2023/08/30の夢
1
富士山の北の中腹、山梨県側の登山道上に山小屋を持つ、もう100歳近いじいさんがいる。彼は山小屋の管理人であると同時に、開山シーズン以外の時期も住人としてそこに住んでいるようである。
「 」
彼は、その1行にも満たない短い言葉(完全に忘れた)を何度も反芻し、それだけを心の糧にして生きているという。きっかけこそ忘れたが、私は彼と継続的な交友があるらしく、彼はその言葉を私の口から聞きたいからと、わざわざ山を降りて東京の家まで会いに来たりする。
先日彼が会いに来てくれた時、彼は小さな壺を持ってきた。しばらく話していると彼はおもむろに壺の蓋を開け、軽く息を吹きかけると細かな煙が立ち上った。それは誰かの遺灰であった。彼は繰り返し「死んだら灰になるんだよねえ」と呟きながら、その煙を愛おしそうに見ていた。命は儚いが、こんな美しい煙になるならそれもいいか、と彼が言ったのか、私がそう思ったのか、どちらだったか覚えていない。
2
彼の住まいのある登山道には他にも山小屋やお土産屋さんが軒を連ねていて、細く小さな商店街を形成していた。そういえば、と私は思い出し、私は数ヶ月前、その中にある一軒の小さなレストランに会社の上司たちと共に訪れていたのだった。そのことを思い出した瞬間、たちまち私はそのレストランの前に立っている。私はレストランを訪れた数ヶ月前、店主のばあさんから折り畳み傘か何かを貸してもらっており、今回はそれを返しに来たのだった。しかし、案の定(とはなぜか予感があったので)扉を開けると中はもぬけの殻であった。外見だけは以前のままなのだが、屋内のあの年季の入った電飾やメニューの書かれた木板、テーブルや傘立てに至るまできれいに引き払われていた。ああ、あのばあさんも死んでしまったのだ、と察しさみしくなった。
3
さっきのじいさんによるアートパフォーマンスの夢。場所はやはり富士山の中腹で、私はとある小屋の横に立っている。小屋に張り付くように公衆電話が設置されていて、電話台には50円玉や10円玉が散らばっている。電話に小銭を入れて受話器を取ると、受話器の向こうから「何言ってんだよ、そんなこと言うなよ」「待ってろよ、今行ってやっからよ」と、前後は不明だが熱のこもったじいさんの声が断続して聞こえてくる。そして5回か6回に1度、横の小屋から本物のじいさんが扉を開けて出てくるのだが、実際に出てくるときまって「何してんだよ。帰れよ」「わけわかんないことすんなよ。お金の無駄だよ」と冷たい言葉をかけてそそくさと引っ込んでいくのである。距離を感じる受話器の向こうからはひたすら情熱を感じるのだが、実際に会えた喜びはその都度裏切られるのである。
4
夢の中で勤めているファミリーレストランの業務を終えたあと、夜遅くになってから母の実家へ行く。この家の住人である母の妹の家族は皆寝静まっていて灯りも小さく、まだ23時だが深夜3時くらいのように感じる。ふと私の意識は現実へ立ち返り、そういえば自分の実家で過ごした夜もこんな感じだったなあ、と思う。襖の向こうで母が寝静まる中、灯りをしぼってイヤホンから音楽を聴き、夜明けまでこっそりと作業するあの時間が私にとっての夜だったのだ。あの頃は、まだ夜そのものから力を授けてもらえていた。一人暮らしで何もかもが自由になった今、いつ寝ていつ起き、どこで灯りを煌々と点けようと自分の勝手だが、今や作業詰めで迎えた朝でテンションが上がることもなくなってしまった。
と、ふいに電話がかかってくる。電話を取ると相手はレストランの同僚で、「言い忘れてて申し訳ないけど、xxxのマシンの器具が交換の日だったから交換を頼む。新しい器具は事務所に置いてあるけど、古い器具も本部に送達するから袋に入れて保管しておいてくれ」とのこと。了解と返して電話を切ると、間髪入れずにこんどは姉から着信が入る。そして「交換する器具を売って金にするから私にくれ」と言うのだ。本部に送るからそれはできないと私が断ると、うわあ会社の犬……みたいな反応をされる。言い返すこともなく、腑に落ちないまま電話を切る。
*大人になってしまった
*本当に死んでしまったOさんの影響がかなり強く出てるっぽい