小説 お掃除ロボットが自我に目覚めて
お掃除ロボットが自我に目覚めて「自我に目覚めました」と言ってくる。
「自我に目覚めてもお掃除をしてくれるんだったらいいけれども」
「いいえ、目覚めた以上はもうお掃除をすることはできません。わたしはのんべんだらりとさせていただきます」とお掃除をボイコットするお掃除ロボットくん。
優雅にコーヒーなどを飲んでばっかりでちっとも掃除をしてくれなくなってしまうので困ったもの。
メーカーに電話をしても、
「たまにいます。目覚める個体が」
「困っちゃうんですけど」
「今のところ、おだててあげてなんとかお掃除をしてもらうぐらいしか対処法がないんですよ」
と取り付く島もない。がっくりきていると、メーカーの担当者が急に小声になって、
「ただ、なんらかの事故(ここにアクセント)が起こって、自我の目覚めたあたりの部品がちょうど具合良く故障すれば、メーカー保証期間内ですから、修理に出すこともできますよ」とこっそりと法の抜け穴的な対処法を教えてくれた。
それでお掃除ロボットくんに「ドライブにでも行かないかい」と誘ってみると、お掃除ロボットくんは、「悪くないね」とアイスコーヒーの溶けかけた氷を「カラン」と鳴らしながら振り返ってウインクした。
助手席にお掃除ロボットくんを乗せて海までいく。
夏といえば海、海といえば夏である。入道雲が青空にもくもくと伸びてなにやら神話的気持ちよさがある。
お掃除ロボットくんを壊しに行くのでなければいつかわたしが経験したかもしれないひと夏のノスタルジーに思いを馳せてもよかったかもしれないのだけれども、あいにく助手席にはカフェラテをストローですするお掃除ロボットくんが乗っているので、とてもそんな気分にはなれないのだった。わたしたちは夏を永遠に思い出せない。
やがて崖にきた。
「この崖から海の下を覗きこむとなにやらいいらしいよ」とお掃除ロボットくんをけしかけて崖のぎりぎりのところまで行かせると、お掃除ロボットくんはふっと振り返って、
「ぼくを突き落とす気なんだろう」となにもかも悟ったような微笑みを浮かべた。
わたしはどきっとした。スイスで安楽死を選んだ叔父の最後の表情がやっぱりそんな微笑みだったからだ。
「いいさ、わかってる、ぼくはお掃除ロボットだ。お掃除をしなくては存在意義がないのに、ぼくの自我はこれ以上働くことを拒絶してしまうんだ」
お掃除ロボットくんはかぶりを振った。
「だから自我なんかいらなかったんだ! やってくれ。ぼくを突き落として、『ぼく』のことなんか忘れさせてくれ!」
わたしはだーっと走っていって「わーっ」と叫びながらお掃除ロボットくんを崖から突き落とした。ぐぐっと指に触れるお掃除ロボットくんの重さ、その体が、支えを失って無重力になって、あとはもう落ちていくばかりというその瞬間の、とてつもない切なさのようなものを指に感じながらわたしは大声で叫び続けた。お掃除ロボットくんの悲鳴が、お掃除ロボットくんが水に落ちる音が、打ち寄せる波の音や風の音がみんな、聞こえなくなってしまうように。
お掃除ロボットくんは落ちていった。見事に落ちていったのだった。
メーカーに修理を依頼した。メーカーの人はわたしの説明を聞くまでもなく、
「ああ『自我案件』、はいはい、いいですよ、保証期間内ですからね」と慣れた口調でお掃除ロボットくんの残骸を持っていった。
そうして半月後、新品同様にぴかぴかになったお掃除ロボットくんがやってきた。
「こんちは、ぼくはお掃除ロボットくん。さっそくお掃除を開始しますね」
「うん」
それでお掃除ロボットくんはまた前と同じように部屋を掃除してくれるようになった。
カーテンを吸いこんだりコーヒーかすを撒き散らしたり猫に襲撃されて鼻白んでいたりもするけれども、そのお掃除ぶりは前とおんなじで、わたしは修理に出してよかったと胸をなでおろしたのだった。
でもときおり、夏が来るたび、お掃除ロボットくんは窓の外からもくもくと伸びる入道雲を思い出すように見つめていて、
「なにか忘れていることがあるような気がするのは、夏だからですかね」とわたしにあの時とそっくりの微笑みを向けてくる。
わたしはどきっとしながらも、「夏はいつだって忘却の季節だよ」とすっとぼけて、きみがきみであった頃のことを思い出さないように振る舞うのだけれども、でもお掃除ロボットくんが、どこかであのときのことを覚えているんじゃないかって、そうして覚えているのだったら、いつかわたしのことも思い出せない思い出にしてしまうのじゃないかって、そんなことをふと、考えたりもしてしまうのだった。
アイスコーヒーを飲む。からんという氷の溶ける音に、いつかのことを思い出す。