コロナで分かった、古来から「季節の京料理」がある理由
京都には、決まった日に決まったものを食べる風習がある。
京の食事ルール
全国的にももちろんあるけど、有名なのはお正月の「お節料理」と「七草粥」くらいではないだろうか。
でも、京都の場合は、それが多岐にわたる。季節であればまだ分かる気がするのだけど、毎月の決まりもあるのだ。
一日 鰊昆布(にしんこんぶ)
八の日 荒布(あらめ)と揚げ
十五日 あずのごはん(小豆ごはん)
末日 おから
京都検定の勉強のため、この事実を知った時「なんでこんな面倒くさいことを?」とついつい思ってしまった。その教科書には
「メニューを決めなくてすむという合理精神」
「神仏や先祖への崇敬を血となり肉とならしめて伝えようとする精神」
ではないかと書かれているが、今回コロナ禍にあって、もう一つ別の理由がわかった気がした。
それは「日常を楽しむためのルール」であるということ。
単調な毎日ほどつまらないものはない。だから、わざとその中にルールを設定して「それを守る」という作業が生むのだ。
もちろん、ルールは、あまりにも難しいものだと辛さにしかならないのだけど、実現可能なルールは、それを守ることが、ある種の心地よさになる。
良い例かわからないけれど、立て篭り事件などで不幸にも長期間拘束されることとなった時、自由はないけれど、自分の身の回りは整理整頓しておくことで心が保たれると聞いたことがある。それも同じだと思う。
コロナ禍は昔と同じ
コロナ禍の今、毎日が単純な職場と家の往復のみの人も多い。場合によっては、ずっと家の人もいるだろう。
そんな中、料理にハマったり、金曜日に少し効果な食材を購入したりしているのではないだろうか。これも「日常にアクセントを生む」ためのものだと思う。
昔は、週休2日制なんてもちろんなくて、毎日仕事。祭りと正月しか休みがなかった。また、庶民であれば、旅行や出張なんて、あっても一生に一度といったところではないだろうか。そんな中、京都の人は、昔から自分たちにたくさんのルールを課してきた。
それらは、決して生きていく上で絶対に必要なものではないのだけど、日常にアクセントを生み、生きることの楽しさを気づかせてくれる、重要なルールであったのだと思った。
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