小説 悪魔と契約

 友達が重たい病気にかかってこのままでは死んでしまうことに。なんとかならんかなと思っていると悪魔がしゃしゃり出てきて、
「おまえの魂をあげれば友達は生き延びることができるよ」と言ってくれる。「もちろんおまえは死ぬけど」
「えっ。ぜんぜんいいです。友達に魂をあげてください」
 悪魔は一瞬ぎょっとした顔になる。 
「なんで?」
「わたしってべつに生きてても仕方ないなあと思っていて、でも友達はすごいやつなのでわたしが生きているより友達が生きてたほうがぜんぜんいい気がするんで」
「そんな単純なことじゃない気がするけどなあ」となぜか尻込みする悪魔。おまえが言い出したんだろうが。
「構いません構いません。さあやってください」と詰め寄ると、悪魔はまあまあといさめて、
「次の満月にならんとできんから、それまで待っててよ」と言ってどろんと消えてしまう悪魔。本当かどうか怪しいもんだと思っているとまた悪魔が出てきて、
「ほら、これが契約書だから」と悪魔的な契約書を渡してきたうえで、「それにサインして、また満月の日に持ってきてね」と消えたので、なにやら本当らしいという気がしてきた。OK。何枚だってサインしてやろうじゃないの。

 それから友達の病室に行ってニコニコしながら世間話をした。さっきもらった契約書を大切にしまっておかないとな、とぼんやり考えていると、
「なんだか上機嫌だね」と言われてしまう。うえ。軽率だった。いつも暗そうな顔をしていなければいけないというわけではないけれども、余命わずかという人の前であんまりニコニコしていてもいけないだろう。なにか取り繕わなくてはと焦っていると、さっきもらった契約書のことをはたと思い出し、
「うん、いや、帰りに文房具屋に寄って書類を入れておくような封筒を買っておかないといけないなってのを思い出してさ、ほら、文具屋って面白いじゃん」と弁解する。すると友達は、
「封筒なら使ってないのがうちにあるよ。お母さんに持ってきてもらうね」と言い出す友達。そんなの悪いよと言ったけれども、なんやかやで今度来たときに友達のをもらうことになってしまう。やれやれ。

 満月になった。病院の屋上でぼけーっとアホ面で待っていると悪魔がやってきて、「サインできた?」と聞いてくる。ほいよと友達からもらった封筒を差し出した。
 悪魔は封筒から契約書を取り出してしみじみ見たあと、封筒の糊を剥がしてぺたっと封をして、「OK。じゃ、きみの魂をもらって友達にあげちゃおうね」とわたしの胸に腕を突っこんできた。わあお。ダイナミック。
「見る? あと一分ぐらいできみは死ぬけど」と魂を引き抜きながら悪魔。
 それでわたしの魂をしみじみ見ていると、魂はプルシアンブルーの色をしていてなにやら奥深く輝いていた。思い出の中だけに存在する海の光みたいだった。
「魂ってこんな色なんですね」と尋ねると、
「人による」と悪魔。そりゃそうか。
 その時だった。
「ちょっと待った!」と声が轟いた。はっと振り返るとドアのところに友達が立っているではないか。
「あなたたちの会話は聞いていたよ! そんなことで元気になったって、わたしはぜんぜん嬉しくないよ!」と鋭い声。
「嬉しいか嬉しくないかはこの際問題ではない」と言い返すわたし。
「生き残るべき人間が生き残って、死ぬべき人間は死んだほうがいいってだけさ、そしてわたしは死んだほうがいい人間なんだ。あなたが生きていたほうがぜんぜん、この世にとってはいいことなんだよ」と自信満々に告げると、友達は「キッ」と睨むように見つめてきて、
「それをあなたに決める権利はない!」と絶叫した。
「あなたが生きていていいかどうかはわたしが決めるんだ!」
 びくっとした。友達の言葉が、信じられないくらい胸に迫ってきて身動きができなくなってしまう。どうしてそんなこと言えるんだって言いたかったけれども言えなかった。友達の言っていることはあんまり乱暴で、でも本当にわたしのことを思って言ってくれているということが手に取るようにわかるから。だからまっすぐ伝わってしまうのだ。
 ああもうちくしょう。だからわたしはあんたのことが大好きなんだよ。
「ありがとう、それ聞けただけで死んじゃっていいくらい嬉しい」と涙を拭った。
「でも、でももう遅いんだ。契約書にサインしちゃったから」と悪魔を見た。悪魔は心底嬉しそうな顔をして契約書の入った封筒をひらひらしながら、
「そうなんだよねー、もうもらっちゃったんだよね、だから残念だけど……」と言いかけたその瞬間だった。
「かかったな!」と友達。はっとして振り返ると、唐突に、契約書の入った封筒がぼわっと燃え始めたではないか。友達はにやーっと笑いながら、
「封筒に時限式の発火装置を組みこんでおいたんだ。あんたがその封筒に糊をした瞬間、封筒は否応なく燃え上がる!」
 たちまち封筒は燃え上がった。鮮やかな萱草色の炎が闇夜に閃き、またたくまに封筒を焼き尽くしていった。
 風が吹いた。灰になった契約書を舞い上げて、わたしにも悪魔にも届かないところまで散らしてしまった。
 唖然とした。あまりのことに悪魔も二の句が継げずにいるらしい。「えっ、マジで燃えた?」って感じで首を傾げている。マジで燃えている。灰はもう粉々になって、わたしがサインした契約書なんか、この世のどこにも残っていない。
「これで契約は破棄だね、魂を返してあげて!」と迫る友達。悪魔はどうしたものかという顔をして渋っていた。そんなのありなの? という感じだ。だが契約書がないことはもうたしかなことなのだ。
 ほっとするやらがっかりするやら。これでもうわたしにできることはなんにもないんだ、と悲しい気持ちになっていると、次の瞬間、猛烈な目眩が襲ってきた。
「ありゃ」
 わたしは立っていられなくなって地面に突っ伏した。悪魔の言葉を思い出す。あと一分間の余命が尽きたのだ。こんなもんか。こんなもんか。死は。
 友達がなにかを叫びながら近づいてくる。
「ふざけんなてめえ!」と友達がこれまで聞いたことのない剣幕で絶叫している。
「この落とし前はつけてもらうからな! ただで済むと思ってんじゃねえぞ!」と友達。友達のそんな、伝法な喋り方なんて初めて聞いたのでちょっとおもしろくなってしまうわたし。
 なんなんだよもう。頼むよほんとに、とわたしは目をつむった。
 ここで死んでしまうにしても、せめて、友達をなんとかしてあげてよね、と思いながら。

 目が醒めた。
 気がついたら友達の病室、ベッドのすぐそばに座っていた。窓の外からはかすかに明るいマリンブルーの光線。早朝だった。
 夢だったんかな、と思ったけれども、友達がベッドに座って涙の滲んだ目でわたしを見てきたので、ああ夢じゃなかったんだなと気がついた。
「悪魔は」
「『わかりました諦めまーす』って言って帰ろうとしたから、『契約もしていない友達に危害を加えたうえに、ただで帰ろうっていうの?』って詰めたら、お詫びってことじゃないけれども、わたしの病気をちょこっと軽くしてくれることになったんだ」
 とにっこり笑いながら友達。どうりでベッドに寝ていないと思ったよ。
 なんだかんだあったけどよかったなあ、と思っていると、友達が怖い顔をして、
「あのさ」
「うん」
「二度としないで」と地獄のように低い声で言った。わたしは震えあがる。恥ずかしくなって目を合わせられないけれども、下を向いて「うん。もうしない」と言った。
 それから、友達はわたしのことをぎゅっと抱きしめてくれた。わたしは涙が滲んでくる。こんな人を悲しませるようなことをしてしまったとは思ったけれども、でもやっぱりあんたほど生きていたほうがいい人間はいないよって改めて思う。もうこんなことしないけど、絶対にしないけどね。
 ありがと。