小説 近所のカンガルーのお母さん
「私のポケットに入ってもらえないでしょうか?」と近所のカンガルーのお母さん。
「順を追って話してもらっていいですか?」
「実は最近子供が独り立ちしまして。それからというものポケットがさみしくてさみしくて」
カンガルーのお母さんはハンカチでよよよと涙を拭った。
「今でもあの子がポッケに入っている感覚で目を覚ますことがあるんです。夜中に一人目を覚まして、あああの子がいたかと思ったけどいなかったと思って、そうすると悲しくて悲しくて、水で薄めた麦茶みたいな涙がでてきます」
「水で薄めた麦茶はほぼ水じゃないですか」
「なので、ポケットに入っていただけないでしょうか?」
カンガルーのお母さんにもそういう悲しみがあるのだなあ、と思うのだけれども、
「だいたい入らないんじゃないですか。俺の貫目ですと」
「大丈夫です。私のポケットはちょっとした四次元空間になっているので、何でも収納できますの」
「そんなことあります? ドラちゃんのポケットみたいな?」
「ドラちゃんのポケットみたいなです」
それなら入れないこともないのかな。でもやっぱりカンガルーでもないのにポケットに入るのは、雨宿りと言いながら人んちの犬小屋を占拠するようなもんではないか、と思っていると、
「お願いです。人助け、いやカンガルー助けだと思ってどうか入ってください」
「いやいやいやお母さん、俺も全然お力にはなりたいんですけど、でもやっぱりそのポッケの中に入るというのは、ちょっとその……」
と葛藤していると、カンガルーのお母さんはうるうると涙ぐみながら両手を合わせるのだった。さすがに俺も抵抗しづらくなってくる。
「じゃ、じゃあちょっとだけですよ?」
「やったあ、ありがとうございます!」とカンガルーのお母さんは嬉しそうだ。いいのかな、と思いながらポケットの中にぬるっと入った。
ポッケの中は意外と明るかった。カンガルーのポッケの生地を通して外の光が透き通ってオレンジ色に見える。ふーん、こんな感じなんだという色合いだ。
その上、ポッケの中はハンモックみたいな心地の良い浮遊感がある。無重力とまではいかないまでも、なにか体の重みが分散されるような感覚に、思わず持病の腰痛も軽減される感じだ。
「かなり居心地がいいですね」
「うちの坊やもそう言ってました。やっぱりお母さんのポッケの中が一番居心地がいいって」
「それはそれでなんか親離れしろよみたいな発言じゃないですか?」
なんだか生まれる前に戻ったみたいだ。おれもこんなふうにしてお母さんのお腹に入っていたのかな、と思っていると、そのうちなにやら眠くなってきてしまった。