小説 カピバラになってしまった彼
カピバラ細胞が暴走して彼はカピバラになってしまった。
「わたしを残してカピバラになっちゃって、あとはどうしたらいいんだよ」と言うけれども、カピバラになった彼は我関せずといったふうに草を食みながら、
「カピバラになったって生きていけるから大丈夫だよ」と言った。そんなことが聞きたいのではない。
彼はどんどんカピバラになっていくらしかった。次第に人間の言葉を喋らない時間のほうが長くなっていくので、
「なんか喋ってよ」とお願いするけれども、そういうとき彼はおっくうそうに口を開いて、人とは異なる気道でなんとかうまく人語を喋ろうと四苦八苦して、それからかすれたウィスパーボイスで、
「空が綺麗だよ」とか、
「窓ガラスに光があたって綺麗だよ」とか、
「スノードームの中をゆっくり落ちていく雪が綺麗だよ」とか、そういう美しいけれども益体のないものの話をする。
「美しいものの話をしないでくれよ」
「なんでさ」
「自分がみじめに思えるからさ」と彼に言うと、彼は「それでも美しいものの話をしないとだめなんだ」と言った。なんの義務感なんだかわかんなかった。でもそれはもしかするとわたしたち人間みんなの義務なのかも知れなかった。
でも、わたしは彼に人間に戻ってほしかった。カピバラのままでいる彼を認めることはできなかったのだ。
だからカピバラ再生手術を受けさせることにした。
眠らせてこっそり病院に連れていき、カピバラ細胞をレーザーで焼き殺してもらうのだ。
「びびーっ」という音がドアの向こうからするたびに彼は「むんむん」とかすれたウィスパーボイスで鳴いた。痛みはないはずだったけれどもわからない。カピバラの言葉はわたしにはわからない。
でも、もしかすると、彼が人間だったときから、わたしは彼の言葉がわからなかったのかもしれない。
手術が終わって人間に戻った彼は、長い手足をしみじみと見つめながら、
「長いなあ」と言った。
「こんなに長かったら背中も掻けちゃうよ」と笑った。強がりなのか憎しみなのかあるいはその両方ともなのかわたしにはわからない笑みだった。
今でも、時折彼はカピバラだったときの話をする。
草を食べて美味しかったことやりんごを食べて美味しかったときの話をする。それから窓ガラスに光が当たるときの美しさやスノードームにゆっくり落ちていく雪の美しさの話をする。
それらをみんな寂しそうな顔で、懐かしそうな顔でするときの彼はカピバラに似ていて、でももう二度と取り戻せないノスタルジーに、いつまでも苛まれているように顔をしかめながら話すのだった。
彼はまだ人間のままでいる。美しい益体もないものの話をしながら、世界の何処かにまだカピバラの彼が残ってでもいるかのように、そのかけらを集めようとでもしているかのように。