大人だから本を読む
中高生の頃、鍵を忘れて家のとなりの図書館で読んでいた本に書かれてることは、どこか違う世界の話だと思っていた。
それが、この世界の話だとちゃんと認識できるようになったのはいつくらいからなんだろうか。
宇佐兎三でございます。
noteだかYoutuberだかのおすすめでこの本を手にとって、前書きを読んだ時に中学時代におそらくはじめて読んだ哲学の本だと気づいた。
哲学といっても、経済学や社会学などでおなじみのロックやマルクス、エンゲルスなども出てきていたけど、当時はそもそもの素地のゼロだったので、こんな人もいて、こんなこともあるのかなくらいだった。
外国なんかまでいかなくても、実家から各駅停車でも30分程度で入れる山手線の中ですら、はじめのうちは白地図の中に、行ったことのある駅周辺のみが脳内で思い浮かべられる程度だったのと同様に、全ての知識が小学生で学んだことに毛が生えた程度くらいだったから、自分の住んでいる「地元」とは到底地続きだとは思えなかったのに似ていた。
今では、山手線の中であれば大人になってからだいぶ歩いたし、車でも走ったし、いくつかの駅の周辺はスポット地図は白いままではあるけれど、なんとなくは都心ってこういうものってわかっているように、知識的なところも本を読んだり世間を知ることで、知識の白地図も「地元だけの世界」から何冊も読むに従って広がっていくように思う。
そして、最近読み始めた、死ぬほど分厚い本ですら、地元から地続きな話だと思えるようになったていた。
実際のところ、物理的な「地元」にしろ、知識的な「地元」にしろその中だけでも全然生きてはいけるんだよね。
ただ、物理的なところはほとんど無視して生きていける世の中になった昨今、他人のイメージとイメージとのぶつかり合いであったり、協力であったりで世の中が構築されていて。世の中に何があって、何が無いのか?
または、これだけ色々と知識を得ているのに、一部の人にしか知られていないようなスポットの当たらないものは何なのか?というのが大きな武器になるし、武器にまでしないまでも選択肢になる。
そのためには、どんな本を読んでもある程度は自分の世界の話だと認識できるところまで白地図を広げてみるのはありだよね。奥地まで行きすぎると確かに他人と話し合わなくなったりもするけれど、そこまでいっちゃうとその知識に助けられるなんてことも多々ある。
いまどきのYoutubeの本の解説とか、要約noteでいいじゃんって言う人もいるかもしれないんだけど、個人的にはどういう過程でそういう考えになったのか?という方が重要なので、要約記事だけで、結論だけを知っても大概はあんまり意味ないと思う。
そこまでの考え方を知ることで、別のケースで自分で考える力になるので。
要約だけを見るという行為は、夏休みの宿題の答えを丸写しするようなものだし、さきほどからの地図の例えでいえば、
「ここに東京タワーがあって、ここにスカイツリーがある」
位置だけを知るようなもので、あんまり意味ないんだよね。
とりあえずのところはインデックスだけを作成してあとから掘るならそれはそれなんだけど。
東京タワーがなんのためにあって、どうできて、中にはどんな店があるのか?それを知るのが本を読むと言う行為なわけで。
やらされてる宿題とか、読書感想文だったら100歩譲って仕方なしだけれども、自発的にやっているのであれば本当に意味ないし時間の無駄では?とすら思う。Youtubeで話を聞くのも一次発信だったらいいんだけど、二次発信のものはものによるよねって思ってる。
大人になって自発的に何かを知ろうと思ったからこそ、要約じゃなくてちゃんと本を読んだ方がいい。
大人になって世間を知るに従って、自然に広がったマッピングも詳細に知っている知識もあるなかでの読書は、さらに世界を広げるし世界がもっと楽しくなるよね。
とはいえ、どっちの方向の地図を広げていくかはやっぱり好みの問題はあると思っていて。
例えば割と多くの人はむしろそれ「地元」です!って感じかもしれないけれど、宇佐兎三にとっては料理本の世界とかは案外白地図だったりするわけで。
いやぁ手のこんだ料理の本とかやっぱ別の世界の話ですわwwwwwってなる
かんたんの定義が私とは違うようだ…(ぼそ
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