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【歴史探訪】のちに『日本国王』を名乗る足利義満 牛窓で雷に遭う

 修学旅行で京都に行くと、必ずと言っていいほど訪れるのが臨済宗相国寺派鹿苑寺金閣。世界遺産の一つでもあります。もともとこの場所には、鎌倉時代に藤原公経が西園寺を建立していたのですが、足利義満が譲り受けて住まいとし、政治の中枢にもなった場所です。ともすれば、「金閣は義満、銀閣は義政」とさえ覚えたらいいんじゃない?というふうに、室町時代はちょっと注目されにくいせいか、例えば牛窓の本蓮寺本堂と中門は1492年頃に再建された国指定文化財にもなっている貴重な室町時代の建築物ですが、ほとんど知られていません。

本蓮寺本堂

 しかし、実際に本蓮寺に足を運んでみると、その侘び・寂びも醸し出している佇まいは「なんだか、銀閣にも似ているような…見れば見るほど、素晴らしい」のです。慈照寺銀閣は1482年に建立されたものですので、倣って造られたのではないかという気すらしてきます。さらに、もう少し調べると…本蓮寺の寺号を授与した日隆は、あの有名な京都本能寺の開祖。法華宗が都から堺、宇多津、尾道へと広がっていくのは海運の筋そのもの。室町期の朝鮮通信使も寄港していますので、中世の牛窓がいかに栄えた港だったかが分かります。
 今回は、その印象の薄い室町時代に燦然と輝く巨星、第三代将軍足利義満にスポットをあててみました…いや、スポットをあてずとも、義満の人生は華やかそのもの!
 誕生は延文3(1358)年8月22日。祖父は初代将軍尊氏、父は二代将軍義詮。母は石清水八幡宮の神官の娘であり、順徳天皇の玄孫でもある紀良子。ちなみに、新暦に直すと9月25日生まれのてんびん座。幼名は春王。生まれながらに武家と公家のDNAを備えていたんですね。

1366年 従五位下の官位を賜る
1367年 父の死により将軍家家督を継ぐ
1368年 元服する
1369年 征夷大将軍となる

 今でいえば小学生のうちにこれだけの権力を手中にしました。1362年に摂津の景色が素晴らしいからといって「京都に持って帰ろう。お前たちが担いで行け」と家来に命令したというエピソードもあるらしいので、もともとあった権力者気質がどんどん醸成されるのも自然な成り行き。この頃、延暦寺、興福寺、石清水八幡宮など寺社が強訴という強硬手段を繰り返していましたが、実際に幕府を運営していたのは、先代義詮から「義満をヨロシク」と頼まれていた細川頼之で、ナンバー2の苦労を見ていたからか、義満は頼之のような武家的な手法を取りませんでした。大人になった義満のやり方、それは、いわば誰も思いつかない異次元の取り組み…つまり、関白二条良基の指南による公家文化の継承、どころか、それを超えて【自らが公家文化を再興】するということです。

1374年 日野業子を正室に迎える
1378年 権大納言右大将となり、洛中で、皆を着飾らせて盛大なパレードをした

 儀礼を厳粛に行うことに熱心な義満は、誰よりも朝早く場に現れます。また、命令するのではなく、「~してくれたら、嬉しいな…」とほのめかす、その意をくみ取れないものは、処分するという恐慌統治だったらしいですよ。怖い怖い。公家たちは面と向かって逆らえませんので、日記に苦しい胸の内を書き記しています。そして義満が好きなものは、禅、和漢連句、明の贅沢品、美童、なんと人妻(弟の奥さんも!)…公家たちは生き残るために義満が望みそうなものを次々と献上し、せっせと仕えます。中には蹴鞠が得意で気に入られたばかりに、体調を壊して亡くなった人もいるとか。また、後円融上皇とは途中から関係がぎくしゃくして、後円融の妃と密通を疑われて釈明するも、後円融は妃をめった打ちにし、義満に配流されると恐れて自殺未遂!中世最大のスキャンダル!?結局、信頼が失墜し、痛手を受けたのはむしろ後円融の方という始末でした。

1383年 武家で初めて源氏長者、准三后(=皇后などに准じた処遇の称号)となる
 もう怖いものなどありません。そういうとき、ひとは旅をしたくなるのでしょうか……。
1388年 富士山に行ってみる
1389年 厳島神社に行ってみる

 厳島へは斯波義種、細川頼元、畠山基国、山名満幸ら重臣を従えて、百艘を超える船団で船旅をしました。讃岐で閑居している、若かりし頃に世話になった細川頼之を訪ね、厳島に参詣後は大内義弘にも会い、それぞれしばし同行しているので、「情報収集や大名の懐柔目的」と言われていますが、その行き返りで牛窓に立ち寄ったのです。

『鹿苑院殿厳島詣記』によると
康応元年(1389)三月廿四日
今夜はうしまどに御とゞまりなり、赤松右馬助まいりてあるじつかうまつるなるべし、夜になりてまたかみなりあられふり大雨風になる程に、舟のいかりをとりて此泊のすこしひむがしのわきに舟をなおしき、其ほどのさはぎのゝしる船こどもの声々、神なりさはぐにもおとらず、まうちぎみばかりは寺の侍しにうつらせ給ひけり 
  (『群書類従十八』) 『牛窓町史資料編Ⅱ』より

 接待役は赤松右馬助、当時備前守護だった義則の弟満則と想定されています。雷などがひどく、義満の休息所としてあてられたのは、『鹿苑院西国下向記』によれば、正法寺。でも、現在の牛窓町内には正法寺はありません。さて、牛窓町内のお寺と、字地図をチェック。
 金剛頂寺真光院(西寺)は本堂棟札写しによると1179年旧本堂再建なので、遡ること約200年。本蓮寺本堂が再建されるのはほぼ100年先。千手山弘法寺(昔は「興法寺」)は後醍醐天皇の祈願所。足利尊氏の凶徒退治を祈らせた教書が残っています。名前が似ている、祖父のゆかりがあるといえば、弘法寺も捨てがたいのですが、「よもぎ島の東」、静かなところという立地からすると、ちょっと違う。それに、雷を避けるなら、山には行かないですね、おそらく。谷なら、室谷山金剛頂寺(西寺)かもしれません。それとも、字地図残っている中蓮寺、本坊山も今は無いくらいですので、正法寺があったのかも…妄想は膨らむばかりです。


金剛頂寺からの景色

 義満は後に、明に対する文書で『日本国王』を名乗ったため「皇室を乗っ取ろうとした」と非難する説もありましたが、近年、日明貿易で有利にしたかっただけでは?との見解が主流となってきました。武家御曹司であり、公家の血も流れ、祖父に近い年齢の関白からみっちりと儀礼を教わり、自ら指南役で公家に厳しく指導するほど。厳島も良さそうじゃのうと言えば、百臣を従える盛大なツーリズムとなる。僧衣が好きで、寺社勢力も大人しくさせ、当時最高に高い七重塔や、様式を寄せ集めキンキラ輝く金閣を創る、上皇や天皇も恐れる、世阿弥という美童を侍らせ、能という文化をサポートする……ほぼ、というか実質、義満は『王』ですよ。天皇とは別に、「北山殿という王がいた」でいいんじゃないでしょうか。でも、その義満が、牛窓では雷の洗礼を受けていたとは、どういう因果かしら?興味深いですね。


参考文献:『牛窓町史通史編』、『牛窓町史資料編Ⅱ』、『室町の覇者足利義満』桃崎有一郎、『足利義満』小川剛生、『室町の王権―足利義満の王権簒奪計画』今谷明、『「室町殿」の時代 安定期室町幕府研究の最前線』久水俊和、『足利将軍辞典』木下昌規・久水俊和、『室町幕府将軍列伝』榎原雅治・清水克之
監修:金谷芳寛、村上岳
イラスト:ダ鳥獣戯画  雷画像:写真AC
文・写真:田村美紀


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