小説 忘れるなんてことあるのかな

 友達は蝶の幼虫だったので、成虫になるためには蛹にならなくてはいけないらしかった。

「でも問題があってさ」と友達。

「いったん蛹になるとさ、体中全部溶けちゃうんだって。その時わたしの脳も溶けちゃって、覚えてることをみんな、忘れちゃうんじゃないかって」

 友達は心配そうな顔をするのだ。 

 授業中、保健室に行くために教室を抜け出して、誰もいない体育館を覗いたときみたいな、そんなさみしい感情がわたしを襲ったので、

「じゃ、今日は思い出を作りに行こう」と友達を連れ出した。

「どこ行くの?」

「山」

 友達と近所のちょっとした山の中にある沢のそばまで行く。こんなところにきてなにをするのかといぶかしそうにする友達をまあまあとなだめながら目的地に着く。ベンチがあって周りが開けているそこに座ってジュースとメロンパンをあげる。

「ほい」

「ありがと。もぐもぐ」

 日が沈みつつある。町にほど近い山だけれども木が生えているからもうかなり薄暗い。遠くの道路を走る車の音が大気を伝って聞こえてくる。

「羽化してもさ、覚えてなくはないみたいな話も聞くんだよ」ポツリと友達。

「たとえば、幼虫の頃によく世話していた人の指に懐く成虫もいるんだとか、そういう、記憶がつながっていないとおかしいみたいな現象の話はあるから、だから完全に忘れるわけじゃないっていう話も聞くんだよね」

「うん」

「だから今は、それに縋ってる。わたしがみんな忘れてしまわないように」

 友達は不安そうだった。わたしはなんと言っていいかわからなかったので、「大丈夫だよ」と根拠のないことを言う。

「自分が根拠のないことを言っているのはわかってんだけど、でも根拠のないことが全部役に立たないかっていうとそうでもなくてさ」

「わかってる、ありがと」

「大丈夫だよ、きっとあんたはわたしのことを覚えていてくれるよ」

 でもそれはたぶん自分にも言っているのだ。わたし自身に言い聞かせているのだ、ということを、誰かに言われるまでもなくわたしは思う。

 やがて日が沈んだ。わたしも友達も言葉少なになった。未来のこと、わたしたちのこと、いろいろなことを考えていると、ふいに、山間の木の下闇の隙間に、幽かな黄色い光の筋が見えはじめる。

 ほつ、ほつと、か細い、線香花火の最後のひと欠片のような光が、あちこちに浮遊している。

「蛍」

「うん」

 このへんはまだ野生の蛍が残っていて、この季節になるとわずかに見ることができるのだ、という話をネットで見つけて、それでいつか来てみたかったのだ。友達とそのことを共有したかった。

「本当に幽かにしか光んないんだね」

「いっぱいいるわけじゃないからね」

 昔、動物園の昆虫館で見た蛍の展示のことを思い出す。あのときはたくさん蛍が見られてすごかったけれども、そうでない蛍も、わずかしかいない蛍もいいものだ。

「きれいだね」

「うん」

「こんなにきれいだったことをさ、忘れるなんてあるのかな」

 遠くにある街灯しか灯りはなかったから、友達の顔はよく見えない。いまどんな顔をしているのか。なにを思っているのかはわたしにはわからない。それを一生懸命見ようとして、友達の、蝶になる前の最後の表情を目に焼き付けようと思ったけれども。

 そんなことをしてもしかたがないな、と思った。

「そっか」

 気がついたのだ。誰かが、わたしのことを忘れてしまうかもしれないなんて、そんなのは些細なことなのだ。
 大事なのはそんなことじゃない。大事なのは、わたしがあなたのことを忘れていないことなのだ。いまここにあなたがわたしといてくれたことなのだ。

「たとえあんたがわたしのことを忘れていても、わたしがあんたのことを覚えていられるから」

「本当に」

「うん」

「期待してるよ」

 蛍を見ながら考える。いつかは、みんな、すべて忘れてしまうのだ。それは人間だって蝶だって、わたしだってあなただって変わらない。

 そのことを悲しんでもいい。でも悲しまないでもいい。悲しまないために、たぶん、思い出は作るのだ。たとえその思い出によってあとで悲しむことになってしまったのだとしても、思い出を思い出して、あのときは幸せだったなあなんて思うようになってしまったのだとしても、わたしたちは作るのだ。

 乗り越えるために。あるいは、わたしやあなたがここにいたことを、ただいたことだけがあらゆる尊いものと等しいことなのだとほんとうに信じるために。

「任せてくれていいよ、絶対に」

 蛍の輝きみたいに。あまりにも幽かに光っていたことを。