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アートと表現と法と建築 その2


前回の続きで、今回は表現について。

表現とアート

現代アートは「個」の表現から「社会」を如何に表現するかが問われている。
オラファーエリアソンは視覚を通じて、環境問題に訴えるアートを製作し続けている。逆に村上春樹がノーベル文学賞をとれないのは、「個」にとどまり続けて、「社会」への表現がないからだと言われている。
日本において「社会」を表現すると、政治に結びつくため非常に反感が大きい。

愛知トリエンナーレでは、表現の不自由展で慰安婦像を展示したことが問題となった。
公金を使って政治思想の偏ったアートをするなという声は、その声自体は問題ないが、それなら藤田嗣治や三島由紀夫の展示にも公金が使われているだろうから、そちらにも声を上げなくてはならない。
戦前のヨーロッパのアーティストなんて共産主義者が多かったり、現代アートの多くは政治的思想と作品は切っても切り離せないものである。ファシズムの特徴のひとつに芸術の軽視があるとローレンス・ブリットは指摘している。
そもそもアーティストという表現者に偏った表現をするなという表現の規制は不可能である。

この原因について、そもそも日本においてアートって何なのかっていう教育不足問題が一番大きいと考えられる。一般の人の美術の評価や知識が近代までで止まってしまっている。印象派までは楽しめるけど、現代アートは良さがわからないという人が多いのでは。印象画までは確かに直観で楽しめるものが多いけど、抽象画などは特に教養がないと楽しめない作品も多々ある。
そして、表現が不快だから公共の場での展示をやめろという苦情もある。
表現がいつもすべての人に快適なものなら、それはもはやアートではなくてただのエンターテイメントに過ぎない。アートはすべての人に受け入れられるもののはずではない。アートとエンターテイメントの差異をそもそも理解していない人が多いのも難点だ。


建築と表現

デンマークに留学した時に、ヨーロッパの建築と日本の建築で感じた差は「社会性」だった。建築をつくることに脅迫観念にも近い「社会性」が常に問われている。なぜそこに建築が必要か、どうしてそのデザインなのかなど、常に市民に対して説明の義務を負っている。逆に「個」の表現も社会的な説明が出来れば、建てることが出来る。古い街並みに新しい建築を作ろうとして、市民と衝突することも良くあるが、プロセスには透明性がある。

日本の建築は、公共建築においては「個」の表現をすることはあまり好ましくないと考えられている(名前が売れていれば別だが)。そして不況や人件費の高騰、安全性、環境性能などのコンプライアンスにより、「個」の表現であるデザインにかけられるコストは下がっている。現在も新規で建てる件数は多いながら、ほとんどの場合、表現性よりも合理性(機能性)が問われてる。そのおかげで建築がただの箱としてみなされることも多い。建物が飽和している現在は、個人の表現のない、人を集められる「公」の建築が求められている。
悲しいことに日本の建築家がそのような状況の中でも世界的な評価を受けていることをあまり一般の人には認識されていない。
そして、日本の若い建築家たちがコミュニティという「社会性」を訴える傾向が強くなったのは良い傾向であると考えるが、「個」の表現を隠すことが多くなっていることは懸念している。

なぜなら「個」の表現のない建築に名作はないから。
ヨーン・ウッツォンのシドニーのオペラハウスやフランク・ゲーリーによるグッゲンハイムビルバオは街そのものを変えてしまった。
今後も建築家による「個」と「公」の戦いは続けていく必要がある。

建築とアート

オラファーエリアソンのアートと建築の複合体であるHARPAはレイキャビクの新たなシンボルとなった。オラファーエリアソンが日本の建築家にも与えた影響は大きい。NAPの東急プラザ表参道や三分一博志の六甲枝垂れはその影響が見られる。
建築とアートは今後も変わらず、切っても切れない関係であり続けるだろう。第二次世界大戦前まではアートは美術館など建築に内包されるものであったが、アースワークが生まれ、美術館の枠を飛び出してきた。岡本太郎の太陽の塔はお祭り広場という公共空間の建築を突き破って現在まで存在し続けた。そして杉本博司はアートという範囲から建築の領域で仕事をしてきている。西沢立衛の豊島美術館は内藤礼の作品と融合することで世界的な名作となった。
建築はアートという、法を超え、社会を変えようとする強い表現を求めている。建築を設計する際、日本では美術館以外でアートと建築の複合体は求められないかもしれないが、街や人を大きく変えうる可能性を持つ複合態が今後もっと増えることを望んでいる。


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