小説 卒論の提出日を間違えて

 卒論の提出日を一日間違えて卒業できなくなってしまったのだけれども、いまはそのことを考えたって仕方がないのでわたしたちはなんにも考えないで過ごすことにしていた。

「こないだぬいぐるみ落としちゃってさ」

「ぬいぐるみ落とすことってある?」 

「ほら、これだよこれ」

「あっ、キーチェーンのやつ」

「そうそう、これ落としちゃってさ」

「うん」

 すると彼は一瞬神妙な顔をして黙りこくって、

「いま『これ』って言ったけどそれは若干照れが入ってるからであって、本当は心のなかでは『この子』って言ってるんだけど」

「いいよ別にこの子で」

「助かるよ。それでこの子落としちゃってさ、もう五年はカバンに付けてるから愛着もあって」

「うん」

「この子がいない、って気がついたときにものすごい焦りと不安が襲ってきて、やばいやばいやばい、ってなっちゃって、その時はじめて、おれはこの子をかなり愛着持ってたんだなってことに気がついたんだ」

「見つかってよかったね」

「いや、それがさ」

 彼は暗い顔をした。

「実は見つかんなかったんだ」

「えっ、じゃあこの子はなに? ドッペル?」

「買い直したんだ。どうしても諦めきれなくて、それで買ったんだけど、でもやっぱりなくした子はなくした子でしかなくて、この子はなんていうの、別の個体なんだよね」

「あーなるほど」

「近くの交番とかに忘れものないですかって聞きに行ったけどそれもなくて」

「うん」

「ショックでかくてさ……ショックでか男だったんだ」

「ショックでか男」

 彼はよく架空の存在を作り上げるくせがあったのだけれども、いま、ぬいぐるみの話を聞いたおかげで、なんとなく「答え合わせ」ができたような気がした。

 ふーんと思いながら彼のぬいぐるみを指で触っていると、ふと、

「あれ、でもそういえばこの子、わたしんちにあったよ」

「えっうそ」

「いや、うん、いま、記憶の映像をずーっと動かしてるんだけど」

「記憶の映像って動かせるの?」

「わたしにはできる。たしかにソファの隅に落ちてる気がする」と目をつむりながらわたし。

「なにそれ、おれを喜ばすために幸せだったころの記憶を捏造しているのか?」

「そんなわけないでしょ、真実の記憶だよ」

「えーまじか。でもそれおれのなの? いや、でもおれのだろうなあ、この子、そんなに売れてるぬいぐるみというわけでもないだろうし」

 彼はぬいぐるみを動かしながら、

「えーうれしいな」と笑った。

「こないだ遊びに来たときじゃない。きみ、ソファに座ってたもん」

「そっかなー、まだ確証はないけれども、でもその子がおまえんちにいるかもしれないと思うだけで幸せの気分が訪れつつあるんだ。この世界は生きるに値するだけの世界だっていう気がしてきたよ」

「いい気分だね」

「いい気分だ、ビールを飲んじゃおうかな。今この瞬間が夢ではないことの証拠に飲酒行為にふけるのだ」

「ぷしゅっ」とビールを開ける友達。

「ごびごび。ああ、素敵な気分だな、年に一回か二回あるかないかぐらいの、澄んだうれしさの気分だよ」

「よかったねえ、わたしも、きみがそれだけうれしそうだとうれしいよ」

「いいなあ、いい時間だよ、おい、表(おんも)に繰り出そうぜ」

「OK」

 そうして彼の下宿からわたしたちは青々とした夜のしじまの最中に飛び出していった。

「月があるぜ! 夜だからか?」と彼が言った。本当だった。朧月夜で、金箔みたいな鬱金色の月がきれいで、あんな月はなかなか見たことないねと言い合って愉快だった。月の光がどこまでも地上に沁みこんでいくような美しい夜だった。

「なんだか今だったら死んじゃってもいいんじゃないかという気がしてきたよ」と彼。急に現実に戻るんじゃないと思ったので、

「急に現実に戻ってはいけないよ。今はこの溢れんばかりの嬉しさを糧に今日を乗り越えよう」

「うん」

 それでわたしたちはビールを片手に飲酒行為を続行したのだった。実にうまいビールだった。こんなにうまいビールがあるのかってぐらい、卒論を出さずに飲むビールは人生で一番うまいビールだった。それだけでも、そのことだけでも、今日まで生きてきたかいがあるってもんだった。