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怒っていた僕は、ポップな仇討ちをしかけていく


「こんなふうに、社会全体がどうなるかわかんない状態になると、“生きる意味” みたいなものがかすんできますね」

最近おとずれる患者さんたちと、よくそんな話になる。

ギリギリで生きてるひとからしてみたら、「この世界は生きるに値するのだろうか」という気持ちが増すには十分な状況だろう。


「生きる意味」って、よくよく考えたら本当に難しい問いだと思う。


「人は必ず死ぬのに、なぜ生きるのか」


一度は考えたことがある人も多いやつだとおもう。
でも、現段階で明確な答えを持っている人の方が少ないんじゃないかな。
僕も、実際のところはよくわかっていない。


ある時期に、「僕はこのために生きてきたのだ!」と明確に感じられる日々もあったけど、またよくわからなくなってきてしまった。
たぶん、それは人生レベルでの解ではなかったのだろう。



こんなに複雑な関係の中で生きている僕たちに、「絶対」はない。
それはたまに悲しくなることではあるけれど。



ただね、しばらく普通の人より少しだけ「死」が近いところにいて、それなりに一生懸命やってきたおかげで、すこしずつ暫定解らしきもの見えてきて、日々それをブラッシュアップしている感じだ。


この本の「おわりに」には、いま時点での僕の最大限の「こたえ」が書けたような気がしている。


生きる意味は、そりゃあすぐにはわからないけど、それらしきものを追い求めて、失って、よくわからなくなって、また考えて。


そういうのをくり返して、少しずつ確からしくなっていっているはず。

その過程には、きっと意味があるんだ。


おわりに 

はじめに」で、僕がメンタルヘルスについての活動を続けられている理由の一つに、大切な人を亡くしてしまった喪失感に、自分なりの意味を持たせたいからというのがあると書いた。

 自分が文章を書く人間になるとは思わなかったけれど、大きな転機となったのは、コルクラボというコミュニティで出会った編集者・佐渡島庸平さんのアドバイスだ。

 中でも「誰かを救うためじゃなくて、自分が救われるようなことを書けばいいよ」という言葉は、今でも自分のお守りになっている。
 
 この本の文章はまさにそういったものだし、「書くこと」「言語化すること」そのものによる「癒やし」って確実にあると思う。
 特にここ2、3年で出会った人たちは、「背骨が入れ替わる」くらい変化するきっかけを僕にいっぱいくれて、本当に感謝している。

 

 ここで、一つ想い出話をしたい。
「死にたい気持ち」と「コンテンツ」についての話だ。この本をつくろうと決めた、原体験と言えるものかもしれない。
「死にたい」人が死ぬか生きるかは、意外と小さいことで決まる。
 そんなに大層な理由でも、エモい理由でもなく、けっこうドライだったりする。

 ある日、友人を通して、心を病んでいる子の相談を受けた。
 彼女は、超名門大学の医学部を卒業し、超有名病院で医師をしている女性だった。誰もが羨望するようなキャリアだけど、彼女は「死にたい」のだ。
 定期的に電話で話した。大半はフラットな雑談であるが、ときおり彼女は、フラットに「死にたい」気持ちを話し、僕はそれをフラットに聴く。
 その瞬間、その子が生きてるのは、本当に「たまたま」なのだ。

 
 ある日、彼女が「こんな話されても、めちゃ困りますよね」と訊いてきた。
「別に困ってないよ。むしろ、けっこう面白いよ」と答えた。
 不謹慎かもしれないが、嘘のない気持ちだったし、彼女もそれほど嫌ではない様子だった。
 何度か話していくうちに、彼女との会話が楽しみになっていたので、「死んでほしくないなあ」と思うようになった。


「こないだの練炭さ、ちょっと捨ててみない?」
「うーん」
「そのほうが生きる確率は上がりそうじゃない?」
「いやでも、そもそも、生きるメリット感じないですしね」
「まぁ、そうだよね」
「とりあえずホールドします」


「死んでほしくない」という思いはこちら側のただの執着であって、それが愛と呼ぶべきものかどうかを決めるのはいつでも相手側だ。ここに、正義感や使命感のような感情を持ち込むと、よくわからなくなってしまう。それは多分、本当に相手を見ていないことになると思う。

 キャバクラのコミュニケーションのようだと思った。客の立場で、こちら側の執着を飲み込んでくれるかどうかはキャストの勝手。

「ワンチャン狙いで絡みに行って、相手が『まぁ、死にたくないかもな』と思ってくれたら儲けものだよね」みたいな内容のことを言ってみたら、「そうかもしれないですね」とか「なら、ちょっと色々試してみてくださいよー」と悪戯っぽく笑って答えた。なかなかの小悪魔っぷりで、ワンを狙える逸材だと思った。


 医学部時代に「自殺予防」の授業で習ったのは、まず自分との信頼関係をつくり、自分を拠り所にして「死なないことを約束させる」というアプローチだ。

 でも、それはなかなかに分が悪いと思った。彼女の生きている世界観は絶望的だったので、「この僕に免じて生きてください」と言うには、僕のコンテンツ力はあまりに薄弱だなあと思った。
 自分を心配する奴がいるということが、どこか不思議そうな様子だった。心配されている存在たる自分の価値を、リアルに感じられていないのだろう。
 実に「ふわふわした」コミュニケーションだった。

 

 さて、これはどうしようかなと思っているうちに、ふとゲームの話になった。
 ドラクエが超好き、という話を僕がすると、彼女も昔ドラクエ3をやったことがあると言う。
「へー、そうなんだ。だったら、4とかも名作だから、やってみない?」と伝えてみた。
「生きたい」にも「死にたい」にも情熱があまりない感じだったし、ちょっとでもこっち側に傾けばいいのかもくらいに思って、コンテンツの力を借りることにした。現世への執着がちょっとでも出てきたらいいなと淡い期待を込めて。
 ドラクエ5もいいなと思ったけど、5は親子ものだから、やっぱりよくないなと思って、「4のあとは8がいいよ」と後でメッセを送っておいた。
 ロマサガやゼルダの魅力も語った。彼女は音楽をやっていたので、イトケンこと作曲家・伊藤賢治大先生の「四魔貴族バトル2」という曲がいかに神がかっているかとか。
 コンテンツ自体も楽しいけれど、そのコンテンツについてあーだこーだ語っている時間のほうがもっと楽しいよね。それでスポーツバーなんか流行ってるしね、とか。

 
 そんな内容の会話を毎回だらだらとしていた。 彼女と話すのは楽しかった。物心ついた時から「まったりと死にたい」気持ちを持っていること以外は普通の子だった。
 その後、彼女は住む場所を変え、かかる医者を変え、少しずつよくなっていった。

 ある日、いつもの会話の中で、「うまいこと生きられたら、今度新しいドラクエが出るから、それは一緒にやろうよ」と言ってみたら、応じてくれた。
 一応、約束ができたからよしとしよう。
 
 セオリー通りの「死なない約束」ではないけど、「一緒に新しいドラクエをやる約束」はできた。総力戦でもいいじゃないか。現世にちょっとでも糸がかかっていく感じがあれば。細い糸でもいいけど、いっぱいかかってくれたら、多少はこの世界のことをマシに思えるかもしれない。
 

 自殺を企図した人が、その場で自殺を阻止され、なんとかその難を逃れた場合、10年後に生き残っている確率は90%だ、なんて報告がある。
「たまたま」死なないで生き残った人が、何かのはずみでハッピーになったりすることもあるだろう。そういう話を、実際に一事例ずつでも積み重ねていくことで、世の中よくなったりするよねー、と期待してみたりしなかったり。



 ちょっと時間がたって、約束した新しいゲームの発売日が来て、その日の未明に、彼女は旅立ってしまった。


 彼女の死の知らせ受けたのは、僕が遠方で当直のアルバイトをしている時だったんだけど、事務の方には事情を話して謝り、仕事を切り上げて、1000キロくらい離れた彼女の家にお別れを言いに行った。
 その日、彼女と一緒に関わっていた仲間たちと、お互いのグリーフケアも兼ねて、飲んだ。それぞれがどんな思いで、彼女とどんな関わり方をしていたかを語り合った。そこで分かったのは、みんなそこそこ彼女に夢中だったってことだ。
やはり、小悪魔だったな。


 もし「死にたい」が「生きたい」にひっくり返っていたら、どんな素晴らしい変化を見ることができただろうか。
 それを夢見ずにはいられないほどに、面白い奴だった。

 

 僕は、やっぱり喪失感が大きくて、1カ月くらいは仕事が手につかなかった。
 約束したゲームを、呆然とのめり込むようにやっていたんだけど、正直、プレイ内容はそんなに覚えてない。


 その時のことをツイッターでつぶやいたのが、これだ。

 ちょっと前に大きな喪失体験があり、その逃げ込み先がドラクエ11でした。その80時間は余計なことを考えずに済み、結果としてショック期からはやく立ち直れたと思います。
 人によっては小説だったりアニメだったりするだろうけど、「逃げ込み先としてのコンテンツ」の価値はもっと理解されていい。



 これが、ものすごくバズって笑った。
 僕自身も、コンテンツに救われているのだ。

 

 私的にメンタルヘルスに関わるようになって10年以上になるけれど、この時が一番「しんどいから、やめようかな」と思っていた。



 そんな時、別の大切な友達から、命がピンチっぽいメッセージを受け取った。

「そんなに色々と思うことがあるなら、ツイッターとかやってみたらいいじゃん?」と僕にすすめてくれた、大切な友人。僕が何かを書くきっかけをくれた人だ。 


 夜中にそのメッセージを受け取った途端、迷いなく「体が勝手に動く」みたいな感じで、自然にその友達の家に車で向かっていた。そのことに僕自身がびっくりして、同時に救われもした。

 ああ、僕はやっぱりこれをライフワークにしよう。してもいいや、と思った。
 僕は身の回りのごく近しい大切な人の「生きづらい」「死にたい」に、全力で応えられる人間でありたいのだ、ということがわかった。

 僕は『ドラゴンクエスト ダイの大冒険』という漫画が大好きなんだけど、その中に出てくる「勇者とは、勇敢な者のことではなく、人に勇気を与える者のことなんだ」という言葉をずっと心の拠り所にしていた。 

 ずっと「勇者」になりたかったのだけど、じゃあ、誰にどんな勇気を与え得る者でありたいのか。
 
 それは、僕のすぐ近くにいる、絶対に死んでほしくない大切な人に、「生きる」勇気を与えられる者になりたい、ということがようやくわかった。


 僕は「変化フェチ」なので、人が変化するときに本当にロマンティックな気持ちになるんだけど、「生きづらさ」を抱えた人がもたらす変化ってのは相当にセクシーだということを知ったので、もうしばらくそこに関わっていられるだろうなと思っている。

 
 グリーフワークとは、大切な対象の喪失(死別や離別)の悲しみと、そこからの立ち直りのプロセスのことだ。その最終段階は、「喪失した対象との関係を再構築すること」だと言われている。


 人は、大切なものを喪った時に、その体験に何か意味づけをすることで前に進める。僕はこれまですごく大切な人たちとの死別や離別を経験してきたけど、そのたびにしっかりと意味を受け取っているから、おかげで退屈せずにすんでいる。

 まさに「ありがとう、悲しみよ」だ。

 

 冒頭でも述べたことだけど、コンテンツには、人を救う力がある。
 この本を書きながら、いろんな人のことを思い出していた。


 『人間失格』を肌身離さなかったあの人。
 パブロの楽しさを教えてくれたあの子。
 一緒に働くはずだったのに、うっかり高波にさらわれたあいつ。
 また笑って会いたいなと思う人。もう会えない人。

 
 わりと最近の話でいうと、R氏のこと。

 もともと「まったり死にたい勢」だったR氏は、仕事のストレスもあいまって「がっつり死にたい」状態で僕のところに訪れた。
 
 人生のコントロール感を持ったことがなかったR氏は、出せはしないだろうけど一応持たせておいた診断書を、うっかり職場で出せてしまったので、やることがなくなってしまった。

 1週間くらい泥のように寝た後、やることがないので、ニンテンドースイッチを購入し、実況動画で見ていただけだった、「ゼルダの伝説」の最新作をやり出した。初めて「やってみたい」という気持ちになったからだそうだ。

 景色が綺麗すぎて感動したらしい。アクションゲームは初めてだったそうだが、最終的にはライネルを野良で狩れるようになっていた。逸材である。
 あっという間にクリアしてしまったので、「夢を見る島」のリメイク版を推薦した。

 それもあっという間にクリアしてしまったので、坂口恭平さんの『cook』という本をおすすめした。
 初めて、自分のための料理をし出した。とても気分がいいらしい。「野菜を切っている時、心が落ち着く」のだそうだ。

 ついでに、「スプラトゥーン」もすすめておいた。今、初心者の友「ボールドマーカー」を持って、Cマイナスランクの高い壁に挑んでいる。

 そんなこんながあり、R氏の抑うつスコアは、人生で一番低くなっていて、「ゼルダの新作が出るまでは、死なないでいられそう」と言っている。

 世界に細い糸が、かかり始めている。任天堂という素晴らしい会社の功績で、その糸はもうちょっと太くなるだろう。


 世の中には、もはや堪能しきれないくらい膨大な数の作品がある。世界中の天才たちが、僕らの心を動かそうと、魂を込めて作品をつくり続けている。そんな素晴らしい「つくり手」たちのおかげで、現世との接点になり得るものは、そこらじゅうに転がっている。どこで糸がかかるかわからない世界だ。


 僕の「スプラトゥーン2」のプレイ時間は2000時間を超えたけれど、いっこうに飽きる気配がない。こんな素晴らしい作品と同じ時代に生まれて、超幸せ者だ。

 要は、僕らは生きるためにもっと「コンテンツ」の力に頼ってもいいんじゃないかっていうのが、一番言いたいこと。


 この本は僕の居場所であるクリニックの仲間とつくったんだけど、ミーティングでも「ポップな感じに」ということをひたすら言っていた気がする。想いが深すぎて一部だけ超ヘヴィーになってしまった部分はあるけど、基本的には「ポップ」であることにこだわりたいなあと思っていた。


 今より少し前、僕はけっこう怒っていた。怒りを燃料にしてやっていた時期があったなと思う。

「絶対に許せない」
「あいつを追いつめたクソみたいな仕組みを、駆逐したい」

 そんな強めの言葉を使って、すごく怒っていた。
 大切な人が先にログアウトしてしまった悲しさを、怒りにして世の中にぶつけていた。

 でも、だんだん怒りをエンジンにするのに疲れてきたので、もうちょっとライトでポップなテンションで、世の中への仇討ちをしかけていきたいと思うようになった。

 怒りの感情をずっと持ち続けているのはしんどい。怒りも悲しみも忘れはしないけど、「ポップ」なほうに路線変更することにした。そのほうが楽しいし、一緒にいる人も心地いいだろうから。


 これからもポップな仇討ちをまったりとしかけていきたい。

 というわけで、この本は僕らの「ポップな仇討ち」の最新作なのです。

 
 R氏がハマったゲームに比べたら微力なものかもしれないけど、精一杯魂を込めました。
 ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。


                          鈴木裕介




大切な人たちのことを考えながら、大切な仲間たちとつくりました。
とても大切な本です。

読んでいただけたら嬉しいです。




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さて、FF7リメイクは売り切れだったので、久しぶりにこれでもプレイしようかなー。


いつも読んでくれてありがとうございます。 文章を読んでもらって、サポートをいただけることは本当に嬉しいです。