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葛西臨海公園で死んだと思った話

過去録/日付の記録なし
☒☒☒追加服用後

22時半を過ぎたころ、舞浜から橋を渡って何度目かの葛西臨海公園へやってきた。広大な森は地元を思い出す闇の深さで、いくら歩いても同じ場所に戻ってきてしまうように感じた。ちょっと油断すると遠くで鳴くミゾゴイかなんかの低い声が耳に入ったりして、それが暗闇を通して身体を蝕んでくるような気がして恐ろしくなった。あわててカメラを取り出し、払いのけるようにフラッシュを闇雲に焚くと友人が顔をそむけた。カメラを構える姿勢が銃を構えているようで、あんまり焚かれると撃たれて殺されそうだと言うのだ。

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殺すつもりで黙ってシャッターを焚き続けた。こう書いているとあんまり良いトリップではないような気もするが、良くも悪くも渦ってきた我々はともかく森を抜けて海岸へ出た。その海沿いを東へ歩く途中で私はすっかり参ってしまい、石畳の上に転がり込んだのが0時すぎ。友人に急かされて起き上がり、岸端を曲がって辿り着いたのは公園東端の高架下───そのほんの150mの石畳の通路に、私は実に6時間ものあいだ閉じ込められていたのである。記憶が正しければ午前2時すぎ、私は友人とはぐれてから夜が明けるまでの数時間、真剣に自分が死んだものと考えていた。我に返ってからを主観で話すとこうだ。

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気づくと俺は夜の海辺に一人で立っていた。なぜこんな場所にいるのか分からない。足元が傾いでいるうえ水面はすぐそこにあり、海に落ちてしまわないか心配だ。見上げると、えらく高いところに橋が伸びていて、車が近づいては走り去る音が絶え間なく聞こえる。そこに他人の存在があることは分かったが、声が届かないことにかえってひどく孤独を感じた。たまらなくなり、ともかく話せる人間を探したいと思い石段を上って高架下を抜けると、ごつごつした石畳の道に出た。道のとおりに進んでみたのだが、海の手前で途切れてしまっている。仕方なく来た道を引き返し、反対方向に行こうとするもやはり橋の下で足場は途切れている。さらにこの一本道の内陸側には森が壁のごたる黒黒なっとるので、つまり、閉じ込められた!俺はすっかり途方に暮れてしまった。

ひとまず落ち着こうとぐらぐらしながらも直前の記憶を辿ってみる。ついさっき、俺は友人と森の中にいたはずだ。しかしその友人が消えている。そして森に入る前の☒☒☒を思い出し、ぎょっとした。すると俺は死んでしまったのだ。追加の☒☒☒を呷った俺は数十分のうちに昏倒し、そのままあっさり死んでしまったのだ。海だと思っていたこいつは、すると例の三途の川ということなのだろうか。沖に建っている、あの煌びやかなライトアップの見知らぬ豪邸は、すると天国への入口なのだろうか。船は来てくれるのだろうか。来てくれなければ、俺はあの理想郷を眺めたまま、これから無限に続く時間を過ごすのだろうか。

……しかし斜面に座ってしばらく海を眺めるうち、徐々にこの場所を見知っていることに気づいた。直前の記憶で友人とここに訪れていたことを思い出したのだ。なんのことはない、あれはディズニーのライトアップで、ここが東端の高架下であることも思い出した。
で、しかし、それでもなお自分が死んだことを否定できず頭を抱えた。というのも、こんどは自分がこの場所の地縛霊になってしまったと考え始めたからだ。これはどこかで聞いた話、死後の世界は明晰夢のようなもので、その者の想像の通りになるものだと聞いたことがある。臨死体験の話は聞いたことがあるが、死にかけた生粋の西洋人が三途の川に行ってきたり、死にかけた仏教徒がキリストに裁かれたりはしないだろうから(たぶん)。これは、この話を信じた私の願望でもあるのだ……なぜなら死後さばきにあったり、獄卒にいじめられたりするのは嫌なので。地縛霊というのは私なりの想像で、死ねば誰も参加していないサーバーに自分だけ入ってしまった時のように、人は死んだその場所で、永遠に一人で立ち続けると考えているのだ。生きていた間はそれを気楽で良いと思ったりもしたのだが("俺は、死んだら一人でここに来るのだと思うと気が楽になった")、まさにそうなってしまった今、わりと、意外なほどとてもさびしかった。改めて考えてみるとこんな時間にまでライトアップされているディズニーの存在も浮世離れしたもののように感じられ、やはりここでは時間が止まっていて、もう二度と夜が明けることはないように思えた。死とは時間の停止であるという考えは正しかったのだ。

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なんだ、こんなもんなのか。これからだと思っていた俺の人生はこんなにも呆気なく終わるものなのか。さすがに母親に申し訳ないな、などと色んなことを考えた。あまりにも痛みや苦しみの記憶がなかったことや、手を当ててみるとたしかにまだ心臓が動いていることが不思議ではあったが、この時の私には脱出のための道がないことも、友人が忽然と消えてしまった理由も、自分が死んで地縛霊になったと考えたことで腑に落ちてしまっていたのだった。幻覚により現実を寸断されていた私が我に返った時、早々に友人が「消え去った」と感じたのはつまり、他に行ける場所をどこにも見出せなかったからだった。脱出するための道が認識できなかったのだ。脳出血かなんかで判別がつかなくなり、部屋から出られなくなる2ちゃんのあの話と同じことだ。公園の南端を歩くうちにすっかり参ってしまった私は、たった今歩いてきた道を一歩ごとに見失っていたのだった。

……ふいに強い風が吹き、眼下の水面に波が立った。さっき、死ぬ前にも見た不穏な光景だ。さっきはこれが政府による津波の演習だと思ったのだが、こんどはいよいよ自分が苦しむ前兆だと考えた。これから水面はみるみるうちに上昇して私を呑み込み、自責のための苦しみは永遠に繰り返されるのだ。私はここへきてなお自分が幽閉されていることを疑わず、やはり脱出できる道は「自分にとってだけ」消えてしまったのだと考えていた。私はここで死に、私の想像する死後の世界にやってきてしまったのだ。

と思ったら、波はしばらく迷って黙り込んだ。私は海辺に座って東の空を睨み、ひたすら空が白むのを待った。夜さえ明ければともかく私は生きて帰れるのだ。また何度も風が吹いては波が寄せ、私はいちいち死を覚悟した。そうしてそこで何分、や何十分、いや何時間を座って過ごしたかは判断できない。☒☒☒が時間感覚を極端に引き伸ばすせいで、ほんの十数分でも気が遠くなるほど長く感じるからだ。しかし呆れながらも空は応えてくれ、日の光とともに私はとうとう袋小路から抜け出すことができた。私、わたくしはいよいよ生まれ変わり、命よありがとう、京葉線に乗ってさっさと家に帰って寝た。

翌日の夜、小島公園でおでんを食いながら酒を飲んだ。ベンチの横で作業をしていた30すぎほどのお兄さんがおかしな人で、火起こし器みたいなやつを木片にむけてごしごしやっていた。俺たちが公園にやって来る前から、少なくも小一時間は延々とごしごしやっていた。そんな彼の横で煙草にライターで火を点けることにやや後ろめたさを感じたりもしたのだが、そんな彼は彼で時おりアイコスを吸うなどして休憩していたのを見るに火を起こすことがそんなに重要だとも思えなかった。
彼はほどなくして去っていったが、俺たちは謎の中に取り残された。あれをもし、アート目的とかで撮影しているのでもなければ、例えば「無意味なことに時間を費やす」というテーマのもとに、誰にも言わず、まったくの一人であれをやっているんだとしたら、彼はえげつねえ覚悟の持ち主だと思った。ああいう人に俺はなりたい。

あるいはですね、彼は俺たちに教えてくれていたのかもしれない。
「なるほど、こんな時代に、まして宿なしでもない私が火を起こそうと躍起になることは無意味なことかもしれない。だが、あなたたち、これと人生と一体どう違うというんです?私たちが日々汗水垂流行諸々行為は、あなたたちの言う"こんな"ことと対して変わらんのではないですか?」と。そう思ってみることにしました。まだ☒☒☒が残っていたので。
また園内東側のブランコでは、これまた一人で全力でブランコを漕ぐ、それも数十分に亘ってちっとも休むことなく漕ぎ続けるおっさんがいた。自分たちも含めて変な人ばっかりだった。俺たちが公園を出る時、おっさんはまだ漕ぎ続けていた。年を越した今もまだ漕ぎ続けているかもしれない。

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