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ネットなど他人に公開されるレビューで☆1つの低評価をつけて欠点をあげつらうコメントを書く人が幸せになれない理由

まず前置きすると、私はとても評価できたもんじゃないクオリティの何かについてレビューするなら、ちゃんと本音に忠実に低い評価をする人のほうが誠実ではあると思っています。

むしろ、人の顔色を気にして無難なコメントしかしない人の方が不誠実だと思っています。

ではなぜ、☆1つなど主にインターネット上などで他人に公開される場でのレビューで低評価をつける人が幸せになれないのか。
(ここでの幸せの定義は、喜びや愛情といったポジティブとされる感情が多数派である日々を送り、お金でいっても技能や知識など諸々の人生経験でいっても、日に日にプラスになって増えていく方向を指すこととします)

答えは自他ともにネガティブな呪いで苦しめて貧しくさせる行動だから。

以下に、対象を

・自分自身
・評価対象となる人
・低評価をする自分のことを見ている人(いわゆる第三者)

に分類して、なぜ不幸になるのかについて考察してみようと思います。

レビューで低評価をつける人は自分自身をアラ探しの達人にする(そしてやがて、何を見聞き体験しても、アラしか感知・認識・考察できないギスギスした人間になってしまう)

思考は訓練の賜物といえて、自覚的にせよ無自覚的にせよ、繰り返し思考する内容に即して形成されていきますよね。

よく使う神経シナプスは強化され、使わないシナプスは衰退したり回路が切れていくのは医学的にも知られているところです。

何かよくないと感じるものを見聞き体験したとき、どこがどう良くなかったかをプロの批評家顔負けに、とことん細かくレビューできるほどの思考をするクセをつけると、そういう方向性での頭の回転は早くなっていくでしょう。
ただしそれは諸刃の刃でもあり、「それ以外の思考をする回数や頻度が少なくなり、苦手になり、やがてできなくなっていく」ことでもあります。

何かを選び取るということは、他のすべての可能性を捨てるということ。
これは誰の日常にも毎秒毎秒、当たり前に起きていることなのですが、ある時間に何かをすることを選んだとしたら(あるいは、何もせずにぼーっとするという選択をするとしても)、他の何かに打ち込んでいたら得られていたかもしれない経験値という可能性をすべて、捨てることになります。

つまり、レビューといえば悪いところを(相手の成長を思えばこそ、良かれと思っての愛の鞭であっても)考えて見つけ出してそれをひたすら言葉を尽くして感情まで昂ぶって述べるということを選んで繰り返す人は、その道の達人になる一方で、それ以外は全然できない人で終わる未来を選んだとさえいえます。

もっと具体的にいうと「何かの良いところを見つけてそれがどう良いかを描写する」思考や技能は育たず、なんなら衰えていく可能性があるわけです。
それは自分自身についてレビューするときに反映されます。
自分で自分の良いところが、見つからなくなるんです。
自分自身の悪いところばかりが目についてしまう。
アラ探ししかできない脳に仕立て上げたのは、長年に及ぶ自分自身の生き様なのですから、誰にも文句は言えませんよね。

そして年齢を重ねた人間が、自分自身の良いところを見つけだせず、未熟だけれど可能性はあるという点があったとしてもそれを伸ばす方法はわからずに現時点の未熟さを徹底的に叩き潰す批判しかできなくなった末路がどうなるかは、想像に難くない……けど、しない方が身のためかも!?

べつにそれでもいいよ、望むところだ、と本人が思えていれば、べつにいいんですけど。

レビューで低評価をつける人は他人の成長を見越す・促す・育てるという視点も能力も身につかず、ただただ嫌われる。そして嫌われ者の言うことなど(どんなに正しくても)誰も聞いちゃくれない

人間社会はなんだかんだいって他人とうまくやれればこそ、という種の保存にまつわる大原則に即していうなら。

辛辣で、評された人を傷つけるとしても物凄く正しく、素晴らしい優れた批判的レビューができる……という能力がプラスに働くことは、まず無いといって差し支えないでしょう。

何が正論か、最高かというのは余裕があればこそ目指せる高みなわけで、ほとんどの人のほとんどの人生は、何かが下手だろうと言い分が支離滅裂だろうと、作った作品や商品、サービスとして提供する仕事ぶりがロクでもなかろうと、ただ身近な人たちとナァナァでグズグズでも仲良くできていさえすればどうにかなります。

一方、あえて高みを目指す人であれば、成長や向上のためには批判に目と耳を傾けて受け入れ、的を射た指摘があれば改善していくことが欠かせませんが、それすら「誰の、どんな批判を、耳が痛くても心が苦しんででも向き合って受け入れるか」は本人の選択。

よく、尊敬してもおらず好きでもない他人から何か耳が痛いことを言われて図星だとしても
「お前に言われたくない!」
と反発する心理は普遍的に誰の中にもありますよね。

また、どんなに的確で有益な批判ではあるにせよ、それを人が聞くのには多少以上のショックやそれに応じる覚悟が要る。そして受けたショックの余韻はすぐに消えてチャラになるわけではないことを知っている人なら、ネット上で突然、(しかも、もしかしたら自分は匿名で、文章の責任を追及されることなく安全なところから)他の人にも丸見えな場に、けちょんけちょんに悪く言う批判を書き込むという選択をするのか、という話でもあります。
本当に相手のことを思うなら、私信というか、その相手にだけわかるように、「批判的な内容になりますが、どうか気を悪くなさらずに」といった前置きをした上で伝える方法が他にいくらでもあるはずです。

さらに言うと、たとえば幼稚園児のお遊戯で、そりゃ本気で上手いなんて思うわけないだろうというパフォーマンスに対しても
「とっても上手だったよ!感動しちゃった!!素晴らしいものを見せてくれてありがとう」
と賛辞を送ることはできますし、よく見る光景でもあります。

これは言葉尻を捉えると、本心ではないお世辞という意味では不誠実ととることもできますが、もっと深い「本心」はこの場合、なんでしょうか。
それは、「その人が将来、より良く成長していくことを祈る気持ちの表明」なんです。
一生懸命に打ち込んで、今後もっと伸びていく可能性を垣間見せてくれたことや、今後はどうなるかわからないにせよ褒められる経験はその人の自尊心・自己肯定感といったものを育むことにつながる。
いわばそうした成功体験の積み重ねがやがてその人が本当にすごくなっていくことを促進すると願っての「応援する祈り」として、事実ではない褒め言葉を送っているんです。
これは、いつの時点のどの評価を事実ベースにするべきかという捉え方の問題になるのですが、「今この瞬間にどうしても事実をそのとおり、ありのままに述べることが絶対に必要である」という局面でもなければ、何か悪い部分があった作品やパフォーマンスに対して、「悪かったよ」とマイナス評価してしまうことは、長い目でみれば自分にとっても相手にとっても周囲の人間にとっても誰にとってもマイナスでしかありません。
(そして『どうしても今この瞬間に事実に100%基づいた評価をしなければならない』という局面は、基本的にはありません。あるとすれば、厳正な審査が求められる技能の審査員など、温情をかけることが確実に不正とみなされる場だけです。ネットで世界中に公開される、匿名でも書けるレビューではまずありえません)

そして、人はこまかい言葉の論理などすぐに忘れて、感情的な印象だけは何十年でも覚えているもの。しかも、ポジティブな褒め言葉は受け取らず、貶されたと感じるネガティブな言葉は過剰にネチネチ気に病んで恨む人の方が残念ながら現状の人類では多いことは言うまでもないでしょう。

つまり、あなたがもし、めちゃくちゃ正しい内容だったとしても、相手が傷つくような批判をする場合、何年〜何十年にも渡ってあなたは相手から
「自分の悪口を言った酷い奴」
として恨まれ、憎まれ、嫌われ続け、さらにそのことを周囲に吹聴されるのです。

べつにそれでもいいよ、望むところだ、と本人が思えていれば、べつにいいんですけど。

「レビューで低評価をつける人」として“みんな”から覚えられ、嫌われ者としてネガティブ印象のキャラ付け、キャラ立ちする人生でいいんですか?

見出しで言い切ってますね。

あくまで匿名で、自分が怒涛の低評価レビュワーであることが誰にもバレなきゃそれはそれで対社会的には問題ないかもしれませんが、バレたらどうしよう、と思うとしたら単純に精神衛生上、地味なストレスが慢性的に(なんなら一生!)、続きますよね。

そして、自分が自分のことを
「誰にもバレていないけれど、自分はほんとは、ネット上でひたすら低評価とアラ探しコメントをしまくる人なんだ」
と後ろめたく思っていると、その自分自身に対する後ろめたさや罪悪感が、自分自身の自己効力感や自尊心といったものを、まるで虫歯菌のように徐々に蝕んでいきます。

そして、「べつに悪びれているわけではない、匿名でもなく実名でちゃんとレビューしてるぜ」と前向きに、辛口レビュワーである自分のことを自信を持っていられるとすればいいんですけど。

今度は、そんなあなたを“みんな”はどう思うのか、って話です。

みんな、というと誰なのかぼやけますが、具体的に自分の人生に登場する人たちそれぞれ、といえばどうでしょう。

うまいことその方向で毒舌キャラとして人気を得たり、まさにそういう特性が人気の源泉という路線で活躍できれば問題はないと思います。
ただ、全員が全員、そういう路線でブレイクして売れっ子芸能人みたいになれるのか、というとどうなんでしょうね、という話で。
(なれる自信がある方でなりたいという人は頑張ってください♪)

ほとんどの場合、あなたと相対する人は
「あ、この人、なんでも悪く言う人だから、本音で接するの怖いな。どんなに的を射た批判であっても、正直されたくない。ましてや、ほかの人が見えるネットなどの場で悪く書かれたら、こっちの評判がダダ下がりで、たまったもんじゃないよ」
と保身を考え、無難な営業スマイルを浮かべて建前100%で接してくるようになるはずです。当然、心の扉もシャッターも完全密閉。
悪気がなかろうと真実だろうと、自分が傷つくようなことを言ったりしたりしてくる人に、率先して心を開いて本音をありのままに打ち明ける猛者は、まずいませんよ。
そうやって、誰からも情報も心の温かさも伝わってこない境遇が成立し、固定化・固着化していきます。そりゃそうですよね?

べつにそれでもいいよ、望むところだ、と本人が思えていれば、べつにいいんですけど。

類は友を呼び、何を見聞き体験しても鋭い毒舌で容赦無く批判する人ばかりが自分の周囲に現れてくる。そこで繰り広げられる交流はどんなものですか?自分の人生がそういうものばかりに彩られる心境はいかがですか?

ここまで、どちらかというと

・まず自分が自分を責めて、悪いところばかりを批判し、将来伸びるかもしれない良い点もボコボコにしてしまうのでツラみ

・批判した相手からは聞く耳を持ってもらえないのでせっかくの素晴らしい批判も台無しで馬耳東風スルーされてしかも恨まれ疎まれ憎まれ嫌われる

・みんなの間で怒涛の批判マンとしてキャラを確立した以上、基本的にみんなからは心を閉ざされ、なんなら見向きもされなくなるよ

といったネガティブなことを述べてきましたが、ここでポジティブかもしれないことを述べてみます。

人はみんな、なんだかんだ言って自分が大好きで、自分と共通点のある似た人に惹かれます。つまり、自分と同じ、重箱の隅をつついてどこまでも容赦なく猛毒で批判してばかり人が寄ってきます。
あるいは、「みんな」から相手にされなくなった除け者たちが仕方なく追いやられた先で一箇所に集う消極さで、要はコミュる羽目になります。

何を見聞き体験しても、アラ探ししかできず、そのかわりアラ探しは大得意な人たちの「なにげない雑談」。想像してみてください。
どんな重箱の隅にあるほんの小さなアラであっても決して逃すことなく見つけ、それを巨大かつ重大な欠点であるかのように悪くあげつらう猛毒な批判をどこまでも激しく容赦無くする人たち同士の会話……(白目)。

べつにそれでもいいよ、望むところだ、と本人が思えていれば、べつにいいんですけど。

いいんですよね?

だから、なんでもかんでも悪くレビューして☆1つをつけ続けるんですよね?

……ということを、とあるビジネスコンサルの人が言ってました。
とても勉強になったので、シェアしてみた次第です。
この記事をお読みになった方のお役に立てればなによりです♪
貴重なお時間と労力を割いてこの記事を最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます!!(with 選挙に出た人の演説時のあのスマイル)

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