小説 隣に越してきた人喰い鮫

 隣に越してきた人喰い鮫が引っ越しの挨拶でタオルをくれたのだけれども、

「あのう、大変不躾なことを申し上げるのですが、もしよろしければかじってもいいでしょうか?」ととんでもないことを聞いてくる。ちょっと考えてから「だめです」と答えた。

「だめですよね、そんな、初対面で」 

「初対面じゃなかったらいいみたいなこと言わないでください」と言うと、人喰い鮫はしょんぼりした顔になった。その様子があんまり気の毒だったので、

「お茶でも飲みますか」と言うと人喰い鮫はぱあっと顔を明るくして、「いいんですか、すみません」と部屋の中に入ってきた。

 それでお茶をあげると人喰い鮫は礼儀正しくちゃぶ台の前で正座して待っていて、

「いいお部屋ですねえ」と世辞を言ってくれる。人品卑しからぬ人喰い鮫だ。

「ここへはどうして引っ越してきたのですか」と尋ねると、人喰い鮫は、「もともと別の海水浴場にいたのですが、どうしたわけか閉鎖されてしまいまして」と人喰い鮫。きっとそこにいた人たちをみんな食べてしまったのだろうな。

「それでこっちの海にきて。ここはプライベートビーチ的なあんまり知られていない穴場の海があるんですよ」

「それは目をつけましたねえ」

「ええ」と人喰い鮫はにこにこと笑った。なんだか人好きのする笑顔だった。

「でもそんなビーチなんてあったかしら」

「ありますよ、よろしければご案内しましょうか」という。わたしは今日の分の仕事があったのだけれども、でもその仕事は別に今日やらなくたっていい仕事だったので、まあいいかということで人喰い鮫と一緒に海まで遊びに行くことにした。

 家から歩いて十分ぐらい、こんなところから海へ行けるのですかというような建物と建物の隙間の道を入っていって、よく見ると道があるのがわかる背の高い雑草の隙間を通り抜けると、視界がわあっと一気に開けて海になった。わたしはしみじみと感動した。

 初夏の、白茶けた空、水蒸気の多い厚ぼったい雲が低く垂れこめていた。潮風が脇を通り抜けた。

「あーこんなところから」

「ええそうなんですよ」と人喰い鮫。

「もしよかったら泳いでいきませんか」と言うので、「水着持ってきてないですし」と遠慮すると、

「大丈夫、わたしが持ってきていますから」とカバンから水着を取り出してくれる人喰い鮫。用意のいいことだ、と思って、

「じゃあ遠慮なく」と海に入った。

 海に入るなんて久しぶりだ。盛夏というわけではないから水はまだまだ冷たかったけれども我慢できないほどではない。学生の頃の、六月のプールの授業を思い出した。

 人喰い鮫と一緒に泳いだりしてしばらく遊んだ。途中で人喰い鮫がわたしを食べようとしてくるのだけれども、鼻先をぺしっと叩いてやると人喰い鮫はしょんぼりしてしまって、またビーチボールを突っつくことに戻るのだった。 

 夢中になって海をぱちゃぱちゃした。楽しかった。なんだかすっごく自由だという気がした。思いついてすぐ海に行ってその場でぱっと泳いでなんていつもの自分だったら決してすることはないだろう。でも、そういう時間を過ごすことぐらい本当はいつでもできるはずなのに、わたしたちはついつい面倒だったり明日のことを考えてしまったりで、こんなふうにゆたかな時間を過ごすことはできなくなってしまっているのだなあ、と気づかせてくれるような日だった。 

 もうだいぶ遊んで疲れてくたくたになって陸地にあがった。人喰い鮫の持ってきてくれたビーチパラソルの下で休んでいると、コーラを持った人喰い鮫が隣にごろっと寝転んで、目をきらきらさせながら、

「どうでしょう、もうそろそろかじってしまってもいいでしょうか?」と尋ねてきた。そんなこと聞かないで一息に噛みついてしまったらいいのに、ほんとうにきみは不器用なやつなんだなあと思いながら、「だめですね」と答える。 

 人喰い鮫はしょんぼりした顔になって、「コーラ飲みますか」とコーラをくれる。

「海で飲むコーラはおいしいですね」

「ええ、わたしはいっちゃんこれが好きなんです。泳いだあとに飲むコーラには、なんというか夏の魂がこもっている気がするんですよ」と人喰い鮫。おいしそうにコーラを飲みほす人喰い鮫を見ていると、まあ、わたしがこの世に嫌気が差したときだったら、噛みついてもいいかもしれないぜ、というふうにも思えてくるのだった。