP

——帰国後は個人で、松葉杖や車椅子を送る活動をされていたのですか?

細野
団体には属さずに活動していましたが、実現できたのは車椅子メーカーの方をはじめとする、多くの方々の協力があったからです。当時住んでいた名古屋で開催されたクリスチャンのパレードがきっかけで、夫のバルさんに出会いました。彼からも輸送費のことなどで色々とアドバイスをもらって、結果として1995年から1997年の2年間に、合計約30台の車椅子と、約20本の松葉杖をエチオピアの子どもたちに届けることができました。

それからは夫がフィリピン人ということもあり、フィリピンの悲惨な状況を見聞きするようになりました。フィリピンには困っている人が「助けてください」と発信できるテレビ番組があるんです。1998年頃だったと思うのですが、それを現地で見ていたら「ミシンを下さい」「子どもの薬を買うお金が無いからミシンを売ってしまった」「でも、ミシンを売ったからお金が稼げない」と、ノーラさんという女性が訴えている映像が流れてきたんです。私たちはすぐにテレビ局に電話して、日本で不要になったミシンを集めて、修理してフィリピンへ送ると伝えたところ、テレビ局の人と一緒にミシンを届けにいくことになりました。実際に現地へ向かったのは夫ひとりで、私は日本から見守りましたが、贈られたミシンを見て、5人いるノーラさんの子どものうちのひとり、10歳くらいの女の子が「お母さん、よかったね。今日はおかずが食べられるね」と言ったのを放送で見ました。その言葉はすごく印象に残っていますよ。

1998年から2000年にかけて、私は聖書の勉強をするためにフィリピンのマニラに滞在していました。そして2000年の7月、フィリピンのスモーキーマウンテン[*4]が崩壊し、たくさんの被災者が出たというニュースを見ました。夫と顔を見合わせて「どうする? 何ができるだろう?」と考えました。私は日本人なので、テレビが映し出すことは分かっても、実際に困っている人がどこにいて、何をしてほしいのかは詳しくは分かりません。でも、夫なら分かります。だったら夫は現地に残って、私は日本に帰って募金活動をするべきだと思い、すぐに行動を起こしました。

当時、夫の娘はマニラで医学生をしていて、私たちはクリスチャンの医学生のグループと共に行動していました。私が日本で集めた募金を持って現地へ到着するやいなや「今すぐお米を買いに行くぞ〜!」と、一息つく間もなくトラックで買い出しに行ったことがありました。そして戻ってきたら目の前にズラーっと大勢の人たちが待っているんです。そのみんなが、小学生くらいの小さな子どもでさえも、荷物の運び出しやら、お米を仕分けて一軒一軒配るのを手伝ってくれました。とにかく助け合いです。こんなふうに、日本で募金を集めてはマニラに行って、という生活が2年ほど続きました。

*4 スモーキーマウンテン:マニラ北方に存在した巨大なゴミ山とその周辺のスラム街。

外国籍児童たちが、ただありのままに輝ける社会を。そのための教育を


——美濃加茂に住むきっかけはなんだったんでしょうか?

細野
夫は日本で仕事を探すのに知り合いの派遣会社を頼っていました。彼が見つけた仕事先がたまたま美濃加茂で、彼の方が先に住み始めていました。ちょうどそのタイミングで私の娘に双子の子どもが生まれたので、しばらく他県に住む娘と孫のケアをしてから美濃加茂へ来ました。2006年、私が54歳の時です。

最初は美濃加茂市や隣の関市で介護士として働いていましたが、2008年に美濃加茂市の古井小学校で日本語指導支援員として働き始めました。そのきっかけになった出来事があります。近所のフィリピン人の親子が教育委員会に行かなければならなかった際に、サポート役として私も同行したんです。その時に窓口で対応してくれたブラジル人のスタッフの方が後日、日本語指導支援員の仕事を紹介してくださったんです。

——日本語指導支援員というのは、どのようなお仕事なんでしょうか?

細野
2008年当時、私が日本語指導支援員として働いていた古井小学校には各クラスに7人くらいの外国籍児童がいました。日本語指導支援員が何をするかというと、クラスに入り込んで、子どもの横に座って一緒に授業を受けて、彼らが分からないところをサポートするんです。

——ひとクラスに支援員の方が数名いらっしゃった?

細野
いえ、ひとクラスにひとりということではなく、学校に数人という配置でした。支援員さんごとに時間割が割り当てられて、1年生から6年生まで見るんです。私は主にフィリピン人の子どもの対応をしていて、特に算数の時間が多かった記憶があります。

——(高木)僕が小学生の時、クラスに支援員の方がいたかどうかはあまり記憶がないのですが、確か外国籍児童専用のクラスみたいなものはありましたね。

細野
あります。「国際教室」と呼ばれるものですね。私たち日本語指導支援員のサポートがあっても授業についていけない場合、例えば国語だけ難があるなら、その時間だけ該当の生徒を取り出して違う教室で勉強するということもやっています。

——細野さんは、フィリピン系の保育園でも働かれていたんですよね?

細野
美濃加茂市にはフィリピン系の保育所が3箇所あるのですが、そのうちのひとつの認可外保育所で2019年から3年弱、年長児に日本語を教える仕事をしていました。現在KDCに通っている子どものうち何人かはその時に見ていた子たちです。美濃加茂市では、2018年度から特に外国人児童が多い公立の2つの保育園で外国籍園児に日本語と生活指導を行う「プレスクール事業」を実施していましたが、美濃加茂のフィリピン系の保育園がそうであるように、私立の保育園は対象外で、日本語を教える先生はいませんでした。私がフィリピン系の保育所で働けたのは、岐阜県国際交流センターが出している補助金を「フィリピン籍の子どものための就学前教育事業」として美濃加茂国際交流協会が交付を受けたことが経緯だったと記憶しています。国際交流協会からお仕事の紹介があった時、私はすぐさま飛びつきました。まさにやりたい仕事だったからです。

——やりたいお仕事だったというのは?

細野
美濃加茂市では子どもが小学校に就学するタイミングで日本語のテストを受ける必要があります。その点数が低い、または通常の授業についていけないと判断された場合は、「のぞみ教室」という簡単な日本語やひらがな、カタカナ、日本の学校生活などを教えるための学校に通う必要があります。のぞみ教室は古井小学校の中にあり、教育委員会が運営しています。通常の学区外から通う子のためにスクールバスによる送迎もやっています。

のぞみ教室は、普通の自治体にはない素晴らしい取り組みで、外国籍児童が日本の学校に馴染んでいくために重要な役割を果たしています。たとえば小学校の途中で日本に来た子どもがいきなり普通学級に入っても、何も分からないまま時間が過ぎていくだけかもしれません。そういう子たちにとって、なくてはならない場所です。

一方で、幼児の頃から日本に住んで、日本語に多く触れるチャンスがある子どもたちには、小学校を普通学級からスタートしてもらいたいな、と私は思っています。その分、勉強に遅れを取ることもありませんからね。でも実際、普通学級からのスタートって、特にフィリピン系の保育園で日本語に触れない環境で過ごしていると難しいんですよ。だから、そこで日本語を教えることは重要なんです。日本語指導支援員をやっていた頃から常々必要だと思っていました。そういう意味でやりたい仕事だったんです。

——フィリピン系の保育園に日本語を指導できる先生を配置できるようになったのは良かったですね。

細野
そうですね。ただ、なかなか難しいところもあります。日本の保育園でしか働いたことのない保育士が現場に入ってみると、ものすごいカルチャーショックを受けてしまうんです。以前、何名かにこのお仕事を紹介したことがあるのですが、実際に働かれると、みなさん体調を崩されてしまって……定着が難しいという問題があります。

——何が原因なのでしょうか?

細野
言葉の違いだけではないんですよ。保育園の中に入った時の雰囲気だったり、施設の作り方、一日のスケジュール……何から何まで違うんですよ。
私はまだフィリピンで子どもたちに接していた経験があったので、適応しやすかったのでしょう。ところが日本の保育園しか経験がない保育士にとっては適応することがすごく難しいと思います。

当時、フィリピン系の保育園と並行して、日本の幼稚園に清掃のアルバイトに行っていました。当時保育士の資格取得のために勉強をしていたので、なるべく子どもがいる環境に触れておきたいと思っていました。フィリピン系の保育園と日本の幼稚園と、それぞれ異なる幼児教育の現場を行き来する中で、フィリピン人の保育環境について色々な疑問が湧いてきたんです。

——疑問というのは?

細野
例えば、ゆくゆくは日本の公立の小学校に行くと分かっていながら、どうして英語で幼児教育をするのだろう? とか。遊びの時間に関しても、日本の保育所であれば「昨日は積み木を横にしか並べられなかったけど、今日は縦に積めるようになった」といった子ども一人ひとりの日々の小さな成長に気づけるのではないか? そのようにきめ細かな保育をフィリピンの子どもたちも享受すべきではないか? といった疑問です。

——確かに公立の小学校に行く前提であれば、日本の学校社会で生きるための指導が必要になってきそうですね。

細野
ちょうどその頃、『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治著, 2019年)という本が話題になっていましたよね。あれを本屋さんで見た時に、私が小学校での日本語指導員をしていた時のことを、わぁっと思い出したんです。この本では、認知機能の低さゆえに社会での生きづらさを抱えている人々に焦点が当てられているので、それと私が見てきた美濃加茂の外国籍児童を重ね合わせるのはもちろんズレています。当たり前のことを言いますが、彼ら外国人児童は認知機能が低いわけではありませんよ。それなのに、この本に出てくるような自己評価が極端に低い子や、支援の手が届かない子、そして非行に走ってしまう子どもたちを私が何人も見てきたのはなぜなのか? その理由のひとつに教育、特に小学校に入る前の年長児教育に課題があるはずだ、と私は思ったんです。

——なぜ年長児教育なのでしょうか?

実際、保育の現場では日本語がわからないためにものごとを理解できないのか、発達の課題により理解ができていないのか判断が難しいという声が挙がることがあったようです。本人には本来的に何ら問題がないにもかかわらず、能力を誤解されたまま小学校、中学校と不本意な扱いを受け続けたら相当なストレスがかかるはずです。学校になじめなかったり、不登校になったりすることが簡単に想像できますよね。

小学校で日本語指導員として働いていた時から、学校も困っていることは分かっていました。年長児の1年間は、ものごとを特に吸収できる時期で、発達において非常に大事なんです。だから、小学校になってからでは遅いと思うんです。

——だからKDCは保育所として始まったのですね。

細野
当初の想いは幼児教育に注力することでしたが、現在はさまざまな事情でKDCの保育事業は休業し、学童保育一本になっています。ですが、子どもたちの年齢に関係なく目指すところは一緒です。私は自分の経験から、キラキラと光るものを持っている外国籍の子どもがたくさんいることを知っていました。そういう子をなんとかして輝かせてあげたい、彼らが日本の学校社会に馴染めず、埋もれてしまい、最悪の場合非行に走ってしまう前に、誰かがなんとかしなくちゃいけないと思いました。その想いが、KDCの立ち上げに直結しています。

それに外国籍児童向けの学童は、私の知る限り美濃加茂ではここしかないはずです。KDCをスタートさせて約3年になりますが、やってみて分かったのは、こういう仕事はまず市が率先してやるべきだろうということです。KDCではキャパシティに限りがありますからね。

無関心と断絶が加速している


——フィリピンの方は基本的に英語は話されると思うのですが、家庭では何語を使っているのでしょうか?

細野
これは思った以上に知られていないと感じることですが、フィリピンでは180余りの言語が話されています。その中でも話者が多いのがタガログ語とビサヤ語です。英語とフィリピン語が公用語になっていますが、そのフィリピン語というのはタガログ語がベースになっています。

タガログ語とビサヤ語は、よく標準語と方言のような関係かのように言われますが、全く異なる言語だと考えたほうがいいでしょう。

——細野さんはフィリピンのお子さんたちとの交流が多いですが、美濃加茂といえばブラジル人の方が多いイメージもあります。フィリピンとブラジル、どちらの出身の方の方が多いのですか?

細野
以前はブラジル人の方が多かったのですが、リーマンショックのタイミングでブラジルの方はどっと帰国されました。今はフィリピン人の人口の方が多い[*5]ですね。フィリピンの方が距離的にも日本に近いので、来やすいのだろうと思います。

最近は自分の家を持つ方が増えていますね。私が美濃加茂に来た20年前くらいは、持ち家がある人なんてポツポツといるくらいでしたが、今ではすごく多いですよ。2023年度の調査だと、持ち家世帯が35%[*6]だそうです。不動産屋にもフィリピン人やブラジル人のスタッフがいます。Facebookで繋がっている人の投稿を見ると、「あの方も家を建てたんだ」って知ることがしょっちゅうあります。

*5 美濃加茂市公式HP「2024年6月1日現在の外国人住民国籍別男女別集計表」より。
*6 美濃加茂市公式HP「令和4年度 美濃加茂市在住外国人市民アンケート結果」(p. 4)より。

——そういった方は、永住しようっていう意気込みなのでしょうか

細野
そうだと思います。一方で、古いアパートに大勢でぎゅうぎゅうになって住んでいるというところもありますよ。一定期間日本に住んで、フィリピンに帰国される方もいます。その家庭ごとに色々な事情がありますよね。

ただ、一軒家を建てることの意味合いが日本人と違う場合もあると思います。特にフィリピンの方は日本と違って家族の人数が多い。家を建てたらフィリピンから家族を呼び寄せて一緒に住むんです。働き口も多いのでそれで割と短期間でローンが返せるという話をよく聞きます。

——KDCに通っている小学生たちは今後、日本に長く住み続けるのですか?

細野
本人に聞いても分かりませんが、KDCで最年長の小学4年生の子は、「5年生になっても、6年生になっても、大人になっても来てもいいの?」と言ってくれています。

——色々な自治体で人口減少が騒がれている中で、これからの時代は日本人が増えていくことは考えにくいですよね。ならば海外から来た人たちが住み続けてくれれば助かるんじゃないかなと思います。一方で、美濃加茂にいて感じるのは、思ったより海外の方達と接点がないということです。街を歩けばたくさんの海外の方を見ますが、実際にどんなふうに暮らされていて、日本人とどのように交流しているのか、ほとんど知りません。

細野
実は、KDCに子どもを預けてもらう際、最初の申し込みの時に親御さんに書いてもらうアンケートのなかに「日本人の友人はいますか?」という項目があるのですが、ほとんどの方が「いない」と回答されているんですよね。美濃加茂に住んでいるフィリピンの方は派遣の仕事をされていることが多いのですが、接点がある日本人といえば派遣先の上司や同僚くらい。日本人のママ友との付き合いみたいなのはあまり聞きませんね。

——それだけフィリピン人同士のコミュニティが強いということなのでしょうか?

細野
フィリピン人同士の付き合いがある人がほとんどだと思うのですが、やはり先ほど言ったように同じフィリピン人同士でも言葉が違いますから、言語によってグループが分かれていることがありますね。KDCの周辺はビサヤ語を話す方が多いんです。すぐ近くにあるアパートにもビサヤ語圏の方が多く住んでいます。タガログ語圏の人はほとんどいないようですよ。KDCに通う子も6〜7割はビサヤ語を話します。

——海外から来た人たちなので、同じ国の出身であれば関係なく交流するようなイメージがあったのですが、そうとも限らないのですね。言語の違いがあればきっと習慣の違いもあるでしょうし。

細野
そうですね。フィリピン人がみんな一緒っていうことはないです。

——美濃加茂市で海外の方向けのサービス、特に教育に関するものってどれだけあるのでしょうか?

細野
先ほどお話したのぞみ教室(古井小学校内)、私がやっていた外国人日本語指導員、各学校にある国際教室の他に、外国籍の小中学生を対象とした学習支援事業「MIRAI(みらい)」というのがあります。週に2回だけで、18:30〜20:30と遅い時間にやっています。(※古井地区の小学生は16:30〜18:30)他にも外国人向けの日本語教室が開講されていますね。

——学童保育はどうでしょう?

細野
美濃加茂市がやっている放課後児童クラブ(学童保育)は市内に10箇所あります。そこに通う外国籍児童もいますね。でも公立の学童では勉強を教えません。

——その点が、KDCとの違いなんですね。

細野
KDCに通うとある子のお母さんで、子どもが放課後に日本語を勉強できる場所をずっと探していたという方がいました。隣の可児市まで探したけど見つからなかったそうです。たまたまのぞみ教室の先生からKDCを紹介してもらって。「本当にここがあってよかった」と嬉しい声をいただいてます。そのお母さんが言うには可児市でもKDCに通わせたいという声はあるみたいです。ただ、送迎の問題があるので今のところは近所の子どもに通ってもらうしかありませんが……。

——やはり、KDCのような場所は必要とされていたということですね。外国籍、特にフィリピンの生徒さんが中心で、なおかつ英語やタガログ語でもコミュニケーションが取れることが選ばれるポイントでしょうか?

細野
「通訳いますか?」「タガログ語喋れる人いますか?」「フィリピン人いますか?」とKDCを尋ねてくる方もいます。保護者の方たちも、やっぱり夫とタガログ語でしゃべっている時は、みんな顔つきが違います。

——細野さんが美濃加茂で外国籍児童に関わり出してから約15年になりますが、その間で外国人を取り巻く環境にどのような変化があったのでしょうか?

細野
先ほども申し上げたように、私が来る前から美濃加茂には日系ブラジル人を中心に、たくさんの外国人が住んでいました。そしてリーマンショックで数が減って、現在また徐々に数が増え続けているという状況です。

昔は、今よりも盛んに国際交流イベントが行われていたようですが、私はその頃のことはわかりません。ただ、その頃を知っている方の話を聞くと、インターネットが発達する以前は外国籍の方と日本人との間で今よりも歩み寄る気持ちや交流があったといいます。日本人にとっても、自分たちが築いてきた地域社会に新たな人種が来ることに関心があり、うまく舵取りしていこうという気持ちがあったのかもしれません。やはり、お互いの情報が少ないので、対面で交流するしか手段がなかったのでしょう。その中で絆が生まれていったんですね。

現代はインターネットの発達により、日本人と外国籍の方々が互いに歩み寄らなくても、それぞれのコミュニティでことが足りてしまう。交わらなくても生活に支障が出にくくなっています。交流することによる煩わしさがなくなった副作用として無関心・断絶といった問題がこれから加速するだろうと思っています。さらに新型コロナウィルスの流行がその状況に拍車をかけました。

その時、いちばん被害を受けるのは誰か? 子どもたちなんです。外国籍の子どもたちが教育から取りこぼされてしまえば、結果として母国にも日本にもアイデンティティを持てない子どもが増えてしまいます。だからこそ、今、急がなくてはいけない。すごく危機感を感じています。でもKDCは規模も経済力も小さいので、やれることに限りがあります。これは市を挙げて取り組む課題ですよ。一人でも多くの人に、美濃加茂における外国籍児童の教育の問題に目を向けてもらいたいです。

——日本人同士ですら属しているコミュニティが違えばほぼ交流はないものですが、その生活をなんとなく想像することはできるかもしれません。しかし、フィリピンやブラジルの方がどのような問題を抱えているかって、なかなか気付けません。

細野
問題といっても、本当に人それぞれなんですけどね。ただ、日本人の目に触れる機会が極端に少ないんじゃないかとは思います。それは、無関心や断絶が進んでいるからでしょうね。私の知り合いの日本人にも「外国人は怖い」って言う方がいますよ。それっておかしいですよね。知らないから怖いんですよ。それなのに知るチャンスが、知ろうとする気持ちが醸成されにくい時代になってしまいました。

未来の美濃加茂像をKDCから想像する


——KDCではどのように子どもたちの勉強を見ているのですか?

細野
ひとりずつの対応を基本にしています。学校が終わってKDCについたら、まずはおやつの時間です。食べ終わったら学校の宿題に取り掛かります。その時に、例えばある子が算数の宿題でつまずいていたなら、私はその横でノートに似たような問題を作るんですよ。宿題が終わったら「次はこれをやってごらん」と。

お勉強がひと段落したら、みんなでギャーギャー言いながらダンスしたり、歌をうたったり、ものづくりをしたりと自由に過ごしています。

おやつの時間の後、各自の机で宿題に取り組むKDCの子どもたち。

——まずは宿題や勉強をして、終わったらやりたいことをやると。

細野
音楽に関しては、定期的に会場を借りてコンサートをやることにしているんです。2023年は、11月に美濃加茂市東図書館の視聴覚ホールで開催しました。藤井市長にもお越しいただいて、子どもたちと一緒に歌ってもらいました。

KDCの壁に貼られた、これまでの活動の記録写真。画像中央下が、コンサート時の写真。

それから週に1回、書道の先生が教えに来てくれています。コンサートから1カ月後の12月に、同じ会場で子どもたちの書道展を開いたんですよ。コンサートをやった時も、書道展の時もたくさんの方が「元気をもらった」と言ってくれて、私自身も、彼らが持つ底力に感動しました。これからも、もっともっと、子どもたちの頑張りを知ってもらえる場を用意していきたいと思います。

週に1回の書道の時間。

本当に色々な方がKDCを支えてくれています。先日も犬山でソーシャルワーカーをやられている方が絵本を読み聞かせに来てくださったり、UNICEFの方、元保育士の方、農業をやられている方、作業療法士さん……などなど。日本人に触れる機会を増やすことと、それぞれの方がやられているお仕事の話を聞かせてもらうことで、子どもたちの視野を広げられればと思っています。そういえば、小野寺さんと高木さんも、この間はここで子どもたちの宿題をサポートしてもらいましたね。

——(高木)そうなんです。ここでお子さんたちが勉強している様子を見学させてもらいました。漢字ドリルとか計算ドリルとか、自分も小学生の時にやっていたような宿題を集中してやって、できたらすぐに細野さんに見てもらう。できないところがあったらもう一度やり直してまた細野さんに見てもらう。すごく丁寧な指導です。自分が親だとしたら、すごくありがたい場所だなと思いますね。

ドリルが終わって細野さんに採点してもらっている男の子。後ろには列ができている。

細野
中には漢字が大好きな子もいて。その子のために、こんなノートを用意しています。

宿題が終わった後の自習のためのノート。細野さん手作りの漢字ドリル。

——(高木)想像していたよりもみんな日本語が話せるし、フィリピン人同士だけど会話は日本語でしたね。みんなとにかく勉強熱心。すごく楽しそうに宿題をやっているのを見て、自分の時はもっとイヤイヤやっていたのにな……と驚きました。

細野
子ども同士で自然と教え合いっこするんですよね。彼らの素晴らしいところのひとつです。

——それもすごいなと思いました。細野さんに見せに行って、ノートに丸がいっぱいつくと部屋全体が盛り上がったり、できない箇所があった時は得意な子がかけ寄って来てコツを教えてあげたり、本当にみんなパワフルでした!

細野
フィリピン人の彼らが、お家に帰って宿題をやろうとしても、お父さんお母さんが日本語がわからなければ教えようがないじゃないですか。

——誰かのサポートがないと、宿題すらなかなかうまくできない子どもたちも多いんだろうなと想像します。

細野
それは私も気になっています。KDCに通っている子でさえ、4年生になっても九九をたまに忘れてしまうんです。じゃあ、通っていない子はどんな状況なのかと。親御さんが勉強に熱心ならそれなりにやっているのだと思いますが……。

先日、学校の先生を以前やられていた方がお見えになって色々とお話をする機会があったのですが、その時に「個々の子どもたちの学校での様子は、プライバシーの問題でKDC側に教えてもらえない」ということが話題になりました。子どもたちのKDCでの様子を私から学校の先生にお伝えすることはできますが、その逆ができない。本当はもっと学校と連携をとっていきたいです。

——KDCのような民間の学童が小学校と連携して、子どもたちが抱えている問題に対応できるのが理想ですよね。

細野
そうできるとよいのですが……というのも、子どもたちのKDCでの様子と、学校での様子が全然違うことがあるんです。例えば、KDCではすごくハキハキと話せる子が、学校では物静かだったり。「日本語を間違えるのが恥ずかしい」とか「笑われたら嫌だ」って気持ちから萎縮してしまうんだそうです。そういった悩みは、現状は本人の口から聞く以外に知る方法がないんですよね。

私自身、フィリピンに行った時に周りの言葉が全くわからないという経験をしたことがあります。でもそんな中で夫だけは近所付き合いもしなくちゃなりませんし、みんなと楽しそうに話している……それを見て私はすごく腹が立ってきたんです。それも冗談ではなくて本当に精神状態がおかしくなりそうなくらいに。自分の思っていることを伝えられないってものすごくストレスです。

——今KDCに通われている子どもたちに、将来どんなふうになってほしいですか?

細野
英語は、それぞれのご家庭でも話している子が多いので、ぐちゃぐちゃな日本語ではなく、きちっとした日本語を話せるようになってほしいです。それをやるのが私の使命でもありますね。将来は日本で、美濃加茂市で……という想いもありますが、フィリピン人の方は海外に親戚がいることが多いじゃないですか。だから将来活躍する場は日本に限らないとは思っています。どこに行っても日本で学んだこと、それは日本語もそうですしマナーだったり、そういうのは役立つだろうと思います。それぞれの場所で、人の役に立つ人間に育ってほしいと願っています。

それから、「良いフィリピン人だな」と言われる子どもに育てたいです。残念ながら悪い噂というのはまだまだあります。フィリピン人だっていうだけで変な先入観を持たれてしまうのが現状です。美濃加茂市から、そのイメージをどんどんプラスに変えていけたら最高ですよ。まだまだこれからですが美濃加茂なら可能性がある。私がその一端を担っていければと思います。

——KDCは2024年4月で3年目を迎えます。今後、KDCはどう発展していくのでしょう?

細野
発展よりもまずは、KDCを継続することに注力したいですね。やればやるほど、これは私一人の力では難しいと感じます。なかなか苦しい時も多いですよ……。

同じような考えを持った人たちと、タッグを組んでいけたらなと思っています。今のようにただ勉強を教えるだけじゃなくて、例えば中学生になったらITの講座を開いてみるとか、色々な場面を想定して指導が行える場所にしていきたいです。

——最後に、今後の美濃加茂市にどのような変化を期待しているか、細野さんの考えをお聞かせください。

細野
美濃加茂市には外国籍の方が多いじゃないですか。それはつまり日本人と違うアイデアがいっぱいあるということです。私の夫も、今年73歳になりますが色々なアイデアを持っています。例えば縫製。ジーンズ作りなんか、すぐにできるし教えられる。あるいは料理。フィリピン料理のお店を日本人とフィリピン人が一緒にやってもいいじゃないですか。

ブラジルの方にもすごいスキルを持った色々な人がいると思います。日本人だってそうです。そういう人たちが一緒になって輪をつくって、何かをやれるまちになるといいですよね。

KDCの中では、未来の美濃加茂を思わせるようなシーンが実はもう生まれているんです。普段はフィリピン人のお子さんが中心ですが、去年は夏休みの期間だけ日本人のお子さんが通っていました。小学3年生と2年生の兄弟だったのですが、家では喧嘩ばかりでお母さんがいつも困っておられて。KDCに来たその日も、最初は周りの子どもたちの目も気にせずに兄弟で取っ組み合いの喧嘩をしていました。それが日が経つにつれて仲良くなっていくんですよ。それからはフィリピン人の子どもたちと一緒に歌やダンスをしたり、工作をしたり、すっごく打ち解けて。その子たちのお父さんが、「今度外国人の子が転入してくるんだよ」と伝えたら、「どこの国の子? 僕が日本語を教えてあげる!」と言っていたそうです。それを聞いて誇らしく思いました。

——KDCは日本人の子どもたちが通っても、良いことがたくさんありそうですね。

そうですよ。フィリピンの子たちって、本当に、なんというか……ノリがすごいんですよ。自己表現が豊かです。この間、クリスマスパーティをやった時も、ある女の子がマイケルジャクソンの曲がかかった瞬間に「帽子! 帽子はどこ?」って探し出して。パッと帽子を被ったらマイケルになりきって元気に踊り出したんです。すかさず他の子も踊り出して。すごいでしょう?

——すごく楽しそうです。

私は日々、そんなパワフルでノリノリの彼らに元気をもらっていますよ。だから苦しい時も多いけれど続けられています。今日もインタビューが始まる直前まで子どもたちがいましたけれど、みんなうるさかったですよ! 私がひと言冗談をいうと、もうギャーっと笑って、止まらない。でも、「さあ、気持ち切り替えて!」と言うと、笑いがピタっと止んで宿題をやり始める。楽しい時はみんなでいっぱいいっぱい笑って、やる時はやる。本当に素直でいい子たちです。

KDCの活動に共感してサポートしてくださる方がいましたら、まずはぜひ、ここの子どもたちに会いに来てください。音楽をはじめとしたイベントを色々と企画していますから、是非彼らと一緒に笑って、踊ってください。

——子どもたちの存在が、細野さんの頑張れる理由になっているということですね。今日は、ありがとうございました。

KDC外観。

(2024年1月18日収録)


編集後記
美濃加茂市で生まれ育った僕にとって、小中学校に外国籍のクラスメイトがいるのは当たり前のことでした。日本語が得意な子もいれば、そうでない子もいました。日本語学習で助けを必要としているそんな彼/彼女らが、いきいきと放課後に学べるKDCという場所が現在の美濃加茂にあることは、日本語を学ぶ本人にとってはもちろん、彼らの保護者、学校、さらに回り回ってまち全体にとってありがたいことだと感じています。
一方で、KDCは公共のサービスではなく、細野さん個人の、民間の活動です。現時点では補助金等の行政からのサポートが少なく、サービスの幅を拡げることや継続していく上での課題も多いことが分かりました。今回のインタビューは、まちを構成する全ての人々が公平に不自由ない暮らしをしていくことがいかに難しいかを知る機会にもなりました。そうした気づきを得る上で、まず細野さんに出会い、その活動を取材できたことに感謝しています。(高木/らんびー)

美濃加茂市にたくさんの外国籍住民が暮らしだして30年以上が過ぎました。当初は「お金を稼ぎに美濃加茂市へやってきて、いずれは母国へ帰っていく人びと」として見られることが多かった彼らも、時が経つにつれて「美濃加茂が好きだから」と持ち家を建て、定住する層が増えており、また長く美濃加茂に住む親族や友人を頼って来る方など、今もその人口は増加し続けているといいます。このように外国人の生活の実態は時代と共に変化しています。「外国人」というワードを考えたとき、美濃加茂では「地域のいち構成員として、共に暮らすパートナーである」という意味合いが以前より増しているはずです。そして「美濃加茂」というワードを考えたとき、より「多文化共生のまち」であることが想起されやすくなっているはずです。しかし、市民が抱く外国人像は、果たしてどれだけアップデートされてきたのでしょうか。
取材する中で感じたことは、市民目線的には外国人への無関心が広がっている、それが未だマジョリティだろうということです。一方で、行政レベルでは常にアップデートされていると感じました。海外に住む上では、やはり言語がいちばんのハードルでしょう。市は、時代の状況に合わせて「のぞみ教室」や「MIRAI」などの事業を立ち上げて外国籍住民への日本語教育の基盤を整えてきました。そして、外国人系保育園で日本語を指導する「プレスクール事業」を実施したのも、幼児期における日本語教育の重要性を考えてのことだと思います。こうした行政の取り組みがあったからこそ「さらにきめ細かな日本語教育が必要だ」と、細野さんという個人が外国籍児童向けの民間の学童保育施設を興すことに繋がっています。
多文化共生のまちを考える上で、もちろん日本人と外国人、双方の歩み寄りや相互理解は欠かせませんが、ありのままの自分を知ってもらえないと意味がないと思います。KDCでの細野さんの日本語指導は常に真剣です。子どもたちも、その真剣さに真っ直ぐに向き合っています。この熱気あるKDCという場所があるのは、外国籍の子どもたちが言語というハンディに影響されることなく、個々が自分らしくキラキラと育ってほしいと切に願う細野さんの想いがあるからです。この想いに、美濃加茂という地方都市から多文化共生を考えるヒントが詰まっている。そう感じるインタビューでした。(小野寺/編集部)

聞き手:小野寺諒朔、高木健斗(らんびー)、齊藤達郎(NTTアーバンソリューションズ総合研究所)
構成・編集:小野寺諒朔
編集補助:福田晃司、春口滉平
デザイン:綱島卓也