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【歴史探訪】牛窓の塩の歴史 栄枯盛衰 夢の跡

 メイン画像は、牛窓オリーブ園の北側に広がる錦海塩田跡にできたメガソーラー群です。今回は、塩で牛窓の歴史を辿ります。

 縄文や弥生という言葉から連想しやすい土器。縄文時代と考えられる遺跡の土器出土状況でいいますと、西日本では煮炊きに利用される深鉢と食物を盛る浅鉢が主流で、壷はあまり出土していないようです。朝鮮半島や九州北部の影響を受けたと思しき弥生時代の深鉢を「甕《かめ》」と呼ぶようになり、また米などの貯蔵用と考えられる壷《つぼ》が多くみられるようになったとか。弥生中期の紀元前1世紀ごろになって、岡山や香川の海岸部では土器を使って塩がつくられるようになり、牛窓地域では長浜地区の遺跡から製塩土器が出土しています。そして古墳時代に入ると、塩生産地が拡大。錦海《きんかい》湾沿岸だけでなく前島や黒島からも製塩土器が出土しますが、何より師楽《しらく》地区から出土した製塩土器は研究上でも重要視され、「師楽式土器」と呼ばれ、製塩土器の代名詞のように用いられるようになりました。光栄なことですね。
 しかし、この後、牛窓の塩づくりは下火となってしまいます。
 ところが6世紀中ごろから急に塩づくりが盛んになりました。錦海湾沿岸、牛窓湾に面したところ、前島や黒島など合計22か所の遺跡が確認されています。特に牛窓地区の乙佐塚《おとさづか》古墳、鹿忍地区の槌ケ谷一号墳という「古墳」から副葬品として製塩土器が出土し、塩づくりに関わる有力者のものとも考えられています。有力者ならば、ヤマト政権との関りもありそう……と史実をあたると、555年に白猪屯倉《しらいのみやけ》、556年に児島屯倉が設置され、大臣の蘇我稲目や蘇我馬子らが派遣されて管理をしたことが認められます。その「屯倉」って何かと言うと、要衝に置かれたヤマト政権直轄地、さらには「○○部」という姓を名乗る土師《はじ》部、陶《すえ》部など製塩土器につながろうかという専門の職業によって朝廷などに貢献したいわゆる「部民《べみん》」、中でも葛木《かずらぎ》部のように大王直属のもの、白猪《しらい》部のように特殊な集団まで含めた“ヤマト政権による”重要地域管理体制のこと。屯倉があり、職業集団のゆかりが地名などに残っていることは、この地域はヤマト政権にとって要衝だった証拠ですね。歴史的にも有名な蘇我馬子がやってきて、精力的に開発された、そしてその一つに塩づくり専門家集団もいたと想像するのもワクワクポイントです。(ちなみに587年に蘇我馬子によって物部守屋が滅ぼされて勢力がそがれていきますが、物部氏を吉備と結びつける説もあります。)
 蘇我と言えば、母が蘇我氏、父は天智天皇、661年、おそらく白村江の戦い・九州遠征時に生まれた元明天皇が気になります。在位は707~715年の女性天皇ですが、わずか8年の間に和同開珎を鋳造させる、平城京への遷都の際は実務家藤原不比等を重用し、忠節の人・左大臣物部石川麻呂を旧藤原京に残す冷静さ、各地の産物や地名の起源などを記した『風土記』を編纂させるなど功績も多く、さらには長屋王の皇親体制を作り、藤原氏を牽制するなど政治的センスも抜群だったようです。治世の終わりには郷里制も敷かれ、荷役という運送に関わる人々にも気をかけてくださっていたとか。何しろ、父が天智天皇、夫の草壁皇子は天武天皇の子、異母姉が持統天皇ですので、元明天皇はずいぶん苦労されたはず。だからこそ、バランス感覚が磨かれ、地方にも目が行き届いたのかもしれません。もう少し突っ込むと、『備前風土記』の逸文には牛窓の地名のいわれである神功皇后と塵輪鬼《じんりんき》の話が残っています。しかし、どちらかと言えばこれは「伝説」。神功皇后(が実在したとすれば)は日本海側から九州に入ったという説が現在は主流のようですので、元明天皇時代になぜこのような話がまことしやかになったのか、その政治的意図が気になりますね。今後の課題です。
 さらに時を経て1445年室町時代中期の「兵庫北関入船納帳」に記された牛窓からの船の積み荷の記載が大変興味深いのですが、嶋塩(小豆島の塩)・小島塩・備後塩・神島塩・タクマ(詫間)塩・引田塩・手島塩というように産地の名前を冠した特産塩を多量に扱っていました。牛窓で塩を作るのではなく、高値で売れる塩を商うフェーズに転換している様子が伺えます。
 江戸時代になると、もう少し詳しい資料が残っています。邑久郡諸浜で塩生産量・質ともにダントツは鹿忍村。隣の児島郡の塩は大坂や岡山・美作向けに販売していますが、鹿忍の塩は『備陽記』に「備前国より出る名物の事」「邑久郡鹿忍村にて焼塩也。他の所にて焼塩はにがりをさす。鹿忍の磯にて焼塩はにがり不入、別して塩こまかにて名物とす。」と紹介され、岡山城下や岡山藩江戸屋敷で消費されていたとみられています。この鹿忍村の塩について紙に記されたものとしては1655~60年頃の「邑久郡絵図」がありますが、近くには、牛窓村、小津村、大浦村でも塩浜がありました。その牛窓村の中でも、紺浦は後に藩営の塩田開発がすすめられます。
 1792年、牛窓村の平六・平五郎が請け負いますが、難工事に次ぐ難工事。尾張藩公認の「尾州(尾張)日雇」という尾張国知多郡北奥田村から出稼ぎの人々も来て契約して働きましたが、うまくいかず、荒浜になってしまいます。請負人が何度か変わり、やっと生産できるようになったのは10年以上経ってから。1809年、1814年の出来塩の記録がありますが。ちなみに児島の塩田王と言われる野崎武左衛門が塩田事業を始めたのが1829年ですので、紺浦塩田はその少し前、まだ塩田経営ノウハウが固まっていない厳しさがあったと推察されます。その後1840年には鹿忍塩田が入浜式塩田として再開発され、後に野崎家所有、さらに豊島片山家所有、最終的に請負小作人の長尾家に移管、その後大正時代に旭東塩業株式会社が組織されました。
 塩づくりが各地の一大プロジェクトとして藩や資産家の間で進められる中、1905年、西服部家は兵庫県赤穂郡の、森氏時代に開拓された東沖手浜の塩田を購入し、次々と買い増し、開業3年で31ha以上の大塩田主となりました。この1905年というのは、塩の専売制度が実施された年ですが、1910年には第一次塩業整理、1929年、1959年、1971年と4回の整理を経て1997年には専売制度が終わりました。
 塩のような必需品の国策が猫の目のように変わり、百年というおよそ4~5代経つころには全く違う姿になる。先人の苦労を思えば、虚しいことと思われます。現在、牛窓オリーブ園の山頂広場の展望台から北を臨むと錦海塩田跡は西日本最大級の規模のメガソーラー板で埋め尽くされています。また、上物の塩で名を馳せた鹿忍の塩田跡は、「水没廃墟」としてネット情報で有名スポットになってしまいました。特に日々の暮らしのすぐそばにある、近世の栄枯盛衰の夢の跡はいっそう儚く感じられます。

鹿忍塩田跡

参考文献----------------------------------------
『牛窓町史』、『近代日本における地主経営の展開―岡山県牛窓町西服部家の研究―』大西嘉一郎編著、『岡山文庫 野崎邸と野崎武左衛門』猪木正実、『物部氏の正体』関裕二、等
監修:金谷芳寛、村上岳 
文と写真:田村美紀


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