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お仕事と家族のこと(重たかったり明るかったりした1,2月あたりのこと)

毎年、年末にその一年でさせてもらったお仕事をまとめているのですが、2021年のお仕事が、まだまとめきれていません。
本当はちゃんと年末に一年を振り返って、反省したり、感謝したりしながら、その都度色んな方へお礼のご挨拶をしたりしたくて、なので基本は12月にまとめ切ってしまうし、遅くとも1月中にはなんとかまとめて公開しているのに…
しかしまあ、私にとって、2021年の12月は退社直前のドタバタなひと月で、2022年の1-2月は今まで生きてきた中で一番ハードな2ヶ月で、なんだかもう振り返ってまとめている時間などなく、2021年からほぼ地続きで年明けがスタートし、今まで走り続けてきた、という感じでした…

とはいえ最近少し慣れてきて、よし2021年のお仕事を振り返ろう、と文章を書き出したとき、「高2から憧れて入社した会社を退社した」という私の中のビッグニュースをもちろん避けて通れるはずはなく、そこに触れ始めた瞬間振り返りどころの騒ぎではない文章量になるということが容易に想像できたので、もういっそ諦めて、まずはその私の中のビッグニュースとそこから駆け抜けた数ヶ月を先に整理することにしました。

とは言ったもののどこから整理しようか…
何をどう頑張っても公開できないことばかりです。
そこが気になるよっていう方はまあ感染対策十分にしつつ飲みにでも行きましょうね。

そんなこんなでざっくりですが、2021年9月、大きめに体調を崩したことをきっかけに退社を考え始め、いろんなお仕事を整理して、私は12月末に退社しました。
高2から憧れて、しっかり目指して、新卒で入社して、4年勤めて、自分の中でちゃんと納得した形の卒業でした。

会社と対立して飛び出してきた、とか、仕事がキツすぎて突然退社、とか、そういうのではないです。
直属の上司たちや仲良かった後輩、同期、先輩、お世話になったバックヤードの皆さんのことは、今でも好きです。

直属の上司達に関して、彼らは私に迷惑をかけられてばかりだったと思うので、きっと私のことはあまりよく思っていなかったと思いますが、私は上司たち(と言っても大きく2人しかいませんが)のことをプロデューサーとして、とても尊敬しています。
もちろん、PMだった当時、仕事のキツさを上司たちに責任転嫁させたり、忙しさを上司のせいだと思い込んだことはありました。
正直、そうでもしないとやってられない瞬間もありました。
「嫌いだ!」と友人に愚痴をこぼしたことも多々ありました。(本当に申し訳ありませんでした…)
けれど、SNSをめちゃくちゃ動かしていたり、PMの仕事も完璧でないくせに他から仕事を受注してきたり、会社員という立場を考えず自由にやりたいことをやろうとしてしまっていた私を、真正面から否定せずに、むしろなんだかんだ肯定してくれたり、受け入れようと耳を傾けてくれたりした上司たちの柔軟さと、そのありがたさを、今になって改めて、心から感じています。
きっと、よく言えば変わり者で、ストレートに言えばめっちゃ問題児だったであろう私を抱えてしまい、本当にご迷惑をおかけしたと思います。
この文章が彼らに届くことはない気もしますが、直接きちんとお礼を伝えることのできないままに、慌ただしく退社してしまったので、この場を借りて、本当にお世話になりました。本当に感謝しています。ありがとうございました。

そんなこんなで、色んな仕事を片付けて、12月末に退社。最後の最後まで仕事していた記憶です。今となっては懐かしいな。

さて、退社話はそんなところで、フリーランス編です。
正直、会社員になる予定だったのに、いろいろあって突然フリーランスに!という感じだったので、予備知識とかなんにもありませんでした。まじでゼロです。今でも全然知識ないけど。

そうしてフリーになった1月、スタートはめちゃくちゃハッピーでした。っていうかなんならひとつ夢が叶いました。
「私が監督するCHAIのMVの仕事があるんだけど」と、私をプロデューサーにしてくれた大恩人であり、心の友であり、スーパーハッピーガールのゆかさんから、年末に連絡をもらっていたのです。

このインスタの投稿にMVへの想いは詰め込んであるのでぜひMVと一緒に見ていただけたらなと思うのですが、私にとって、いつもたくさんのきっかけをくれる大切な存在である監督のゆかさんと、社会人になり、業界の荒波に揉まれて、日々心を擦り減らしていた私にたくさんのパワーをくれたCHAIが、一緒に作品を作る、そのチームの一員としてMVをプロデュースさせてもらえる、そんな仕事がフリーランス一発目に頂けたということは、私にとって本当に奇跡みたいな出来事でした。

本当に嬉しくて、現場は時間のない中で大変なこともあったけれど、大好きなカメラマンや美術デザイナーとも一緒で、みんなで一丸となって走り切ることができたし、目の前に広がっていた、好きなアーティストと好きなスタッフしか存在しない、驚くほどピースフルな現場に胸がいっぱいでした。
CHAIのみんなも、本当にスタッフ全員に対してフレンドリーで、みんなの作る空間や映像をたくさん褒めてくれて、それも本当に嬉しかった…!
最後にメンバーのみんなと話した時は想いが溢れて号泣してしまい、みんなを困惑させたけど、号泣する私をCHAIのみんながハグしてくれたことも、あの時かけてくれた言葉も全部、私の一生の宝物です。
びっくりするくらい愛に溢れた、とっても素晴らしい現場でした。

と、順調に書き進めていると思いきや、ちょっと書きすぎてまとまらなくなってきています。
実は、この調子で書いていると、この後1月末に大プロデューサーとの出会いも待ち受けておりまして、これも私の中ではめちゃくちゃ大事なハッピーニュースなんですよ。
いや、もちろん、そもそもはヘイトが溜まりすぎて振り返り始めたのに、いざ振り返ってみたら思い出すのは幸せなことばかり、というのはめっちゃいいことだから全然最高なんですけれど、大プロデューサーとの仕事はまたちゃんと別で書きたいので一旦話を本筋に戻しますね。

さて1月、これは本当に今だから言える話で、なんならわざわざ言わなくてもいい話だし、正直マイナスプロモーションになるんじゃないかなとも思うので怖いのですが、わざわざ話そうと思います。
フリーになって「めっちゃ順調じゃないですか」とか「ずっと忙しそうですね」とか、あと、何度か言われてびっくりしたのは「みんながみんな牛島さんみたいに上手くいかないですよ〜」とか…!そんなことを言われることが結構あって。
いや何言ってんだ?と内心思ってたんですよ、私は。
なんにもせずに仕事なんか来ませんし、頑張って色んな人に会ったり、変わらず営業だってしましたし、そもそも全然うまくいってないですし…!
ただ、そう私に言ってくれた皆さんに全然悪気がないのは分かってて、私自身も、フリーになって上手くいってる、と思っていただけるように、そう見えるように、めっちゃ意識して明るく振る舞ってたし、めっちゃ死ぬ気で仕事もしてたので、「ちゃんとそう思ってもらえてるんだ。」という思いも、もちろんありました。

ここからはめっちゃ細かい話なんですけど、ずっと広告のお仕事をメインにやっていた私は、もちろんフリーになってからも広告メインでやっていたわけですが、広告のギャラの支払いって(もちろん会社によるとは思いつつ)請求した翌々月の末とかに振り込まれるんですよね。
だから1月の仕事の振込は早くて3月末とかな訳で、当時の私の場合はギリ2月に作業が終わるスケジュールの仕事だったりしたので振り込まれるの4月末…!と、いうわけで、もう貯金を切り崩しながら生活をする状況になったわけです。
しかも、ここがこの仕事をフリーランスでやる一番大変なポイントなんですが、制作部ってめっちゃ立替え多いんですよ!!!
ロケ地代とか宿泊費とかちょっとした食事代とかなんかいろんな雑費とか、もういろんなものを制作部が立て替えて払うことが割とあって、会社員だったらそれはコーポレートカードとかで立て替えたりするんですが、フリーだとそんなのはないので自腹か仮払いになるんですね。
で、会社員だったからわかるんですが、今って仮払い出すのとかも結構手間だったり、そもそも仮払いとかないぞみたいな会社もあったりするので、額は違えど絶対に自腹立替えは発生するわけです。
そうなった時、自分が生活していくだけだったら全然貯金切り崩しでもいいけど、立て替えでかなりの額が消えていくんですよね。
その結果どうなるか。黒字倒産目前ですよ。
なんかもう何にも考えなさすぎた私も悪いんですけれど、まじで貯金が消えました。残高がここ数年見たことのない数字になりました。びっくりしました。

そんなこんなで自分がまずい状況にいることを理解したところで、私の本当のフリーランス地獄が始まりました。
人って、ひとまず安心して生きていけそうなお金さえあれば多少大きめな不安があっても一応大丈夫な精神状態ではいられるのかなって思うんです。
これは、実際私がそうだったので。
でも、生活が脅かされてくると途端に心の余裕は消滅するんですよね。
そりゃそうだ、だって衣食住がなってないと仕事もろくにできないんだから。
その根本を思い知ったのがこの頃です。
いろんな仕事の、しかも結構な額の立て替えが、積もり積もった結果、え?私、生きていけなくないですか?と…
そして気付いたはいいけど、一時的に金銭的援助をしてくれるような親など私にはいないので、もう自力でなんとかするしかない・・!の一択。
そこからいろんな方法を考えました。
フリーの先輩たちにいろいろ教えてもらったりもしました。
で、結局、大学生の頃にバイトをしていたケータリング屋さんの社長を頼り、日々プロデューサーの仕事をしながらケータリング屋さんでバイトをするという二足の草鞋生活が始まることとなりました。

ケータリング屋さんでバイトを始めた当初、私は早朝から昼過ぎまでケータリング、帰宅後夜中までプロデューサー業、また翌朝から昼過ぎまでケータリング、その後夜中までプロデューサー、現場がある日などの終日本業にあてないといけないような日はケータリングを休ませてもらう、というような生活リズムで働いていました。
そして極端な性格と、不安になっていたことも相まって、分かりやすく全てにおいてかなりストイックに節約をしていました。
例えば、そもそも元から一日一食だったその一食を、仕事の関係で家に大量にあったインスタントラーメンだけで終わらせるという、非常にまずい食生活をして食費を切り詰める、とか。笑
10時間以上余裕で寝れてしまうタイプで、本当はたくさん食べる私が、ありえない生活リズムと食生活によりどんどん痩せまして、この時期は高校卒業ぶりに高校生の頃の体重にもどっておりました。
そんな生活していたらもちろん心も終了してくるわけで、それを外に出してはお仕事に響いてしまうので、ひたすら溜め込んだり、限界が近づくと少しだけ吐き出させてもらったり、また溜め込んだりしながら、とにかく原因は仕事とお金の不安定さだと考えて、4月になれば一旦落ち着くだろうと、ただ必死に毎日死ぬ気で仕事して過ごしていたような気がします。

そして案の定、4月を待たずして、ケータリングとプロデューサーの二足の草鞋生活にもなれ始めた2月、不安はまだまだ残っていたものの、その月に生きていけるだけのお金はケータリング屋さんで稼げていたし、3月以降は1月からやってきた仕事のギャラが振り込まれるということもあって、金銭面での不安はだいぶなくなってきていました。
また、上の方で割愛した大プロデューサーとの出会いもあって、仕事の不安に関しても、溜め込み続けていたしんどさの相談に乗ってもらえるようになり、少しずつ軽くなっていきました。

正直、1,2月の日々はもう思い出したくないし、戻りたくないです。
あの日々に戻るのが怖くて、今も休まず働き続けてしまっている部分があると思います。
でも、親を頼ることができない私が、今こうしてちゃんと頼れる人を見つけられたのは、あの過酷な期間があったからだとも思っています。

少し話は逸れてしまいますが、最後に家族の話だけさせてください。

私は、親が共働きしてくれていて、中学受験で私立の中高一貫に入れてもらい、塾にも通わせてもらい、私立の大学にまで通わせてもらいました。
両親が一生懸命働いたお金を、自分達ではなく、私や弟のために使ってくれたこと、本当に感謝しています。
ただ、正直両親に肯定してもらった記憶が、私にはありません。
昔から、当たり前に、分かりやすく愛情を注がれている友人を見て、羨ましく思っていました。
私は中学受験で全ての勉強欲を満たし切ってしまい、親にやらされていた感覚も強かったために、中学に入って勉強への一切のやる気を失いました。
吹奏楽やファッション、ダンスに没頭して、親の言うことも聞かず、どんどん成績は落ち、吹奏楽部を辞めろとも言われ、反抗し、理系に行けと言われていたのに文系に進み、親の理想の大学にも行けず、親が嫌がった業界に就職しました。
とにかくもう、親からすればとんだ親不孝娘だったのでしょう。
だからか、例えば中学生の頃、親が私の吹奏楽コンクールを見にきてくれたことはないし、ゴールド金賞を取った時も、会場を出てお母さんに「よく頑張ったね〜!」と褒められるチームメイトを見ながら悲しい気持ちになったこと、今でも鮮明に覚えています。
そういうことが、中高6年間で何度もありました。
そして大学に入ってからは、自然と親を避けるようになりました。

多感な時期をそんな環境下で過ごしてしまい、人から肯定されること、好かれることが当たり前のことではないと思いながら生きてきた私は、誰かのために頑張ってはじめて自分の存在価値が生まれるのだと、そう思うようになっていました。
正直、今も、そう思っています。
こんな時代で、自己肯定感にも目が向けられるようになって、いろんな言葉を聞くようになりましたが、私はまだ、ありのままの自分に価値があるとは、全く思えません。
ただ、肯定されることや褒められることが当たり前でなかったからこそ、私自身はちゃんとプラスの感情を相手に伝えることができていると思うので、反面教師で、ちゃんと身になってはいるのかな、とも思います。

もちろん見返りを求めてやっていないので、フリーランスになったばかりの過酷な時期、不安を一人で抱えきれずに誰かに頼りたいと思っても、はじめは誰にも相談出来ませんでした。
私の身の上話なんか誰が聞いてくれるんだ、と思ったし、そんなマイナスな話をして離れていかれたらどうしよう、なんて思ったりもしました。
でも、結局、(もちろん大手プロダクションの社員ではなくなった瞬間私から離れていった方々もいましたが)手を差し伸べてくれた、頼らせてくれた方々は、ちゃんといました。
親は選べないけれど、私の周囲の人間関係は私が作ってきたもので、自分が今までで築いてきた関係は自分で選んできたことの積み重ねで、ちゃんと信じられる動かないものだったし、本当に深刻な状況はもちろん誰にでもシェアするものではないから、ほんの一部の頼れる人にだけ力を借りて、しっかり力をつけたらちゃんと何倍にもしてお返しすればいいんだと思えました。思わせてもらいました。
あの期間に頼った方々は、私にも当たり前のように見返りを求めない手助けをくれて、だからこそ私はこの恩を何倍にもして返さなきゃいけないと思えて、その気持ちがあったから、自分のために頑張れない私でも、将来みんなに返すためにと頑張れていたこともあって、全ての時間が無駄ではなくて、本当に絶対戻りたくないけど、とても大事な経験だったなと思います。
自分で選んで作っていくことのできる部分の人間関係において、その瞬間瞬間で、ちゃんと人と真っ直ぐに向き合ってきてよかったと思ったし、熱量や愛を思い切り注いできてよかったと思えた時間でもありました。

今、フリーランスになってから半年が過ぎ、私はまた新しいフェーズにいますが、これからも熱量や愛を真っ直ぐに届ける努力をすることだけは、諦めず続けたいなと思っています。
それから、そろそろもっと自分を大切にしたいし、自分を大切にしてくれる人をもっと大切にしたいです。
(逆に言うと、そろそろ私を大切にしてくれない人たちとは、やんわりさよならしたっていいんじゃないかなって思うようになってきました。)
不安だから、全部を持ったまま未来に行きたかった今までだったのですが、もしかしたら抱え過ぎてちょっと身重になっているんじゃないかなって。
必要なものだけを持って、もう少し身軽にポンと飛んでいくことも、これからの私には必要なんじゃないかなって、最近は考えたりしています。

ここからまた、少しずつハッピーを増やしていけたら。
そのために、できる努力は全てするつもりです。
わたしは、わたしのままで、変に肩肘張らずに、ちゃんと頑張ります。

とりあえずおわり!

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