小説 イルカになったら三回転ジャンプを
年パスを使って水族館にちょくちょく行っていて、そのうち水族館でしょっちゅう見かけるおじさんと話すようになった。
「おじさんはイルカショーのイルカになりたいんだ」とおじさん。
「暑さにやられてしまったんですか」
「違うよ。イルカショーのイルカになればみんなから歓声を浴びることができるからさ。おじさんは窓際族で誰からも相手にされないし、今日も仕事をさぼって水族館にきちゃったんだ」
「自由ですね」
「だからそうすればおじさんも輝けるんじゃないかってずっと思っているんだよ」
そんなことをきらきらしたまなざしで語るおじさんには確かに変な魅力があったのだった。
ある日のこと。水族館に行くとおじさんがいない。あれ、今日はいないのかな、と思いながらイルカショーを見ていると、イルカが超音波で話しかけてきて、
『わたしだよ、よくここできみと話していたおじさんだよ』と言った。
「暑さにやられてしまったんですか?」と思わず返事をするぼく。周りの家族連れが変な目でぼくを見たし、イルカに言ってどうする、と気がついたぼくは恥ずかしくなって小声で、
「やりましたね。でもどうやってイルカになったのですか」
『それがわからないんだ。ある朝目が覚めたらイルカになっていたんだ。神様がおじさんの願いを叶えてくれたのかもしれないね』
ショーが始まった。おじさんは早速華麗なジャンプを披露するのかと思ったのだけれども、うまく跳ぶことができないらしい。
『難しいよ。イルカになりさえすればジャンプも容易いかなと思っていたんだけれども、そうでもないみたいだ』
「おじさん、このあいだガードレールをまたごうとして足が上がんなくて転んじゃったって言ってたじゃないですか」
『うん、恥ずかしながらそうなんだ。イルカになったとはいえ、中身は中年のおじさんのままみたいなんだ』とおじさんは水面で悲しそうに佇みながら言うのだった。
するとイルカショーのお兄さんが、
「このイルカくんは最近入ったばかりなので技を覚えている真っ最中なのです。だから失敗してしまうこともあるかもしれませんが、みなさん応援してあげてくださいね」とフォローしていた。
誰かが「わーっ」と声をかけた。おじさんはその歓声に応えるようにジャンプしようとしたが、ちっとも水面から跳び上がっていないし、浅瀬でちゃぷちゃぷしているようにしか見えないのだった。
ぼくははらはらした。
おじさんは目に涙を溜めながら水面にぷかーっと浮かんできて、
『おじさんはここまでだよ、やっぱりおじさんはイルカになってもおじさんのままなんだ……』と悲しそうに言った。
ぼくはやるせない気持ちになって、「おじさん、何言ってるんです、今頑張らないでいつ頑張るんですか」と言った。
『え?』
「おじさんはもうおじさんじゃなくてイルカショーのヒーローなんですよ。子供たちはおじさんが華麗な三回転ジャンプを決めるところを見に来たんです。子供たちの期待を裏切ってはいけません」と発破をかけると、おじさんは顔を上げてうんうんと頷いて、
『わかった、がんばってみるよ』と再びプールの真ん中の深いところに戻っていった。
すると会場の子供たちが口々にがんばれと言い始めた。がんばれという声はだんだんイルカショーのドームを包み始めていった。おじさんは水面から顔を出して、自分を応援する子供たちの声の反響にじーんと耳を澄ませているみたいだった。
おじさんはぼくを見た。子どもたちを見た。
『それーっ』と叫んだ。そして跳んだ。水面から高く高く跳び上がり、天井からぶら下がっている大きな輪っかをくるっと通り抜けたのだ。
子供たちが歓声をあげた。イルカショーのお兄さんも「わあーっ」と声をあげた。
ぼくも「おじさん、跳べたよ」と声を掛けた。おじさんだって跳べるんだ、とぼくは感動した。
だが次の瞬間だった。
『足を攣ってしまったよ!』というおじさんの悲痛な声が超音波で届いてきた。無理をしたせいなのかもしれない。おじさんは水面にぷかーっと浮かび上がってきて、足(?)に当たるであろう尾びれを抑えながらじたばたしていた。
「えー、イルカくんが疲れてしまったようですので、今日のイルカショーはこれで終わりです」とお兄さんが言った。
会場からはブーイングが起こるかと思いきや、子供たちはみんな拍手をした。おじさんの頑張りが子供たちにも伝わったのか、拍手はなかなか鳴り止まなかった。おじさんは足を抑えたまま、不思議そうにみんなの拍手を聞いていたのだった。
ショーのあと、イルカとの握手会のコーナーがあった。おじさんの鼻に触れて「がんばりましたね」と声を掛けるぼくに、
『これからどんどん訓練して、いつか三回転ジャンプを決めたいよ』とおじさんは決意を語るのだった。
「楽しみにしていますよ」
するとおじさんは笑ったように見えた。イルカが笑えるのかどうかぼくは知らない。錯覚かもしれなかったけれども、ぼくにはおじさんが笑ったように見えたのだった。