「コロナなので」で許される社会でいい
コロナは憎い。でもコロナは日本人が本当に求めていたものに気づかせてくれたのではないのだろうかとも思う。
予定通りにならない日々
最近何もかも予定通りにいかないことが多い。朝に通っていたスターバックスは営業時間短縮で閉まっているし、近くのダイコクドラックは営業休止になって、居酒屋に行くと席は空いているもののスタッフがおらず断られる。
理由はもちろん「コロナなので」。
もし去年の7月に同じことがあったら、直接言わないまでも「なんでしまっているの?」、「不便だ」、「準備しっかりしてよ」と感じてしまっていたと思う。
コロナなら許せてしまう
でも「コロナなので」と言われると「ああ、コロナなら仕方ないね」と何でも許せてしまう。正直、営業時間短縮とコロナ対策がどうつながるのかわからない業種は多い。そもそも、お客さんがこないから閉めている気もするが、それも「コロナなので」の一言。
ぼくが大人になって、つまりここ20年くらい、こんな状態に遭遇することはなかった。約束された時間に約束された場所に行けば、決められたサービスを適切に受けられる。お店はどんどん遅く開くようになって、お正月休みもなくなった。
それが日本の社会だった。
サービスを縮小するときは、お店を辞めるとき。お店が潰れる時くらい。一度便利にしたものは二度と戻せない。そんな雰囲気すらあった。
でもコロナで全部変わった。
コロナで許せる訳
「コロナなので」と言われると何だか許してしまう。これには2つの理由があると思う。まずもちろん、世界中の人が同じ苦しみを共感し、みんなで同じ苦労を送っているということがある。
でもぼくはもう一つの理由があると思う。
そもそも、みんなこのくらいのゆるさを求めていたんじゃないだろうか。
決まったことが決まった時間に必ずできる社会は確かに便利だ。でも、それは反対から見てみると、自分たちが働く時も相手にそれを求められる。
例えば、ある洋服屋が10時から開くのであれば、宅配業社さんは8時に届けないといけないし、トラックの整備業社さんは6時に修理を終えている必要がある。一つでも狂えば、みんなが困ってしまう。そしてよく考えてみれば、そのトラックの整備業社さんが、10時から服を買いに行くのかもしれない。
でも今はコロナなのでお店は「今日は休みです」もありだし宅配は「午後に届くかもしれません」もありだ。だからトラックの整備だって「間に合わないかもしれません」といったっていいのだ。
世の中どんどん効率的に、便利になって、いわゆるあそび(余裕)の時間が極限までなくなってしまっていた。そんな中に襲来したコロナは、僕たちに強制的にあそび時間を与えてくれたのだ。
「コロナなので」という言葉は、実は「まあのんびりやってますんで」と言う日本人には絶対言えなかった言葉を代弁してくれているように思う。コロナウィルスはたくさんの人を間接的、直接的に攻撃し、甚大な被害を世界中にもたらしている。でも、この超効率化志向の日本においては、行き過ぎた効率化を押し留める役に立っているのかもしれない。
アフターコロナはこれが当たり前な社会になればいいと思う。
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