記憶と住宅

今後の日本の住宅について

イタリアから日本の住宅についてのショートインタビューがあった。
これからの日本の建築家の住宅はどうなるかという問いに対して、簡単に「物質的」になると答えたけど、しっかりと考えをまとめてみました。

ハウスメーカーの住宅

まず日本の住宅は建築家が作るものとハウスメーカーが作るものを大きく分別して考えなくてはならない。ハウスメーカーが作る住宅は、高耐震性ながらコストを抑えることが重視される。これはもちろん地震の多い日本ならではの傾向で、1995年の阪神淡路大震災以降耐震性は大きく改善された。そして近年はSDGsや温暖化意識の高まりとともに高気密・高断熱の住宅が増えてきた。また照明のLED化や食洗器などの導入によって、電気・設備器具にかかるコストも上昇した。このように目に見えない部分へのコストがどんどん上昇してきた。一方意匠については、外壁はサイディング(セメント)が主流となり、タイルを模したサイディングなどの洋風の住宅も増えた。内部は木製建具も含め、すべて既製品既製品のものとなった。そして、壁は白いクロスで覆われて明るくなった一方、耐震性のために壁面積が増えて、開口部が少なくなった。柱も壁の中に隠されて、素材を感じれるのはもはや床位だ。温熱環境も室内均一となってきている。
ハウスメーカーのコストを抑える努力は非常に感心する一方、意匠という関点では40、50年前の日本の住宅と比較するとかなり劣化したと言えるのではないか。
そして今後の人口減少社会と環境配慮において、大量に供給する新築よりもリノベーションが求められている。しかし、既存住宅への耐震改修費も高くつき、単純作業ではない技術のある職人の減少、何よりもハウスメーカーの新築物件へのコストカットの努力により今後もリノベーションの普及は限られると考えている。このことを変えていくためには、政治的な役割が求められるが、リノベーションという小さな経済を動かす手法では、政治を動かすのは難しい。日本にもSDGsの思考が徐々に浸透していく中、日本の意識の中に少ない文化の維持という項目が抜け落ちているのはもどかしい。

建築家の住宅

建築家の住宅は、ハウスメーカーの住宅とは大きく一線を画す。戦後の大きな流れは割愛するが、2005年の西沢立衛氏の森山邸以降、「地域に対して開くこと」が2020年の現在まで大きな主流となっている。元々ソトに対して開く住宅は、日本の貴族の寝殿造から始まり、庭が貴族の社交の場として機能してきた。武士の書院造は庭に対して開きながら、パブリックなスペースは室内へと移ったが、農民の民家も縁側を持ち、そこは社交の場としても機能した。その外への開放性を、現在の建築家は地域(ネイバー)への開放性に拡張したものであるとも言える。海外の住宅としては、地域に開くという建築はほとんどないだろう。そもそもヨーロッパでは都市部ではほとんど個人の住宅は存在しないし、集合住宅は古来より都市の防衛上の観点から扉が頑丈だったり、窓が格子で覆われてたりしている。現在の西洋の建築家が作る集合住宅は大きな開口部を持ち、日本のマンションよりもさらに開放的になってきているが、あくまで個人のプライバシーとのバランスはきちんと図られている。この日本の建築家の地域社会への繋がりを求める傾向が強いのは、ヨーロッパと比べて地域社会とのつながりが疎遠であることに危機感を持っているからであろう。
もう一つ大きな流れとして、建築家の住宅は身体性を伴う。そもそも日本の住宅は床に座る、土間から家に上がるなどの身体性が兼ね備えられていた。柱に身体感覚を刻んだり、空間の大きさを把握させてくれたりもする。このような運動や素材などの物質的なものによって身体性を喚起させている。

本題

今後の流れとして、ハウスメーカーの作る住宅は今後も「実質的」なものを追求し、建築家の作る建築は「物質的」なものへと、二極化していくと考えられる。「実質的」な空間は「そこに何もない」ことが求められ、「物質的」な空間はそこに何かあるということが求められる。何もないことが技術によって何かを生み出され、それを何も考えないで使用することが出来る。物質的に何かあることは、実質的なものをもたらすかもしれないし、もたらさないかもしれない。有限性の中から生み出される無限性という中では共通しているのだが、実質的な空間の中では、われわれは記憶力から解放される。ベルクソンによると、われわれの純粋知覚は物質の中にある(仮想空間のなかった100年も前に考えたことに驚きだ)。だが一方、実質的空間において我々の記憶力は意味をなさなくなる。記憶力によって身体的にものを考えたり、感じたりすることの意味がなくなるだろう。そして、われわれの感情は実質空間によって無意識的にコントロールされうる。
インターネット上の空間(実質空間)で攻撃的になるのも、そこには身体性を伴わないからなのは言うまでもない。その空間上では一次志向意識水準にすぎず、生まれたばかりの子どもやサルと同等な能力になる。
逆に物質的なものは、記憶力を伴い、多くの思考を喚起する。
家で木の柱に自分の身長を刻んだり、縁側に座って集まったり、畳でごろごろしたりする記憶は日本人のほとんどが、経験したことがなくても、無意識的に良いものだと感じる人は多いだろう。遺伝子に組みこまれた記憶と、経験や環境から得た記憶は様々な思考をもたらす。

ハウスメーカーが作るものと建築家がつくるものの乖離が今後どのようなことをもたらすのだろうか。

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