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自己肯定感という言葉について(最終回)


こんばんわ〜

このマガジンが始まったのがもう2年くらい前なのだけど、その時よりも「自己肯定感」ということばを耳にする機会が多くなってきたなあとおもう。


それと同時に、「自己肯定感」という言葉になんとなく息苦しさを感じているひとがいる、という話も聞こえるようになってきた。
言葉が多く使われるようになってきて、いろんな人がいろんな定義で個別に使っているからだろうな。


今日はマガジンの最後のまとめとして、この言葉をもういちど整理してみたい。


僕が考えるところの「自己肯定感」ということばの意味において、拠り所としているのは、臨床心理学者の高垣忠一郎先生の考え方だ。

自己肯定感とは、「自分が自分のままであって大丈夫」という感覚をもち、自らの存在意義や価値を肯定できる感情。対義語は「自己否定」

幼少期の生活や教育環境によって大きく左右されると考えられ、自分本来の感情を否定されて育つと自己肯定感は低くなる。

虐待というレベルではなくても、「感情の否定」は親子関係に置いてよくみられるものである。


「自己肯定感」という言葉は、1970年代に登校拒否の問題に直面した時に高垣先生が上記の意味合いで用い出した言葉だと言われている。


その一方で、外来語である「セルフ・エスティーム(self-esteem)」という言葉にも、「自己肯定感」という訳が与えられていることがある。
でも、自己肯定感とセルフ・エスティームは、微妙に意味が異なる。


自己肯定感が使う人によって意味合いが違うのは、ここによるものが大きい。
ふたつの言葉の意味の違いは「安心感」にあり、それは、「大きな存在に身をまかせる」ことによって育まれるものであると高垣先生は言う。


大きな海に身を委ねて、ぷかぷかと浮いているイメージ。
多くの人にとって、身を任せられる「大きな存在」は母親であることが多いだろう。(そうではないことも多すぎるけど)無力な赤ん坊の時に、母親(養育者)との関わりによって感じる根源的な安心感が、「自分であって大丈夫」という根源的な感覚の原型になっている。


「自分が自分であって大丈夫」と言う感覚は、ある意味自分への「こだわり」のようなものだけど、「大きな存在」である他者との関係の中でに「身をゆだねる」感覚、その安心感というものが重要になってくる。
身をゆだねるとは、「無防備である」と言いかえてもいいと思う。


もちろん、親が安心できる存在ではなかったという人も多い。
というか、僕が普段関わっている人はそうじゃないことが圧倒的に多い。
「幼少期の親との関係性が大事」だったとして、じゃあ今からできることはないのかというと、そんなことはないよね、というところからこのコラムははじまっている。


自己肯定感は、他者との関わりで育まれるということ。
無防備になれる大きな存在がいること。このあたりが、鍵になってくる。

赤ん坊ではない大人が、「無防備になる」ことは環境的にも心情的にも、ものすごく難しい。それが受け容れられるのはさらに難しいし、運やら縁やらいろんな要素がいる。


それでも、本当の安心感は、無防備な自分が受け容れられる経験を通して得られるものだからこそ、自己開示と自己肯定感のむすびつきはすごく深い。

安心を増やそうと思ったら、相手を見極めた上で、警戒を解き、ガードを下ろす。そういう武装解除の練習が必要になってくる。


ガードを下ろすから、仮に反撃を受けたらダメージがでかい。
そういうリスクをともなうからこそ、得るものもでかい。
自己開示の必要性と難しさは、そういうところにある。


「肯定」と「評価」は真逆のもの


先ほどの「セルフ・エスティーム」というには、自己肯定感の他に、「自尊感情」「自己有用感」「効力感」と訳されることもあるんだけど、これらは全部ちょっとずつ違う。


ここを整理すると


「自尊感情」は、自分が、価値のある、尊敬されるべき、優れた人間である」という感情のこと。「自分は優れている」という優劣の感覚なので、自分に対する「評価」に属する言葉。
セルフ・エスティームとは、正確にはこの自尊感情のことだね。


「自己有用感」は、他人の役に立った、他人に喜んでもらえたときに感じられる「俺って役に立つ〜♩」という感情のこと。
相手の存在なしには生まれてこない点で、「自尊感情」や「自己肯定感」等の語とちがう。


「自己効力感」は、「自分はできる!」という、自分の能力を信じる感情。何かをするにあたっての自信のこと。(カナダの心理学者アルバート・バンデューラが提唱)

自尊感情は、「自分は優れている、価値がある」という感覚なので、そもそも優劣の評価の観点がはいっている。自己有用感は「自分が誰かの役に立てたかどうか」という評価、自己効力感もまた「自分は仕事ができるやつかどうか」という評価の観点がある。


でも、そもそも本来の意味での「自己肯定感」とは、評価という軸から外れた自分の存在を認めるという感覚なのであって、これらは全て意味合いが違うものだ。



「日本人は自己肯定感が低い」と言われているんだけど、あれは「自尊感情の高さ」を自記式のアンケートによって点数評価で聴いたもので、しかもそれを各国で比較しているというので、そういう概念を比較・競争の土俵に持ち込むこと自体、本来の「自己肯定感」とは矛盾がある。


ちなみに、「自尊感情」が高まったとしても、幸福度は高まらなかったという報告もある。そりゃそうだろうな。
実力以上に過大評価してしまったり、自他の評価のギャップにストレスを感じるようになったり、ということが起きうるからね。


安心を得ることはひとつのゴール

「安心を得られる人間関係をもつ」というのは、他人と関係をむすぶことにおけるひとつの大きなゴールだとおもっている。


これは、自己肯定感のあるなしに関わらず本当に難しいことだとおもう。
人と人の関係に、どうしても評価の側面は入ってきてしまうし、おなじ目的を共有するとなれば、コミットや達成といった尺度が入ってきてしまう。

「評価(ジャッジ)」されない人間関係をどうやったらもつことができるか。

これもまた難しくて、運やら縁の要素がからんでくるんだけど、それを得るためには、まず自分の方から、評価とは関係ないところで人と関わるという態度が必要なのだと思う。

「居場所を得るためには、自分が誰かの居場所になるのが最善」という尊敬する先生の言葉がある。
それは安心を得られる関わり方のスタンスについての本質をいっていると思う。
要は、「ジャッジのない関係を得るため必要なのは、ジャッジを手放すこと」だ。


「無防備さ」って伝染するので、自分からうまく無防備になれる人のまわりには居場所ができやすい。

その人の好不調とか直接的なメリットのあるなしにかかわらず、「関わりたいな」とか「いとおしいな」「おもしろいな」と思える人がいることは、すごく恵まれていることだと思う。


もちろん、一緒に何か仕事やいとなみをするとなれば、能力や言動のところでは多少の文句やフィードバックがあるかもしれない。でも、根本の存在のところでは、ジャッジが存在しない。そういう関係がいいなとおもう。

まあ、それをつくるには、なんというか、人間としての鍛錬がいるんだよなあ〜とつくづく感じている。(僕はまだまだ足りていない。)

自分自身がそれを得たいとおもっているから、「安心」とかそういうことをこれからもずっと考えていける。

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Dr.ゆうすけとサクちゃんが「自己肯定感とはなんだろうね?」と語ります。(2018年3月分〜)

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