山月記の二次創作
二度とここを通るなと言っておいたのにまたのこのことおれの前やってきた袁傪に対して、ついつい獣の本性が刺激されてしまったとしても、まったくおれの責に帰するところではないと思う。
おれは彼を押さえつけながら、
「どうしてここを通ってしまったんだ」と憤懣やるかたなしに尋ねた。
「きみにもう一度会いたかったからさ」
とぬけぬけと抜かすところも腹立たしい。体を押さえる前足にも力がこもってしまうというものである。
「おい、おれが今どんなに自分を抑えているのか、きみはわかっているのか」
「だいたいのところは」
「だいたいじゃ困るんだよ」
あやしいものだ。おれは思わず袁傪の首筋に鼻を近づけて臭いを嗅いで、うまそうな香気にたまらず目をつむってしまう。
「たまんないぜ。チャーハンみたいな匂いがする」
「そんな匂いする?」
「ああもう。だめだよ袁傪。どうしてくれるんだ」
「だめではない。しっかりと意識を保っていれば、きみは虎を御することができるのだ」
おれははっとなった。もしやこの男はそのことを伝えるために、危険をおかしてまでわざわざやってきてくれたのではないか。
だがそんな楽観的な予測に与することはできない。おれは首を振りながら、
「そんなことは不可能だよ」
「いや、がんばればなんとかなる」
「なんとかなるったって、限度ってものがあるだろう」
「いや、現にきみは今、虎をある程度制御できているではないか」
袁傪は自信に満ちたように言うのだった。だが、
「おれは今にもきみに噛みつきたいという欲求を必死に抑えているんだ。こんなにも我慢したのは子供の頃、親におもちゃを買ってもらえなかったことに対して、ハンガーストライキを決行したとき以来だぜ」
「いやな子供だなあ。大丈夫、人語を解す虎という触れこみで生きていけるよ」
「そうかなあ」
袁傪はにっこり笑いながらそんなことを言った。その笑顔は、おれの記憶の中にある友の笑顔とおんなじだった。
おれも友もすっかり年を取って変わってしまったけれども、変わらないものもあるんだな、と思ってしみじみしていると、しみじみしたせいで無意識のうちに袁傪に噛みつきそうになってしまう。慌てて口をひっこめながら、
「ほらー」と非難すると、
「いや、まだまだいける。理性を強く持つんだ」
頭を抱えた。だが、頭を抱えて自分の中の虎を制御できるのであれば、こんなに悩む必要はないのだ。
「もう、いいから、きみの部下たちにおれを殺すように命令したまえ」
おれは覚悟を決め、袁傪にそう告げた。
「きみを食い殺してしまうより、きみに討たれた方がましだよ。あさましきけだものの身に成り果てたおれの最後のお願いだ。人として死なせてくれ」と嘆願すると、
「部下なんていないよ、ここには一人できたのさ」と袁傪。
そんなばかな、と思ってあたりを見回すと、たしかに友が連れているはずの部下は一人もいなかった。
おれががっかりすると同時にほっとしてしまい、たちまち袁傪に噛みつこうと口をぱくぱくやってしまった。危ない。
「李徴子。よだれが垂れてくるよ」と顔をしかめながら袁傪。おれは慌てて「ごめんよ」と謝った後に、
「いや、よだれが垂れるとか垂れないとか、もはやそういう問題ではないだろう」
「結構いやなもんだよ。友とはいえ、よだれが垂れてくるのは」
「いや、そういうことではなくて」
すると身体の内から抗いがたい食欲がぐわーっと湧いてきて、おれはもう限界だなと思った。おれはぽたぽた涙をこぼしながら、
「きみのようなやつとは金輪際絶交だからな」と言うと、
「わたしは今でもきみのことは友だと思っているよ」と袁傪が言った。
そんな切ないことは言わないでほしいな、と思いながら、彼を苦しめないよう、一息に息の根を止めてやろう、と袁傪の首筋にかぶりつこうとした。
そのときだった。
袁傪の腕がぐうーっと伸びてきたかと思うと、おれのあぎとをがっつりと掴んで、おれを押さえこんでしまったではないか。
しかも、存外にその力が強い。じたばたするのだけれども、おれは一ミリたりとも頭を動かすことができなくなってしまう。
「けっこう、力強くない?」と尋ねると、
「きみと会わないうちに体を鍛えたんだ」と袁傪。「ムキムキだよ」
だがそうは言っても所詮は人の身。おれに敵うはずがない、としゃにむに噛みつこうとしたのだけれども、彼は本当に力が強くて、ちっとも噛みつけやしないではないか。
五分も十分も奮闘しただろうか。どうやっても袁傪に噛みつけない、と遅まきながら理解したおれは、
「なんだかこれはこれで、おれの虎としてのプライドが傷つくんだけど」と文句を言うと、
「きみのそのプライドを傷つけに傷つけ、もう傷つけられないというところまで傷めつけるまで、わたしはここできみを押さえつけているよ」
と、ひどくさわやかな笑顔で袁傪は言うのだった。
「そうすればきっと、きみは人に戻ることができるに違いないよ」
そんなうまい話があるわけないだろと思ったけれども、でも、長年の友に言われると、そんなこともあるような気がしてくるのだった。