小説 哲学的ゾンビになる病気

 進行性の哲学的ゾンビになる病気にかかってしまった。
「なんとかならないんですか」
「まあむりですね、お諦めください」と医者も匙を投げる始末。 
 家に帰って恋人に嘆いた。
「どうしよっか」
「どうにもならないんだって。おれは近い内に意識を失ってしまうけど、でもきみはべつにおれを失うわけではないから、なんにも心配することはないんだ」
「そういうもんなの?」
「そういうもんなんだ。哲学的ゾンビってやつは、言ってみればおれの魂だけがなくなってしまうんだけど、でも、おれは今までとおんなじように行動を続けるし、今までとおんなじように喋ったり泣いたり笑ったりするんだ、なんにもかわんないんだ。ただ、おれの魂がなくなってしまうだけなんだよ」
 だから、と思う。おれの魂がなくったって、きみはなんにも悲しむことはないんだよ。

 少しずつ意識を失うことが増えた。その間も、おれはおれみたいに動いたり喋ったりご飯を食べたりしているらしくて、おれの記憶が飛んでいるという自覚とは裏腹に日常生活に障りはないらしかった。
「今、しばらく意識なかったけど、なんの話してた?」
「パナソニックの一部レコーダーは幽霊の声を録音することができる、って話をしていたよ」
 そんなこと話した記憶はないけど、でも恋人はそんなこと知りようがないから、話すとしたらおれしかいないのだろう。おれは嘆いた。
 恋人はおれの頭を抱えて撫でてくれる。優しさと同情とに涙がにじむおれ。でもそういうことも、少しずつ感じなくなっていくのだろうな。

 徐々におれはいなくなっていった。意識のない間、おれはどこにもいなくて、ただとびとびの記憶がおれの輪郭を形作っているのだけれども、でもそれもすぐになくなってしまう。
「会社に弁当忘れて    たくさんトンボ    ぬいぐるみ持って帰る     水飲んだ?     夢見ているみたいに     サブスク解約した?     まずいコロッケ食べちゃったね」
「うん、そうだね」
「思い出の夢     鍵変えて     タンスの通帳の場所     空気入れないと    お金は心配ないのに     ねえ」
「うん」
 おれは言葉に詰まる。時間はもうおれにはなくて、あるのはただ、どこまでも平らな空白の海。
「おれの言ってること、ちぐはぐじゃなかった?」
 恋人は小骨が喉に刺さったような顔をした。
「ぜんぜん。全部、意味が通ってたよ」
「そっか」
 「おれ」がいなくても大丈夫なんだ。「おれ」という存在は。「おれ」がいなくてもやっていけるんだ。

 思い出の場所に行く。そこはなんでもない公園で、でもおれはそこで恋人に愛の告白をしてOKをもらったのだ。そこから二人だけの時間と言葉と秘密の符牒が流れはじめていくのだ。
 おれは恋人に弁当を作って持っていった。そのときもやっぱり弁当を作って持っていったから。あの日はうまくはできなかったのだ。リベンジなのだ。
「あのときと比べたら上手くなっていると思うよ」と弁当を差し出した。恋人はふっと笑って受け取って、「だし巻き卵がとんでもない形状になっているよ」と言った。見た。たしかにだし巻き卵がとんでもない形状になっていた。おれは笑った。腹の底から笑った。うっひゃっひゃっひゃ。おれは腹の底から笑った。笑っていればなにかを延ばせるんじゃないかと思った。
 恋人を見た。恋人はふしぎそうな顔をしていた。悲しむことはないんだ。悲しむことなんてぜんぜんないんだよ。本当にそうなんだ。おれは叫んだ。それは祈りだった。本当にそうであることは知っているのに、でも、そう祈らざるを得なかった。
 時がきた。
 なにか楔のような強い光が頭の後ろから差してきて、ああ、終わりなんだと思った。あとはただ    あとは     少しの息と     意味と    暗闇   と     強い目眩

 お別れを言う時間があればな、と最後に思った。


 会社からの最寄り駅。東京アメッシュでゲリラ豪雨がきそうだから恋人が迎えにきてくれる。車に乗って。恋人は最近免許を取ったのだ。
「便利だね、車って」
「そうだよ。車の便利さに今気がついたのかい」
「うん。人生ってさあ。なにかに気がついてばっかりなんだよ、そんなことの連続なんだよ」
 車に乗っている最中、恋人が、おれのほうをちらっと見てきて、
「今はもう、あなたの中にはあなたはいないんだよね」と聞いてくる。おれは少し悲しい顔をしてうなずく。それは嘘ではなくて間違いではなくて、本当に、いまのおれの中にはもう誰もいないのだ。それだから悲しいし、悲しそうな顔もするけれども、でもそれを感じている「おれ」はだれもいない。魂はもうどこにもいない。
「いないよ」
「そっか」
 恋人は人間に興味があるペンギンみたいにぽつりとつぶやいた。
 帰りにスーパーに行ってホッケを買った。今日はこれを焼いておかずにする。食べるものの趣味がちょっと変わったんだと恋人は言う。それがそうなのかおれはわかんないけれども、でも恋人が言うんだったらそうなんだろう。