ヘルシーな「親密さ」とはなにか (自他の境界線)

こんばんは。

つい先日、この境界線をテーマにした勉強会みたいなのがあって、そこで「老師」って感じの素敵な先生といろいろお話しすることができたんですよ。ひさびさに「いい背中を見た!」って感じで、アガりましてね。
すげー楽しくて、やっぱひとの心っておもしれえなあ、っておもったよね。


今日も「境界線」のことについて話していくよ。


前もいったように、他人との境界線がうすいことの大きな要因は、ずっとみずからの境界線を侵害されるようなコミュニケーションが日常的だったからなのだよね。


暴力をふるわれたり、暴言を言われたりといったわかりやすいものではなくても、感じたままの感情を否定されたり、過保護的な過干渉を受けたり、狭小な価値観を強制されてきたりすることで、「じぶんという存在」は容易にガシガシと削られていく。こういったのは、人間の根源的なパワーをわかりやすく奪うコミュニケーションだよね。

ここで言ってるパワーというのは自己肯定する力そのもので、それはじぶん固有の感じ方・考え方を信じる力であり、それがないと、ラインを超えてきたものを押し返す力が出せない。

境界線の感覚を得る機会がたまたま無かったことは100%環境的な要因で、ピアノがない街に生まれたのでピアノを弾けないとか、少林寺拳法の隠れ里に生まれたからカポエイラができない、と同じようなもんだ。

ただ、境界線の感覚がないことは人間関係の構築に大きく影響するから、ピアノを弾けなかったりジンガ(カポエイラの基本的なステップ)が踏めないことよりも日常においてだいぶ困る、ってことが問題なだけ。

ピアノがない家に生まれたことでピアノが弾けないことを悔やんだり恥じたりする必要はないし、弾けるようになりたかったらそのタイミングでピアノ教室に通えばいい。いま時点でその力がないなら、これから学んで身につければ良いというはなしだよね。


で、それをどう学んでいくかだけど、ピアノにハノンとかバイエルみたいな教本があるように、お手本になるような人間関係があるとすごく参考になる。


実は、境界線の問題は共依存の問題と切り離せないのだよね。
境界線がないということは、押し返す力がないから、どちらかに負担が集中するようなアンフェアでアンヘルシーな人間関係に落ち着いてしまう。

身近に健全な人間関係があったらとてもラッキーだけど、そんな幸運はなかなか無いので、お手本になるようなヘルシーな関係性というのを想像してみる。

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Dr.ゆうすけとサクちゃんが「自己肯定感とはなんだろうね?」と語ります。(2018年3月分〜)

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