不安と貪欲

何か書こう、なにか書こうとしてるんだけど、どうも一向に進まない。これではたとえエージェントがついたとしても、一点で切られてしまう。
どうして心配は常に取り付くのだろう。


一つ夢が叶うとそのかなった夢から不安が生まれる。誕生は不安を伴う。
大体生まれてくること自体が不安の誕生だ。体や心が存在しなければ不安の生きるホストがいない。つまり、これはウイルスと一緒なのだ。私の不安は私の欲求を叶えたことにより生まれている。


元を正せば私はただただアメリカに住みたかったのだ。San Franciscoでなくてもよくて、家族がいなくてもよくて、書くお仕事についてなくても結構で追い出される心配なくアメリカで暮らしているだけで十分幸せになると信じていたのだ。それだけが私の夢だった。


それが実際住めるようになると、次なる夢に向かって走り出してしまう。住むだけではなく、どう住みたいかを考えるようになるのだ。貪欲である。

どう住みたいか、それはピンからキリまであり、やりがいのある仕事について、安全な場所、新しいIphone、子供の教育に良いところと様々。生きることだけを考えてきたときに比べるとずっとずっといい環境にいるはずなのに幸せからは離れていっている感覚になる。欲求の数だけ不安の数もある。そして生きたいという1つの不安から掛け算状態で不安は瞬く間に増えてゆく。そんなことならただアメリカで生きたいと思っていた時の方がずっと幸せだったのではないだろうか。あの時の心配は1つだけだったのだから。再びその状態に戻れば楽になるのにと思ってみたりする、でも自ら戻る選択を私はしない。これこそが究極の執着なのだ。

子供、親、友達全員リセット、今住んでいるところ、書くこと(配偶者がいない分だけ私には一つ心配の数が少ない。)それらのことを私は手放そうとはしない。それらがいくらたくさんの不安を運んできても、それと生きることを結局は選んでいるのだ。だとしたら私は執着を手放すことに執着するのではなく、執着と生きることに集中する選択しかない。もうしようがない、これは自分で選択したことなのだから。その中になんとか冗談を見つけて生きるしかない。

言い変えれば執着できるものがあることは贅沢で幸せな証なのだ。常に獣に追いかけられている人が子供の大学進学を考えるだろうか? ヤクザの親分に銃を突きつけられている子分が至近距離で伴うコロナ感染に不安を抱くだろうか? 海の近くに住みながらまだ海に連れて来られたことのない子供がサーフィン中にサメに襲われることを怖がるだろうか?あるからこそ、持っているからこそできるのが心配なのである。

持っている気分が味わえる、それが小説である。だから私はたくさんのドラマを自分に提供しなくてはならない、どこまでいっても貪欲な自分へ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?