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【弓と竪琴】(オクタビオ・パス)をよむ③ 〔序論〕 –詩情(ポエジー)と詩作品(ポエマ)–

“われわれが詩にポエジーの存在を問う時、しばしば、ポエジーと詩とが勝手に混同されているのではなかろうか?”

弓と竪琴、19p

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今回は、前回の記事で説明しきれなかった、「詩情(ポエジー)」と「詩・詩作品(ポエマ)」の区別について扱う。

【弓と竪琴】における、パスの主張を理解するためには、この「詩情(ポエジー)」と「詩・詩作品(ポエマ)」という概念の区別と整理が必要不可欠となる。

なぜか?

それは、前回の記事で示した問いのひとつである、①詩という表現形式の〈独自性〉についての問いに答えるためである。

より正確言うと、(「表現形式」という言葉は「芸術表現」と「言語表現」の二つを指すのだったが、なかでも)①-1)「他の芸術表現活動に対する詩の独自性」について考えるために、「詩作品」と「詩情」の区別は欠かせないのだ。

一体どういうことなのか。
これに関しては、パスの言葉よりも、吉本隆明の言葉から引いた方が分かりやすい。

“「あの絵には詩(ポエジー)がある」と云うときのように、詩的なものという意味あいで「詩」という言葉はいろんな芸術の分野に使われています。”

[詩について],吉本隆明,『詩とはなにか 世界を凍らせる言葉』156p,思潮社2006)


たしかに、吉本の言うように、詩作品以外の芸術作品や芸術分野、芸術批評において、「詩」「ポエジー」という言葉が使われる現象は、よくある。


他の芸術表現活動から、〈詩の独自性を探ってみよう〉としている時に、あらゆる芸術分野全域において、「詩」・「詩情」・「ポエジー」…といった表現が用いられているのは、非常に厄介なことであり、それらの言葉を整理しないまま議論していけば、のちのち混乱を招きかねない。

それゆえ、〈あらゆる芸術領域における詩の独自性とは何なのか?〉という議論のためには、まず、この「詩作品(ポエマ)」と「詩情(ポエジー)」という概念を明確に分けて考える必要があるのだ。

では、実際この「詩作品」と「詩情」とは、何によって異なっている概念なのか?

それは恐らく、根本的には、「詩作品(ポエマ)」と「詩情(ポエジー)」、互いの発生条件、依存対象の幅や質の違いによってである。


***

第一に、「詩作品(ポエマ)」とは、〈具体的な作品〉である。

「詩作品」が発生するためには、最低限「言語という素材」に依存することになる。もっと言うと、「詩作品(ポエマ)」は「言語」から逃れることはできない。

(コンクリート・ポエトリーにおいて用いられる「図形としての文字」も、結局は言語に違いない。)


もっと言えば、言語が連なり作品になっていく過程、つまり〈創作過程〉にも依存することになる。なにかによって「作られなければ」、やはり「詩作品」は存在しないのだ。(※1)

“個人的であれ集団的であれ、創作者という観念は−現代の著者のそれとまったく同じというわけではないが−詩作品とは不可分なのである”

弓と竪琴、〔エピローグ〕469p


詩作品はさらに、「ポエジー(詩情)」にも依存している。

“韻律を伴った作品は⦅…⦆、その修辞的からくり—詩節、格調、押韻—がポエジーを帯びていないならば、詩ではなく、ひとつの文学形式にすぎない。”

19p

これは要するに、日本語で言えば、七五調で書かれたものすべてが、詩というわけではない。ということである。(※2)

「ポエジー」を帯びていなければ詩作品ではない、ということは、「詩作品」は、《「詩作品」として存在するために》、必ず「ポエジー」に依存するという宿命を背負っている。

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一方、「ポエジー(詩情)」は〈詩的なるものの情感〉である。

“詩的なるものが、まだ形を持たないポエジーであるのに対し、⦅…⦆”

20p

区切りの悪い引用になってしまったが、大事な部分だ。

ここから読み取れるのは、そもそも〈情感〉であるところの「ポエジー」は、(何らかの「具体的な作品」としての)『形をもっていない場合もある』ということである。

その発生は、「〈情感〉を生じさせるための何か」に依存してはいるのだろうが、実際、その対象は必ずしも「言語」に限定されてはいない。

「詩作品(ポエマ)」が「言語」と「詩情(ポエジー)」から逃れられないのに対し、「詩情」は「言語によってつくられた詩作品(ポエマ)」だけには依存しない。

“詩なしでもポエジーは存在する。風景、人物、事実などはしばしば詩的であり、それらは詩であることなく、ポエジーでありうる。”

19p

風景や事実が、しばしばそれだけで「ポエジー」であり得る…ということは、(「詩作品」は発生条件として〈創作過程〉にも依存していたのに対し、)「ポエジー(詩情)」にとって〈創作過程〉は発生条件ではないことになる。

つまり、「ポエジー」にとっては「作者(詩人)」すら、絶対必要条件ではない。

パスはこうも言っている。

“ポエジーが⦅…⦆詩人の創作意図とは関係のない力や状況の結晶であるとき、われわれは詩的なるものをまのあたりにするのである。”

19p


***

では、「ポエジー」の側からしてみれば、最早「詩人」や「詩作品」は〈あってもなくても良いような存在〉でしかないのだろうか。


「詩作品」は〈「ポエジー」から与えられているだけ〉で、「ポエジー」に対しては何も与えていないのだろうか。


そうではない、とパスは言う。


まとまりとしてのポエジーは、詩⦅=詩作品:引用者⦆との赤裸な接触によってのみ把握可能なのである。”

19p

「ポエジー」は、発生ための最低必要条件においては、詩作品に依存していないが、それが「まとまりをもった形で」つまり、「より完全な形」で人間に感じられるためには、作品という形を持っている必要があるだろう…ということ。


“人が手を触れるものは何でも⦅ポエジーであっても:引用者⦆志向性を帯びることになる—〈……に向かっていく〉のである。”

29p

ここでは、詩情(ポエジー)が、詩人の手によって触れられ、詩作品として結実し、その後読者に〈向かっていく〉様が語られている。
「ポエジー」を詩作品に変性することで、それは、〈より多くの人に感じとられるために向かっていく性質を獲得する〉のだ。

次の引用も、そのことについて言っている。

“詩はポエジーを包含し、それを刺激する、あるいは発射する言語の有機体である。”

20p

詩作品はポエジーを「保存する入れ物」になり、それを比喩的に言えば「発酵」させたり「培養」させたりすることもできる。
そして、それを詩作品の外(作品の鑑賞者)に向けて発射する。

詩作品とは、それ自体で完結しきった無機的で静的なものではなく、〈つくられる〉、〈よまれる〉という行為の中において、「ポエジー」を、〈作品以前よりも、人間にとってより豊かなもの・感じやすいもの〉にしていく。

“詩は、⦅…⦆あらゆる人々に開かれた可能性である。⦅…⦆詩人は⦅…⦆詩を創る。そして詩は読者から、⦅…⦆ポエジーを引き出す”

39-40p

当初は詩人にしか感じとられていなかった「ポエジー」だったとしても、それが詩人の手を通じて詩作品となることによって、そこに包含された「ポエジー」は、読者に向かっていく。

そして読者は、その作品からでなければ受け取れなかったであろう「ポエジー」を、引きだすことができる…かもしれないという〈可能性〉を有する。

(これがあくまで〈可能性〉であることも大事だと思う)

*

つまり、「詩作品」と(その創作に大きく携わることになる)詩人は、「詩情(ポエジー)」をより刺激し、より完全な形で発現させて、それを更なる外側(たとえば読者)にむけて発射していく。

その機能を有している限りにおいて、「詩作品」も「詩人」も、ポエジーに対して、決して無能ではない、とパスは言っているのである。


***

互いの依存関係の質を整理しておこう。

「詩作品」は、それが〈詩作品になるため〉に「詩情」に依存する。(※3)

「詩情」は、それが〈より完全なかたちで発現されるため〉に「作品」に依存する。(※4)

***

今回はここまで。


次回は実際に、この「詩情(ポエジー)」という概念を使用しながら、以下の問いについて深めていく。


すなわち、


「他の芸術表現活動に対する〈詩の独自性〉の模索」


及び


「他の言語表現活動に対する〈詩の独自性〉の模索」


である。



***



(※1)
ここで、「詩人によって作られなければ」ではなく「なにかによって作られなければ」と書いたのは意図的ではある。それは、詩作において関わってくる〈他者性〉(詩人が必ずしも詩作そのものをコントロール出来ているわけではないこと)を意識しての記述だったが、現時点での大まかな理解としては、「詩人によって」と思ってもらって構わない。

なお、言うまでもないだろうが、この「詩人」とは、職業的な意味に限定されたものではない。



(※2)
例えば短歌や俳句などの定型詩は「ポエジー」を帯びていなければ、(たとえ基準となる音節数には則っていたとしても)詩ではない。
むしろ音節数は定型から外れている山頭火の句は、その「詩情」からして〈俳句〉である。
それに対して五七五で書かれた、交通マナーの標語や、政治的スローガンなどは、「詩情」から考えた時に〈俳句〉とは言えない場合が殆どであろう。

パスは次のように言っている。

“押韻のための機械はあるが、詩化のための機械はない。”

19p



(※3)
ここで示したのは、あくまで「詩作品」と「詩情」の二者に絞った、依存関係の質である。
本文でも言ったように、詩作品の依存対象には、詩情(ポエジー)の他にも、「言語」、「創作過程」などがある。
本論313頁で、パスもこのように言っている。

“ポエジーは⦅…⦆、それが一篇の詩として具体化するためには、常にポエジーとは異質の何かに支えられていなければならない。たしかに異質ではあるが、それなしには詩は生まれえないのだ。詩はポエジーであり、しかも、それ以外のものでもある。そして、この〈しかも〉は決して非本質的な付け足しではなく、その存在の不可欠な要素なのである。”

(上記引用部一文目は、〈ポエジーとは異質の何かに「も」支えられていなければならない。〉ということ。)


(※4)
ここで、注意しなくてはいけないのは、「詩情(ポエジー)」の依存対象であるところの「作品」とは、必ずしも「詩作品」だけではないということである。
次回の記事で、その話については詳しく扱われることになるだろう。

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