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※この小説には、暴力表現、性的表現を含みます。

 夜の空気が好きだ。
 自分の寄り場所がまだ、昼の世界にあったころ、瑞香(みずか)にとって夜の街は、非日常の場所だった。初めて夜の空気を感じたとき。それは、彼女がまだ小学生の高学年だったころだが、何かが違うと直感的にそう思った。
 いつも、楽しく遊ぶお気に入りの公園。親切で優しい人があふれる商店街。車が通る大きな道路。それらのすべてが、つうんとそっぽを向いたように、自分に違う顔を見せていた。
 幼い彼女は、それが少し怖くて、不思議で、そして、どうしようもないほど引き付けられた。夜の街を知る自分は、他の子どもが知らない何かを知っているようで得意だったし、怖さを乗り越え一人で歩く自分は、まるで歴戦の勇者のような、厚かましい錯覚すら覚えた。
 今の彼女――高校一年生になった瑞香にとって、夜の街はすでに非日常ではない。自分にとっての、もう一つの日常の場所だ。帰路を歩き、明かりが見え、扉を開けてほっとするような、落ち着く場所。
 だから彼女は、恐れを抱かず、すいすいと夜の空気を肺いっぱいに詰め込みながら歩を進める。まるでスキップをしているかのように、ちょちょんとはねた足取りで。
 たまにすれ違う大人たちは、彼女を少し怪訝な顔で見やる。時刻はすでに夜の23時30分。女子高生が出歩いて良い時間ではない。けれど、良識のある大人たちは、眉をひそめるだけ。彼女をとがめるものは、今日は誰一人として現れなかった。
 瑞香の保護者もそう。仕事を理由に帰りは遅く、彼女と一緒に過ごす時間は、皆無といって良いかもしれない。今日も一人で、瑞香はオムライスとサラダを作って食べた。
「んーんーんー」
 鼻歌がこぼれる。夜の街を歩く。それはいつもと同じ。けれど、今日は少し特別だった。初めてなのだ。一昨日、この街に引っ越してきて、学校に行った。その日はさすがに新生活のどたばたに疲れてしまい、夜の散策は中止してしまった。
 今までの街なら、どこに誰がいるかすぐにわかった。瑞香と目が合えば、顔なじみはみな笑ってくれた。けれど、今日は探さなければならない。新しい登場人物。けれど、きっと今までと同じ容姿をしているだろう。校則上等とばかりに金に染めた髪や、露出狂と揶揄される短いスカート。男なら、咥えたばこにシルバーアクセサリー。典型的な型にはまっていなくても、とにかく同じ。学校の教師に全力で目をつけられるような生徒だ。
 彼らが集まる場所も、だいたいが同じ。人気の少ないコンビニの駐車場、繁華街、それから公園。今、瑞香が向かっているのも、昨日から目をつけていた大きな緑地公園だった。
 池が二つに、運動場がサッカーと野球場と陸上競技場で三つ。それからランニングコースやら原っぱやら博物館やら、市民に求められるであろう施設が複合して集まっている。
 目的地についた瑞香は足を止めた。首をあげ、案内板に目を凝らす。緑地公園の全貌をすっかり理解した後に、彼女は再び歩き始めた。
 早朝や夕方は、犬の散歩やランニングでにぎわうであろう公園だが、深夜に足を踏み入れた時間帯のため、人気は無い。草の影から何か飛び出してきはしないかと、たまに――ほんとうにたまに、瑞香は不安になった。
 だが、やがてその不安をかき消す、慣れ親しんだ声が聞こえた。粗雑で、荒々しい、夜の少年たちの声。
 喧嘩か。集団リンチか。はたまた、とびっきり迷惑なお祭り騒ぎか。
 声のするほうへと歩を進める。心は、かすかな高揚を覚え始める。起立する一本の木に身を隠し、瑞香はそっと、騒ぎの中心へと目を向けた。
 どうやら正解は、集団リンチであるようだ。一人の少年を中心に、きれいに五人が弧を描いている。弧を描く少年たちの中には、手に凶器を携えている凶暴な輩までいる。凹凸の激しい金属バットは、もし本来の目的で使われたのであれば、打った瞬間自分に跳ね返ってくるかもしれない有様だ。
「ふむ」
 瑞香は躊躇せず木の影から飛び出し、集団に向けて走り寄った。そして、一人の少年の前に立ち、「ストーォップ」と声を張り上げる。ご近所迷惑を考えて、声量には注意した。
 キッと顔を持ち上げ、五人の真ん中、中心核と思われる少年をにらみつける。灰色のニット帽をかぶったその少年は、突如現れた瑞香に目を見張った。しかし呆けていたのは数秒で、すぐに元の、凶悪そうな顔つきに戻り眉間に皺を寄せて言う。
「おい、誰だよこの小学生」
「わ、私は! 小学生じゃない! 高校生だ!」
 叫んだあと、ご近所迷惑を思い出し、さっと口をふさぐ。一方の灰色ニット帽は、何かを思案するように、瑞香の顔をじいと見つめていた。
 小学生、と彼が評した瑞香の身長は、百五十センチメートルジャストだ。体型は引き締まっているものの細く、いまどきの小学生のほうが、よほど良い体つきをしている。その矮躯の上に乗っているのが、ちょこんと小さな愛らしい童顔。大きな二重瞼の瞳は漆黒で、同じ色の髪の毛を、肩の位置で切りそろえている。極めつけが、前髪。はさみで横一直線に、ぱちんと切ったようなその髪が、瑞香の幼い印象を、おおいに後押ししてしまっている。これでは、小学生と間違えてくれと言っているようなものだ。
「お前……ひょっとして、今朝の転校生?」
 ニット帽が訪ねた。言われて、瑞香は瞬き、彼を見つめた。しかし、思い出せはしない。クラスにとって転校生は一人だが、転校生にとってクラスメイトは三十何人もいるのだ。結局、瑞香は多分と答えた。ニット帽は、顔をしかめた。
「とんあえず、あんた何しに割って入ったわけ? 小林の知り合い?」
「小林?」
 瑞香はちらりと後ろを振り返った。以外にもイケメンだった少年が、一度小さくうなずいた。
「いや、知らないけど」
「知らないんかよ。じゃあどけよ」
「え、なんで。この人が誰であろうと、私はここを退かないけど。だって正義の味方だし」
 瑞香以外の全員に、白けた空気が漂った。ニット帽は仲間の顔を順々に見回し、挙句の果てには囲みの対象であった少年にまで目を向けた。だが、望んでいる回答を見つけられるわけもなく、突如乱入してきた少女をどう処理すればよいのか、わからない。
 困り顔のニット帽に、瑞香は芝居がかった口調で、「さあて、とりあえず、リンチとかこういうのは良くないと思うので、皆さん解散しましょうそうしましょう」と、歌うように告げた。
「もういい、やっちまおうぜ」
 五人組の中の、誰かが言った。それを合図に、まず、金属バットを持った少年が駆け出した。威嚇のつもりなのだろう、瑞香の目前、けれど決して彼女には当たらない位置にバットを振り下ろした。幼き少女はこれで、尻尾を巻いて逃げだすだろう。そんな計算が少年の頭の中にあったことは間違いない。だが、彼の腹部に蹴りこまれた鉛のように重い一撃によって、その計算は崩れ落ちた。
「へっへーん」
 たった今標的を仕留めた左足。それを誇示するかのように、彼女は片足で立っていた。軸である右足が、まったくぶれていない。まっすぐな彼女の立ち姿勢は、強靭な体幹を否が応でも想像させた。
 倒れた少年が、まだ起き上がらない。もしかしたら、気を失っているのかも。残された四人の少年たちが顔を見合わせる。退却という選択肢はきっと、一度は頭に出たかもしれない。が、選ぶことはプライドが許さなかったのだろう。ニット帽が初めに力強く頷くと、全員がその頷きに返事をした。一斉に、思い思いに少女へと飛び掛かっていく。
 四人の高校生に襲われた矮躯の少女は、けれど、決して焦ることはなかった。表情には不敵な笑みを浮かべて、今にも口笛か何かを吹きそうな調子だ。その余裕は、決しておごり高ぶっていたわけではないらしい。
 まわりとタイミングを見計らないながら、順々に繰り出される高校生達の攻撃を、瑞香は避ける、避ける、避ける。まるで、すでに何十回もクリアしたアクションゲームを繰り返しているかのように。
「で、まだやる?」
 少年たちが肩で息をし始めたころを見計らい、瑞香は訪ねた。軽く傾げた愛らしい童顔には、汗の一粒も浮かんではいない。
「なんなんだ……このウナギ野郎」
「なんとでもいうがよい」
 ニット帽の口から、荒い息とともに吐き出された暴言に、瑞香は取りつく島もない。一仕事終わりとばかりに、大きく伸びをして体を左右に倒している。
「くっそ」
 ニット帽が駆け出した。真正面から、彼女にめがけて勢いよく拳を振りあげた。対する瑞香は――そこから一歩も動かなかった。反応できなかったわけではない。ただ、恐怖を感じなかったので動かなかったのだ。
「ぐ」
 喉の奥から生まれたような、耳障りな声。ニット帽は、彼女の鼻先三寸で、ぴたりと拳を止めていた。
「ふふ。案外やさしいね、オニーサン」
 瑞香は真っ赤な唇を、柔らかく持ち上げた。それは、純粋さの権化であるかのような、見るものの目を細めさせるような笑顔だった。
 ニット帽はわざとらしく、その場にいる全員に聞こえるように舌うちをした。そして自分の仲間を振り返り、帰るぞと小さく、けれどはっきりと命を下した。
 倒れた男を、二人がかりで担ぎ上げ、高校生達は去っていく。何度かニット帽以外の少年たちは、不満そうに、瑞香と一人の少年を、ちらちらと振り返りながら歩いた。
 彼らの後ろ姿が見えなくなるまで、瑞香はその背中を見送った。胸の内にはすとんと、満足が広がっていく。今日も自分は、善いことをした。
 その気持ちは、鮮やかな桃色の花が開く瞬間のような、瞼を閉じて今すぐ眠りにつきたい、穏やかで優しいものだった。
 そう、この感触だ。すっと全身から、肩の力が抜けていく。たった昨日、一日サボっただけなのに、彼女はこの感触を忘れていた。だからこそ、何度も何度も、繰り返さなければならないのだけれど。
「あ、そだ」
 唐突に、自分が救った少年のことを、瑞香は思い出し振り返った。だが、そこには、日が落ちきった暗闇の公園があるだけで、人影はどこにもない。きっと、今のうちにと逃げ出してしまったのだろう。瑞香は跳ねるような足取りで、夜の公園を後にした。

   *

「あんまり臭いこと言いたくねーんだけどよ、俺が言いたいのはつまり、自分の体を大事にしろってことだよ」
「はい……」
 警察署の生活安全課、その一番隅のデスク。向かい合って座る二人組。その片方が、篠宮速人(しのみやはやと)という青年だった。役職は、警部補。29歳という年齢を考えれば、順調すぎるほどキャリアを歩んでいる。
「女子高生リフレだか、お散歩デートだか知らないが、やってることは売春。この二文字に尽きるんだよ。言い方を変えれば良いってもんじゃないだろ。グリーンスムージーは青汁だし、ドライブラッシングは乾布摩擦だろうが。もっと自分がやっていることを、客観的に把握しろ」
「……はぁ」
 彼は生活安全課ではない。だが、連れてこられた被疑者の相手を名乗り上げて進んでやっている。今日からこの署に配属されたばかりだというのに、畑違いの仕事、しかも市民への説教を繰り広げる篠宮には、少なくない数のギャラリーがついている。その中の一人、中年の刑事が、「ドライブラッシングってなんだ?」と、隣に訪ねた。問われたほうも知らないようで、激しく左右に首を振った。
「で、だ。あんた、情けなくないのか。金で女を買うってことは、自分にはそれ以外の魅力がありませんって白状しているようなもんだぞ。あんたは女子高生どもを征服しているつもりかもしれんが、あいつらはあんたを馬鹿にしているんだぜ。売春は、するほうもされるほうも、何かを削ってると俺は思うんだな。わかるか、この意味」
「た、たぶん。……あの、もう勘弁してくださいよ、刑事さん」
 篠宮の前に座る三十代前半といった年齢の男が、眉をひそめた。売春する側を、まじめに説教する状況も相まって、ギャラリーが出来たのだ。
「いいや、勘弁できねえ」
 困り顔の男に、篠宮は断固とした口調で言う。
「なあ、俺はさ、あんたが悪いことをしたと思うんだ。それを心の底からわかってもらいたいし、そのために言葉を尽くすのを面倒だとは思わない。右から左に、垂れ流してしまってもかまわねーから、何か一言でも、あんたの一瞬を変える言葉が言いたいんだ」
 不意に、男の瞳に涙があふれた。ギャラリーがざわめく。男は震える唇で、意味不明の言葉を紡ぐ。どうして泣いているのか、自分でもわからないようだった。
 篠宮は何も言わずに、ズボンのポケットからティッシュペーパーを取り出した。駅前で配られていたパチンコ店のものだったが、洗濯機に入れてしまったらしくボロボロだった。そのまま、そっとポケットに戻した。
 涙を拭う最適な道具を手に入れ損ねた男は、スーツの袖で涙を拭い始めた。
「いや、なんか、ここまで真剣に怒られたの、久しぶりで」
 何も言わずに、篠宮は男の肩を二回叩いた。ギャラリーから、まばらな拍手の音が聞こえてきた。
「ま、がんばれよ」
 篠宮は立ち上がり、大きく伸びをする。彼が通る場所が、モーゼに裂かれた波のように人が避けていく。自分のデスクに腰を下ろし、篠宮は煙草に手を伸ばした。ピースライトだ。慣れた手つきで一本取り出し、机にあったマッチをこすって火をつけた。灰皿でマッチを消していると、「ずいぶん変わった自己紹介でしたね?」と背後で女の声がした。
「そちらこそ、変わった比喩だな」
「そうですか? 上手だと思ったんですけど」
 振り返る。立っている女に、見覚えはあった。ひょっとしたら、名前も聞いたのかもしれない。だが、思い出せはしなかった。
「えー……と」
「あ、凜子です。東凜子(あずまりんこ)」
 一瞬、懐かしい顔を思い出した。なぜだろう。速人はまじまじと、凜子を見つめた。女性にしては、背が高い。ヒールを除いても、165センチはありそうだ。体型は細く、顎先がしゅっとしている。しかし、大きな茶色の瞳と、パーマがかかった栗色の長い髪が、優しい印象を与えていた。美人というよりは、可愛い。いや、美人で可愛い。
「すまんな」
「いーえ! 篠宮速人さん?」
 皮肉気な笑みを浮かべて、篠宮のフルネームを彼女は口にした。ばつが悪い。篠宮は煙草を吸って、彼女から顔をそむけて吐いた。
「で、何の用?」
「とくになに、というわけではないのですが。同じ課なので、暇な時間にご挨拶をと。今日は書類整理が忙しく、こんな時間まで伺えなかったわけですが」
 凜子の目線を追うと、壁に時計がかかっていた。時刻は22時。
「ああ、もうこんな」
「ええ、もうこんな、です。ていうか、別に事件が起こったわけでもないのに、なんで残っているんですか? 別に、今日は帰っていいんですよ」
「いや……」
 篠宮は灰皿で煙草を潰した。そうだな、帰らなくちゃな、仕事があるわけではないのだから……。
「わかった、そろそろ帰るよ。じゃ、またな。東さん」
「凜子で良いですよ」
 また、懐かしい顔がでた。そうだ、名前だ。名前が似ているんだ。勝手に一人合点がいき、速人は告げた。
「悪いけど、名前で呼ぶのは苦手なんだ」その名前は、特に。
 凜子は気分を害した風でもなく、そうですかと笑顔で頷いた。
 適当な上司に帰宅を告げて、篠宮は、逃げるように署を後にした。外に出ると、さすがに肌寒い。肩にひっかけていたスーツの上着を着た。歩き出す。昔は歩き煙草でとやかく言われなかったのに、と、こんな日に篠宮はそればかりを思う。つまり、一人で家路に向かう、暗い夜の日には。
 煙草を吸わない人の理屈はよくわかる。けれど、吸う立場であると、彼らの理屈は息苦しい。署内もそのうちに禁煙になる日が訪れるかもしれない。ついでに、煙草は値上がりがしすぎる。税金がそのほとんどだと言うのに。そうだ。俺らは税金を大量に納めているのだから、ちょっとは暖かい目で見守ってはくれないか。
 この思考は、いつも大体、同じ部分をループする。しかも、誰もが考えるような単純な理論だ。退屈な思考でも、繰り返さなければならない。そうでなければ、別のことを考えてしまうからだ。
 家にはすぐについた。何の変哲もない三階建て2LDKのアパート。その一番上の階の、一番奥の部屋だ。勤務地から徒歩一五分圏内。それが、引っ越し先の一番の条件だった。事件の最中でも、すぐに帰宅して、荷物を取ることができる。そう考えていたが、何もない日にはかえってこの距離は近すぎる。もう、彼女は寝ているだろうか? どうか、寝ていてくれと篠宮は思った。
 鍵はかかっていた。金属光沢が光る真新しい鍵を取り出し、扉を開く。中は真っ暗だった。胸をなでおろす。起こさないように、静かに扉を閉めて、篠宮は歩き始めた。途中、彼女の部屋と決めた一室を、ちらりと目やる。閉じられた扉は、決して開けてはいけない呪いがかかっているかのように、篠宮には感じられた。さらに奥に進み、リビングの明かりをつける。
 申し訳なさそうに置かれたテレビとテーブルとイスだけの、簡素な部屋。物を置くのは好きじゃないという点は、篠宮と彼女は一致している。
 冷蔵庫を開け、昨日買ったビールを取り出す。引っ越し祝いだと六缶セットを購入したのが、まだ二つ余っていた。
 テレビをつける。よくわからない旅番組を、なんとなく眺めながらビールを飲む。冷凍の枝豆を温めて、つまみにしながら。
 そんなことを、もうどれくらい続けていたのだろう。玄関から、不意に物音がした。篠宮は振り返り、首をひねった。まさか、警察官である自分の家に、泥棒でも入ろうというのか。だが、物音はそれきり聞こえなくなった。気のせいだったかと、テレビに視線を戻す。
 アルコールの力だろうか、睡魔が急に彼を襲った。その波に彼は逆らわず、静かに瞳を閉じた。

   *

 瑞香は金属光沢の光る真新しい鍵を取り出し、アパートの扉をそっと開いた。時刻はすでにてっぺんを超え、一時になろうかという頃合いだ。家についた時間から、たっぷり一時間は扉の前に居たことになる。自分のタイミングの悪さを、瑞香は呪った。玄関で靴を脱ぎ、足音を立てないように廊下を進んでいく。足音を立てないこと。これは、自信がある特技の一つだ。無事に、最小限の音量で、自分の部屋へと辿りつくと、急いで服を脱ぎ部屋着へと着替えた。中学時代の長ジャージを七分のあたりで切ったものと、シミがついて外で着られなくなった長袖Tシャツだ。
 その恰好で、いかにもたった今起きました、とばかりに大あくびをしながら、瑞香はリビングへと足を踏み入れた。案の定、テーブルに突っ伏して、篠宮が寝息を立てている。眠そうな振りを、彼女はぴたりとやめた。
 そっと動き、テレビを消し、ビールの空き缶と枝豆を片付けた。それから自分の部屋に戻り、まだ出番のない毛布を持ち、彼の背中に静かにかぶせてやった。
 本当なら、寝室まで運べれば、それが一番良い。ただ、小柄な彼女に篠宮は大きすぎる。百八十センチ近い長身に加えて、体格も普通だからだ。
 次点は、彼の肩を揺さぶり、起こして寝室まで移動してもらうことだろう。だが、瑞香にはそれも出来なかった。会話は必要最低限。それでよい、と彼女は思っていた。
「お疲れ様です。ありがとう」
 小さくつぶやき、明かりを消した。歯を磨き、ベッドに横になる。早く、この生活にもなれなきゃな。そればかりを考えながら、いつの間にか眠りについてしまった。

   ・

 朝、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。午前七時。大きく伸びをして起き上がる。きっと、篠宮はもう出かけているだろう。リビングに移動すると、彼の姿はやはりなかった。毛布が綺麗に畳まれて隅に置いてあり、上にメモ書きが乗っていた。「助かった」そう書かれたメモを、瑞香は少し躊躇してからゴミ箱に捨てた。
 リビングの開けた場所に立ち、いつもの手順で7個のストレッチを行う。ゆっくりと三十秒ずつ数えて体を伸ばす。その後はもちろん筋トレだ。スクワットを300回に、腹筋を200回。それから腕立て伏せを片腕100回ずつ。
 額から流れた汗が、ぽたっと床に粒になって落ちた。きちんと、タオルで床を拭き、後始末を終える。自分の汗は、シャワーでさっと流した。
 納豆ごはんとレトルト味噌汁で朝食をとる。丁寧に歯を二回磨いてから、瑞香は制服に袖を通した。使い慣れたセーラー服だ。新しい学校の制服は、今度で良いからと、前の学校の制服をそのまま使っている。篠宮にお金を使わせるのが忍びないと思っての対応だが、新しい学校では男女ともにブレザーの制服のため、セーラーはとても目立ってしまった。
 結局、また彼に甘えることになるのだろう。瑞香は小さくため息をついた。
 仕方のないことだ。自分はまだ、幼い。アルバイトをしたいと考えたこともあったが、篠宮が許してくれない。必要なお金は心配するな。なんでも欲しいものを言ってくれ。そう言われると、瑞香はもう何も言い返せなかった。自分は、幸せなのだろう。たぶん。きっと。
「行ってきます」
 戸締りをしっかりと確認し、外に出た。秋晴れの良い天気だ。瑞香は引っ越しも共にした愛用の自転車にまたがり、風を切って進んだ。彼女が転入した公立高校は、それなりのスピードで二十分の距離だ。息ひとつ乱さず到着し、自転車置き場に突入した。
 自転車に鍵をかけていると、地面ににゅっと影が現れた。振り返ると、昨日の少年が立っていた。集団に囲まれていた、ちょっとイケメンな彼だ。
「あー……えっと、小林、くん? おはよう」
「おはよう。あの、昨日はどうも」
「いいよいいよ、気にしないで。ただ、あんまり人に言わないでね」
 瑞香は期待せずにそう告げて、再び自転車に鍵をかける作業に入った。もう四年も苦楽を共にした自転車なのだ。盗まれでもしたら、泣くに泣けない。「そんなぼろ自転車、誰にも盗まれないって」と、良く友人にからかわれたが。
「あの、君さ、隣のクラスの転校生……なんだよね? 名前、なんていうの」
 少年の言動に少し違和感を覚えつつ、瑞香は答えた。
「篠宮瑞香」
「ふーん……。瑞香ちゃん、か。瑞香って呼んでもよい?」
「……別にいいけど、あんたの名前は? 名前も知らないやつに、なれなれしく呼ばれる趣味はないんだけど」
「和樹だ」
 暗に、その態度むかつくんですけど、と伝えた瑞香に、和樹は笑顔で答えた。裏表がなさそうなその笑みは、瑞香の不機嫌に気が付かない鈍感さの証なのかもしれない。
 鈍感。瑞香は、自分が感じた違和感の正体は、それかもしれないと思った。彼の言動はなんとなく、集団でリンチを受けるような、そんな人物には思えない尊大さがある。
 ああ、違うかも。瑞香はひらめいた。なんとなく自分勝手に、弱いものが苛められていると思っていた。だから、囲まれている少年は、卑屈で後ろ向きで暗い性格なのだろう、と。
 だが、もっと別のトラブルだったのかもしれない。和樹が灰色ニットの彼女を奪ったとか、色恋沙汰のはらんだメンドクサイやつ。
 瑞香はまじまじと、小林和樹を観察する。身長は、瑞香より高く、篠宮よりは低い。百七十五センチ前後といったところだろうか。体格はふつうで、顔は鼻筋が通っており、黒の髪は適度な長さで整っている。さわやかなイケメン、といった雰囲気だ。ブレザー制服の着こなしもきちんとしており、第一ボタンだけ開けられたワイシャツに、丁寧に結ばれたネクタイがかかっている。その上には、ユニクロかどこかで買ったのだろうか、ノースリーブの紺色ニットを着込んでいる。
「で、和樹は何しに来たの」
 言葉に棘を含ませて、瑞香は訪ねる。基本的に、彼女は礼節が好きだ。だからこそ、礼節をわきまえないやつには同じ対応を心がけるようにしている。
「うん? ただ御礼を言いに来ただけ、とは考えないの?」
「あんまり、そうは思えないから」
 瑞香がそう考えたのには、根拠があった。絵にかいたような優等生の容姿をした小林和樹だが、どうしても拭えない違和感が、さきほどからちりちりと彼女を焦がしている。
 そういったときは大抵、何かがあるのだ。そう、根拠は、彼女の直感だった。
「へえ!」
 彼女の答えに、和樹は感心したようだった。切れ長の瞳を丸くして、大きく見開いている。
「よくわかるね。実は、用があるんだよ。君を見込んで頼んでみたいことがあるんだ。簡単に引き受けては――」
「引き受けたわ」
「え」
「ふ、……ふふ」
 狐につままれたような顔。その表情に、瑞香は思わず噴き出した。小林和樹は、狐に似ている。
「引き受けて、くれるの? 話も聞かずに?」
「ん。まあ、どういう形になるかは分からないけど、最終的に和樹のためになるように、私は行動するよ。君の臨んだ様には、ならないかもしれないけどね」
 和樹は心底不思議そうな顔で、瑞香を覗き込んだ。瑞香にとっては、不思議でもなんでもない、いつものことだった。頼まれた事は、引き受ける。引き受けたからには、やり遂げる。それが、自分のルールだからだ。正義の味方としての、自分ルール。
「で、何を相談したいわけ?」
「実は、この学校には、ある謎の組織があるようなんだ」
「ほう」
 眉間に皺をよせ、真剣な顔をしながら、瑞香は神妙に頷いた。心の中では、あいったたたたーっと、和樹を馬鹿にした困り顔を浮かべながら。
 上手に隠したつもりだったが、和樹には通用しなかったらしい、眉をしかめ、「あのな、いっとくけど、冗談とか中二病じゃないからな」と続けた。
「へー。ほー」
「まだ信じてないだろ。間抜け面はやめてくれ」
「まっ、まぬっ」
「ほんとに噂の段階なんだけど、僕らの学校、売春組織があるみたいなんだ」
 え、と喉から声を出したつもりだったが、言葉にならなかった。きっと、自分の今はさらに間抜け面だと、瑞香の一部が考える。大部分は、たった今和樹からもたらされた情報によって、激しい混乱の渦が巻き起こっていた。
 売春。ただ二文字だけで、さっきまで非現実だと考えていた謎の組織が、すっかり形を得たようだった。生々しくて、気持ちの悪い。体中をぬっとりとした血液で覆われたような気分。口元を抑えてから、自分が吐き気を感じていることを自覚した。体が震えだす。
「ほんとに……そんな噂が?」
「噂だけど、火のないところに煙は立たない」
 自分の体内から、地の底から響くような轟音が聞こえる。この場所に転校してきた意味。昨夜、和樹を助け、今日、この話を聞いた理由。瑞香は確かな運命を感じていた。この問題を、自分は絶対に解決しなければならない。かかわった全てに、納得のいく決着をつけさせなければならない。
 少女の売春を、許してはいけない。
「……わかった。引き受けたわ」
 和樹が息をのむ様子が伝わる。とっさに、顔を伏せた。瑞香は自転車の鍵をもう一度確かめる。顔が固くなっているのがわかる。意識して笑顔を作ってから、カバンを肩にかけた。そして、携帯電話を取り出し、和樹に向けた。
「とりあえず、依頼人として、アドレス交換をしてくれる?」
「もちろん」
 和樹はスマートフォンだった。ガラパゴス携帯の瑞香は、電話番号を聞きワンギリし、そのあとショートメールでアドレスを交換し合った。
 瑞香は和樹と別れ、教室へ向かった。それなりに早く学校に来ているので、遅刻する心配はない。朝のHRまであと十分。入室時、昨日のニット帽の姿を探したが、どこにもいない。まだ来ていないのかもしれない。
 自分の席についてすぐに、瑞香の隣の席の少女が、おはようと声をかけてくれた。瑞香も返す。少女の周りに集まっていた、彼女の友達も笑顔で挨拶をしてくれた。
「あ、ねえねえ、瑞香ちゃん。瑞香ちゃんは昨日のドラマ見た? ちせらちゃんが出てるやつ」
 少女は笑顔で瑞香に顔を向け、最近人気の女子高生アイドルの名前を口にした。
 瑞香は思い出す。この子の名前は、前原百々(まえはらもも)。可愛らしい赤い縁のメガネに、怒られない程度の茶髪を、ひし形のボブにしている少女。昨日も自分に話しかけてくれた。きっと、まわりに気を使える優しい子なのだろう。もしよければ、自分のグループへどうぞ、と、手を差し伸べている様な気がする。瑞香はありがたく、その手を握り返す気でいた。
「あの、手芸屋さんが舞台の恋愛ドラマでしょ? 私、用事があって見逃しちゃったんだよね~。よかったら、あらすじ教えてくれる?」
 瑞香の言葉に、百々を初めとする三人の少女が、次々とドラマの内容を話し始めた。あまり順序だてておらず、瑞香は話の内容を上手に理解することはできなかったが、少女たちがどんな部分にときめきを感じ、どの俳優を好いているのか、ということだけはわかった。
 予鈴が鳴る。自分の席の百々以外の少女が、手を振って帰っていく。瑞香もカバンを机の横にかけ、少し気が早いと感じつつも、一限目の教科書を取り出した。転校初日に、学校で用意してくれていたものだ。
「ねえ、瑞香ちゃんは趣味って何?」
 百々がいたずらっ子のような笑みを浮かべて話しかけてきた。メガネの奥の真ん丸の瞳が、きらきらと光っている。人好きなんだろうな、瑞香は自然と笑顔がこぼれた。
「趣味かぁ……」
 正義の味方、夜の散歩、筋トレどれも不正解な気がする。
「しいていうなら、料理かな」
「え! すごい!」
 なぜか感心されてしまった。引っ越してくる前は、速人と速人の両親と暮らしていたが、迷惑をかけまいと、進んで色々な手伝いをしていた。その中で、料理が楽しく、好きになってしまったのだが。
「わたし、料理はぜんっぜんダメなんだ~。カレーさえも焦がしてダメにしちゃったり。今度、何か教えてよ」
「いいよ」
 瑞香は適当に返事をした。百々も本気ではないだろう。そう思ったのに、「やった」と小さくつぶやいた彼女が、予想外に嬉しそうで、戸惑う。瑞香はあわてて、自分の表情をオフにした。
「何を習おうかな。お菓子とかも作れるの?」
 頷く瑞香に、百々が歓声を上げる。上手にできたら、プレゼントをしたいなあとつぶやく。そのまま瑞香に顔を向け、「瑞香ちゃんはあこがれの人とか、好きな人とか、彼氏とかいる?」 と尋ねてくる。嬉々とした表情だ。水を得た魚という表現が、まさしくぴたりとあてはまる。
 瑞香が「いないよ~」と答えようと、「い」の口を作ったタイミングで、教室の扉が開き先生が入室した。百々が残念そうに「またあとでね!」と小さく言ってよこした。
 担任教師が、最近の生徒の素行について、つまらない話をつらつら述べている。瑞香はしっかり耳を澄ましながら、頭では器用に別のことを考えていた。
 瑞香は、人を好きになったことがない。
 まわりの友人の話を考えるに、それはどうやら特殊なことであるらしい。高校一年生の今の今まで、初恋を知らないというのは。
 話を聞くと、たいてい、小学生の高学年あたりで初恋をし、早ければ幼稚園で初恋をし、中学生になればほとんどすべての人が恋を知る。
 瑞香は違った。誰かを好ましいと思うことはもちろんある。かっこいいなと感じることだってある。つい最近も、小林和樹をイケメンだ、と思ったばかりだ。だが、そういった気持ちと恋は、やはり別物だろうという事くらい、彼女は知っている。
「じゃ、みんな気を付けて」
 担任の話が終わった。あまり素行のよろしくない生徒が、夜のゲームセンターにたまっているという情報を得た。
 百々がまた話しかけてきた。さっきの続きだ。いないよ、と改めて返事をした。
「えー! いないの? ……って、まだこの学校に来たばかりだもんね! 気になる人が出来たら、絶対、ぜーったい教えてよ?」
 どうしてこの少女は、初対面の私にこうもなれなれしく出来るのだろう。瑞香はありがたくも疑問に感じつつ、約束をした。破ることはないだろうと思われた。きっと、この学校でも、好きな人は出来ないだろうから。

   *

「篠宮さーん」
 凜子が篠宮の顔を認めるや、子リスのように素早く近寄ってきた。思い切り顔をしかめて見せる。けれど、凜子は意に介した様子はなく、ニコニコと笑顔を浮かべている。
「あらら、なんだかお疲れですね?」
「……まあな」
 昨夜、酒を飲んでそのまま机に突っ伏してしまった。そのせいで、体中のあちこちが痛い。ストレッチをしてある程度は楽にしたが、結局は付け焼刃だ。
「奥さんと喧嘩でもしました?」
「未婚者だ」
「わあ! 情報ゲットです」
 笑顔をさらに花開かせて、凜子が言う。篠宮は呆れてしまった。言葉だけを聞いていれば、凜子は自分に惚れた積極的な女のように見える。けれど、違う。確実に凜子は、自分をからかっているのだ。笑顔の奥底に、底意地悪そうな悪意が見える。新手の新人いびりだろうか。
「東さん、あんまりふざけないでください」
 わざと丁寧に怒りをぶつけると、凜子はちらりと舌をだし、微笑んだ。
「へへへ。あ、でも、ちょっと篠宮さんに興味あるんですよ? どなたかと一緒に暮らしていますか?」
「え?」
「だって、篠宮さんって見るからにガサツそうなのに、ワイシャツにきちんとアイロン入ってるじゃないですか」
 ぴんっと人差し指を立てて、篠宮のワイシャツを指さす。何の変哲もない白のワイシャツは、彼女が指摘する通り、確かに皺ひとつ入っていなかった。だからといって新品には見えず、何か月も愛用していることも見て取れる。
「……俺が自分でやってるってことは?」
「まったく全然究極に思いません。で、誰と暮らしてるんですか?」
 言葉に詰まる。妹、とあっさり口にできれば楽だ。それはずっと前からわかっている。けれど、瑞香との関係を、その一言に集約していいのだろうか? 兄妹というほどの絆が、果たして自分たちにきちんと、芽生えていると言えるのだろうか。
「……関係ねえだろ」
 結局、篠宮は沈黙した。瑞香は、よく出来た子だ。毎日真面目に学校に通い、優秀な成績をあげ、家事もこなしてくれる。隠居する両親が田舎に行きたがったことと、篠宮が都会に転勤になったこととをきっかけに、二人暮らしが始まったが、今のところ全ての家事を彼女がこなしている。それどころか、事務手続きや、各種公共料金や、金銭の管理まで、すべて任してくれと立候補し、宣言通りに行っている。
 篠宮がやることといえば、仕事だ。だからこそ、お金を稼ぐことだけは、自分がしっかりしなくては。彼にとってはそれが、瑞香にアルバイトを許さない理由だった。
「ふーん」
 凜子は微笑むと、あっさり自分の席に帰った。あいつはいったい何がしたいのだろう。自分の席に着き、篠宮は身辺を整理し始めた。
 現在、この署の管轄で起きている問題や、未確認の通報、一緒に働く人間の名前、感触、過去に取り扱った事件など、各種書類を読み込んでいく。
 途中で肩をたたかれて、今日はお前の歓迎会だ、と上司に言われた。篠宮はうれしくなった。歓迎会が開催されることではなく、家に帰る時間が遅くなることが嬉しい、という最低の理由だった。
 瑞香にメールを打ちながら、どうしてこうなってしまったのだろう、と篠宮は考える。彼女が初めて我が家にやってきたとき、篠宮は十九歳、瑞香は六歳だった。あれから、十年の月日がたっている。
 最初は、大切にしようと思ったはずだ。瑞香が何不自由なく、幸せに暮らしていけるように、自分には見守る義務がある、と。だが、いつからだろう。遠慮ばかりする瑞香と、親しくなることは出来なかった? いや、それとも……。
「難しい顔して、どうしたんですか?」
 凜子が声をかけてきた。心配そうな表情をすると、ますます鈴(りん)に似ているな、と思った。だが、鈴は凜子のように意地悪ではない。彼女は、神様を信じていた。敬虔なクリスチャンだったのだ。いつも首からは、母からもらったというロザリオを下げていた。日曜には教会に通い、なんでもない日でもあなたの為に祈るわと、優しく微笑んでくれた。
「なんでもねえよ」
 そっけなく答えた。
 その時、突然大きな音を立てて、扉が開いた。入室したのは、同じ課の、篠宮の上司だった。寂しさが目立つ前頭部が、汗でてりてりと光っている。口から泡が噴出しそうな勢いで、彼は告げた。
「おい、みんな出るぞ。事件だ!」
「事件?」
「ああ。殺しだ。四丁目の川原で死体が上がった。今のところ身元は不明。性別は男。推定年齢は30~60代だそうだ。行くぞ」
 篠宮は頷くと、手荷物を確認し、上司の後に続いた。

   *

「瑞香ちゃーん、お昼いっしょに食べよ?」
「うん!」
 百々に誘われ、瑞香は彼女たちのグループに合流した。机を移動し、四つぴたりと重ね合わせ、四角形を作る。瑞香は弁当箱を取り出した。百々も他の少女も、みな弁当だ。百々と瑞香は同じくらい、中くらいのサイズで、のっぽな少女は小さな弁当。ぽっちゃりした少女は、大きな弁当だった。
「うっわ、瑞香ちゃんのお弁当美味しそう~。お母さん料理上手だね?」
 言葉に詰まる。母親はいない。弁当を作ったのは、瑞香自身だ。一段の弁当で、ごはんを詰めたその上に、卵そぼろと照り焼きチキンを乗せている。見栄えを良くするために、ななめのラインを意識して、それぞれ白、黄、茶と色が出るように仕掛けている。ごはんの横はおかずのコーナーで、プチトマトを串にさしたものや、菜の花の胡麻和えなどを入れている。全体的に彩あざやかで、見た目にも食欲をそそる代物だ。
「あ~……えっと、自分で作ったんだ」
 結局、瑞香は正直に答えることにした。先ほど料理が上手という話をしたし、後々白状するより良いだろうと思ったのだ。え~、すごーいと、三人の少女が打ち合わせをしたかのように声を合わせた。
 瑞香は少し照れつつ、三人の少女を順に見つめる。ふと、和樹の依頼を思い出した。この中にも、もしかしたら……そんな思いがよぎる。百々は見た目が派手だがよい子だし、のっぽもぽっちゃりも落ち着いていて、売春をしていそうな雰囲気はない。ただ、そんなもので判断出来るわけではないということぐらい、瑞香は分かっている。
 夜の街を歩くと、以外な人物と顔を合わせることも多くあった。教室の隅で本を読んでいるような生徒が、驚くほど変身した姿で歓楽街を歩くことだってある。
 瑞香は少し、探りを入れてみることにした。
「料理が楽しいのもあるんだけど、お金がもったいなくてね。お弁当持っていくと、タダだし。欲しいものたくさんあるんだけど、おこづかいも少ないんだ」
「あー! わかるわかるー。ホント、足りないよねー。服も靴もバックも化粧品も雑誌も、みんな欲しいー。あとディズニーいきたーい」
 お金がない、何が欲しい、あれを買った、そんな話が始まった。真正面から売春の話題をふれる訳もない。瑞香はからめ手で、売春の結果として得られるお金にまつわる話を聞き出すことにしたのだ。百々はお金がない。のっぽは家が裕福。ぽっちゃりはアルバイトをしている、など、細々した情報を入手した。役に立つのかは分からないが、地道な一歩が大事なのだ。
 お昼ご飯を食べ終わった後も、おしゃべりは続いた。何かほかに情報を引き出す方法はないか、と考えていると、不意に肩を叩かれた。振り返ると見知らぬ、多分同じクラスなのだろう男子生徒が立っていて、「呼んでるよ」と教室の扉を指しながら言った。その方向に視線を移すと、小林和樹が立っていた。瑞香と目が合うと、ひらひらと手を振って手招きをした。
「え」
 百々が小さく声を漏らす。視線を戻すと、驚いているのだろう、百々の瞳は真ん丸だった。多分、転校したての自分を訪ねてくる『男子生徒』に興味と関心を抱いてもいるのだろう。瑞香は少し迷ってから、「ごめんね、ちょっと行ってくる」と声をかけた。
 立ち上がり、そばに行くと、和樹は歩き始めた。瑞香は眉間に皺を寄せつつも、彼の後ろをついていくことにした。
「いきなりやってきて、挨拶もなしに歩くわけ?」
「まあね。面倒だから」
 何が面倒かを、彼女は聞かなかった。その先を話すのも面倒なんだという雰囲気を、和樹の背中に感じたからだった。背中をぼんやりと眺めながら、瑞香は筋肉を想像する。きっと和樹は、パッと見の外見以上に筋肉がついているはずだ。スクワットでもしているのか、特に臀部とその下に良い筋肉がついている気がする、とそこまで考えて、勢いよくかぶりを振った。
 何考えているんだ自分、と冷静な突っ込みが入る。時々、人の体つきを想像してしまうのは、彼女自身も変態じみているな、と感じる悪癖だった。
「ここ、入ろう」
 和樹が示したのは、廊下の突き当たりにある自習室だった。にこりと笑い、「うちの学校、各階に各学年の自習室があるんだけど、一年生はほとんど使わないんだよね」と説明された。
 扉を開いた和樹に続くと、確かに室内はがらんどうだった。向かい合ってすぐに、瑞香は口を開いた。
「で、要件はなに?」
「うん。君さ、売春に何かトラウマでもあるの?」
 瞳がすべて、黒くなったような錯覚を覚える。予想外の指摘。的外れの指摘。なのに、確実に瑞香の一部は悲鳴を上げていた。
 拳を固く握る。動揺を悟られまいとした強がりは、けれど、和樹の視線をしっかりと受け止めてしまっている。
「……なんかさ、ちょっと、軽い気持ちだったなって、引き受けるって言った君を見たとき、思ったんだ」
 すまなそうに語尾を下げながら、和樹が告げる。
 自分の動揺は、そんなにもあからさまなものだったのか。感情を抑えたつもりだったのに、溢れ出してしまうほどに。もう、何年も昔のはずなのに。
「ちょっと正義の味方ぶってる変な子を、味方につけてやろうって。……一人でやるのは、怖かったから、多分、少しでも道連れが欲しかったんだ。君を傷つけるつもりはなかった。すまない」
「……私は、傷ついてなんかいない」
 吐き出した言葉がひび割れている。
 体が震える。あの日の記憶が戻ってくる。
 瑞香が抱えるものは、売春ではない。けれど、売春をする少女たちは、自分と鏡写しだと思う。どんなに手を伸ばしても、得られないもの。それを簡単に手放している少女たちが、近くにいる。そう思うと、瑞香はやるせなくて、たまらなく悔しかったのだ。
 やめて、と、心の底から叫んだのだと思う。覆いかぶさる男の悪夢を、瑞香は何度も夢に見る。女の服を乱暴に剥ぎ取る男の姿。女はいつも夢の中で抵抗する。けれど、その抵抗が実を結んだことは一度たりともない。夢の終わりにはいつも、あきらめ、男を受け入れる女がいる。
「僕は」
 和樹の声がかろうじて聞こえる。
「僕は、妹を守りたいんだ。だから、昨日、あの騒ぎに巻き込まれた」
「妹……」
 顔を上げる。瑞香の脳裏にはなぜか、篠宮の顔が浮かんできた。
「僕の妹が、いるんだ。その売春組織に」
 息をのんだ。和樹の瞳を覗き込む。暗く深い井戸の底のような、どんよりとした重たい目。
「妹を、救いたいんだ。もし君さえよければ、ほんの少し一緒に捜査をしてくれないか。怖いんだ」
 和樹が震えだした。何を恐れているのか、わからない。ただ、自分を頼りにしてくれるのだ。汚れている私を。許されない私を。
「そんなの」
 ちょっと嬉しく思う自分を、強がって、瑞香はなんでもないことのように言った。
「最初っから言っているじゃん。引き受けたわって」

   *

「うん、これは死んでるな」
「何当たり前のこと言ってるんですか」
「それと全裸だ」
「何当たり前のこと言ってるんですか」
 ブルーシートをめくりあげ、したり顔で言い切った速人に、凜子が冷静な突っ込みを入れた。恥じらいもなく答える様子は、刑事らしさを感じさせる。外見だけで言えば間違いなく、悲鳴の一つも上げて失神しそうな容姿だが、彼女は強い。
 速人はくまなく死体を一瞥し、シートを元に戻す。その手には、現場保存のための白い手袋がはめられている。もちろん、凜子もだ。
「おい、あの死体、何を握っているんだ」
 速人は手短にいた鑑識に声をかけた。立ち上がり敬礼すると、「はっ。クマのぬいぐるみです」とハキハキ答えた。
「クマのぬいぐるみぃ?」
 全裸で川原で中年ではげ散らかしかかった男で、その手にクマのぬいぐるみ。なんとアンバランスな組み合わせだろう。
 速人は改めてブルーシートをめくりあげ、もう一度右手を確認した。言われてみれば、飛び出した部分は、クマの耳のようにも見えるし、ちらりと伸びた赤いリボンも、クマの装飾品のようだ。
「ふーむ」
「まだ断定できませんが、どうやら既製品ではなく、手作りのものです」
「手作り?」
「はい。……娘さんからのプレゼント、とかだったら悲しいですね」
 鑑識の勝手な憶測を無視し、速人は現場を回ることにした。
 河川敷は、地面が小石の集まりなので、歩きにくい。周囲を大きく囲むように立ち入り禁止の黄色いテープが張られたが、死体以外に目立った異変や遺物は見当たらない。
 犯行現場はこの場所ではなく、もしかしたら運び込まれたものかもしれない。
 速人は視線を河に移した。引っ越してきたばかりなので、この河を見るのは初めてだった。幅は四、五メートルほどだろうか? なかなか大きな川だ。水はほどほどに濁っているが、汚いと騒ぐほどではない。釣りの時期には、竿を持った地域住民が、ぽつぽつ見られるかもしれない。
「速人さーん! 死体の身元がわかりましたよー」
 凜子が手帳を片手に駆け寄ってきた。速人も内ポケットから手帳とペンを取り出した。
「害者の名前は、大崎純一郎。職業は大手文房具会社の重役ですね」
 凜子が告げたのは、確かにテレビのCMでもおなじみの会社だった。
「ご遺体の詳しい状況は、鑑識結果を待ちましょう。さあ、仕事に行きますよ」
 手帳を閉じ、凜子が嫌な笑顔で言った。速人が首をひねると、彼女は笑い皺をますます深くする。
「えへへ。さっき早めに聞いちゃったんです。この事件、私と速人さんがペアですよ」
 刑事の行動は、基本的に一人二組だ。
 速人は顔をしかめ、今度の捜査は前途多難そうだと思い、ため息をついた。

   *

 もうすぐ今日一日の授業が終了、というタイミングで、携帯電話がなってしまった。休み時間にいじって、電源を切るのを忘れてしまったのだ。
 幸いメールの着信だったらしく、コールは一回で、まわりの生徒が気づいたのみだったようだ。何事もなく黒板に数学を書いていく先生の背中に、瑞香は心底安堵した。
 休み時間に入り確認すると、差出人は和樹だった。夜の七時に待ち合わせをして、一緒に繁華街を見回りしようと書かれている。OKの返事を書き、瑞香は送信し電源を切った。和樹はこっそり、授業中にメールを打っているのだなと、瑞香は思った。
 帰りのHRが始まり、すぐに終わった。立ち上がり帰宅しようとカバンを担いでいる最中に、百々が近づいてきた。
「瑞香ちゃん、途中まで一緒に帰らない? 今日、あいつら用事なんだー」
「うん、もちろん」
「よっし、じゃあ行こう」
 学校の外にでると、少し肌寒かった。室内との温度差だ。自然と、二人の足取りは早くなった。会話はまだない。
 瑞香は会話の糸口を求めて、百々の容姿、アクセサリー、カバンなどを順に見回して、一つ、変わったものに気が付いた。
「それ、手作り? かわいいね」
 クマのぬいぐるみだった。ぬいぐるみと一緒に、いびつな形のリボンが付いたキーホルダーだ。百々はそれを、カバンの持ち手の部分につけて、ぶらぶらと揺らしながら歩いている。
「あ。気づいた? そうなんだー」
「すごいね! 上手だ」
「みんなで手作りしたんだよねー。だから、世界中で持っているのは、わたし達三人だけかなっ……なんちゃって。可愛いリボン探して綺麗に結んで、クマを縫って、金具でくっ付けてさ。クマのぬいぐるみ、作るの難しかったなあ」
 懐かしい気持ちが芽生えてきたのか、百々の顔が優しく歪み、遠くを見つめる目つきになった。つられて瑞香もぼんやりしていると、途中で百々があわてて、「あ、そのうち瑞香ちゃんにも作ってあげるね。つけてくれる?」と付け足した。疎外している気分になり、フォローを入れたくなったのだろう。瑞香はまるで気にしていなかったが、「ありがとう」と答えた。
「もっと仲良くなったら、あげるね」
 百々は唇の両端を上げて、微笑んだ。
 その笑顔を見ながら、なんだか滑空だな、と瑞香は思う。そんなに、無理をしなくて良いのに。今まで仲良しのグループがあって、気まぐれに私を誘ってくれた。優しい子だと思う。けれど、だからと言って、その仲良しと同じ位にまで、私を上げようとしなくて良い。
 適度な距離感で仲良くしてくれればそれでいいのだ。二人組を作ってと言われたとき、私と一人組んでくれるような。三人組を作ってと言われたとき、迷わず私を切り捨てるような。
 百々が話題を変え、街にあるおいしいパン屋さんやカフェの話をしてくれた。速人が稼いでくれるお金を大切にしたいから、瑞香は基本的に買い食いを良しとしない。お昼の時間にお小遣いが少ないと文句を言ったが、そんなことは微塵も思ってはいない。
 上の空で話を聞きながら、瑞香は和樹のメールを思った。夜の街を出歩いても怪しまれないように、少し大人っぽくしてくるようにと書かれていた。
 どの服を着ていこう。どうやって身なりを整えよう。
 瑞香と百々はしばらくして、お互いの家に帰るために、二手に分かれた。

   *

 署に戻り、各連絡事項を聞いた。凜子からの話通り、今回のペアは彼女とだった。
 速人は女が苦手だ。わがままで、意地汚く、仲間通しですら蹴落としあい、……そして、脆く繊細で崩れやすい。
 扱い方が分からないから、今まで上手に誰かと付き合えたためしがない。高校時代、大学時代と、それなりにモテたため彼女はいたが、結局は傷つけあって終わってしまった。
 思い返しても、無駄な時間だったという印象しかなく、この感想には自分の人間性を疑わざるを得ない。
 作り物の中の世界では、男女の恋愛というやつは、もっと無駄にきらきらとしていたはずだ。尊いもので、お互いに幸せを感じる、意味のある貴重なものだったはずだ。
 もちろん、そんなものは刷り込みだって分かっている。自分がそれに従わなければならない決まりはないし、他の人間にしたところでそれほど単純なものではないだろう。
『速人くん』
 鈴。鈴には、彼氏がいたのだろうか。あの、純潔の塊のようなウブさには、そんな気配を微塵も感じなかった。
 考え事をしながらでも、速人の耳はきちんと捜査会議の内容をとらえている。遺体の個人情報、性交渉のあと、死因は首がしまったことによる脳溢血。
「篠宮、凜子ペアには、害者の財布から出てきた店の名刺を当たってもらいたい」
 速人は意識を、捜査会議に集中させた。今までも、もちろん聞いていたが、自分と関わりのある部分は、特に集中するようにしている。
 件の名刺が、証拠品袋に入った状態で回ってきた。繁華街にあるような、スナックか何かの名刺のようだ。『あやより あいをこめて。はーと』と下手くそな手書き文字が細い紫色のマジックで書かれており、記号としてのハートも描かれている。
 別のペアの指示に映った。速人はちらりと凜子を窺った。彼女は手帳を広げ、一文字一句聞き漏らさんかというような形相をしてペンを持っていた。まるで、受験前の高校生のようだなと、速人は思った。

   *

 夜の七時。瑞香と和樹は、繁華街の入り口を目印に集合した。初めて見るアーチ状の看板には、この街の名前と『~通り』を組み合わせた、平凡極まりない文字列が並んでいる。
 最初に集合場所についたのは瑞香だった。篠宮からは、『事件が起こった。これから連日遅くなる』とメッセージが携帯に届いていた。そのため、家事もほとんど後回しにし、身支度だけを整えて、急いでこの場所にやってきたのだ。
 たどり着き腕時計を確認すると、約束の十五分前だった。彼女は息を整え、あまり人気のなさそうな店の前に立った。自分の姿がうっすらと窓ガラスに映っている。ふんわりと広がった花柄のワンピース。速人の母が、瑞香の十四歳の誕生日プレゼントにと、買ってくれたものだ。腰の位置が実際より高く見えるデザインと、涼しげな青色が気に入っている。
 瑞香は、あまり物を欲しがらない子だから、誕生日は奮発しちゃった。
 少し照れた表情で、速人の母はそう言っていた。瑞香はとても嬉しかった。相変わらずの申し訳なさは、確かに存在していたが。
 できるだけ大人っぽい服装を。
 約束を取り付けた昼休み後のメールで、和樹はそう言っていた。繁華街でそれらしき生徒を探すにあたって、こちらが補導されては本末転倒だ、というのが和樹の言い分だった。
 じいっと、穴が開くほど目を凝らしてみる。お気に入りのワンピースに身を包んだ私。実際よりも長く見える足。けれど、どんなに頑張っても、絶望的なまでに十八歳には手が届きそうにない。瑞香は自分の低身長を、今まで以上に呪った。しかしどうすることも出来ないので、あきらめてその場所を離れ、看板の下で和樹を待つことにした。
「やあ、待った?」
 待ち人がひょうひょうと現れたのは、それからたっぷり三十分経ってのことだった。
 瑞香は時計を確認する。わざとらしくだ。時間なんて、数分前にも確認しているし、わかっている。
 それでも和樹はすまなそうな調子一つ見せずに、平然と近づいてくる。向かい合って、瑞香は口を開いた。
「遅い、十五分の遅刻だし、私は三十分待っている」
「なに、その服。子供っぽいよ」
 二人はほとんど同時に言い放った。沸点が低いのは、瑞香の方だ。
「なっ。どこが子供っぽいのよ!」
 子供っぽいことは重々自覚しているが、噛み付かんばかりの勢いで言い放つ。和樹は頭のてっぺんからつま先まで、一度視線でなぞってから、
「どこがって、わからないの?」
「うっ……。う、うすうすは、わかってるよ……」
 分が悪い。何せ、こちらが間違っていることを知っているのだから。瑞香は矛先を変えることにした。
「それより、遅刻。十五分の遅刻だし、私は三十分待っている」
「君のその理屈は間違っている。確かに僕は約束に遅れたけど、十五分早くやってきたのは君の勝手じゃないか」
 しらじらと言ってのける和樹に、瑞香はきつい視線を浴びせる。怒ったら負けだと自分に言い聞かせ、なんとか切れかけた堪忍袋を引き締めた。
 瑞香が口を閉じていると、話は終わりだと判断したのか、和樹が勝手に歩き始めた。今日の昼と同じだ。こいつは同伴者に確認を取るという行為をしないのだろうか。しぶしぶ着いていく。
 またもや和樹の背中を眺めながら、ついでに服装をチェックしてやる。言いだしっぺの和樹の服は、確かに大人っぽい。細身のジーンズも、手触りのよさそうなジャケットも、わからないがブランド品のような気配がある。要するに、高そうなのだ。おまけに、カジュアルとフォーマルをミックスさせているが、靴や鞄も合わせてバランスが良い。よほどのボンボンで、服に金をかける趣味なのだろうと瑞香は推測した。
 その背中をしばらく追いかけると、以外な場所で和樹が立ち止った。
「ここ、化粧品の店?」
「そ。良いから入る入る」
 戸惑ってしまい、つい、促されるまま中に入る。知り合いなのか、和樹は店員と親しげに口を聞き、親指で瑞香を示した。華やかな顔立ちの店員さんが、近づいてくる。大きすぎる目が特徴的だが、良く目を凝らすと三重に塗られたアイラインや、つけまつげだと分かった。
「こんにちは! とってもかわいくなりますからね、こちらへどうぞ」
 どうやら、メイクをし直さなければいけないらしい。高校生活が始まるにあたって、念のために集めておいた化粧品(オール百円)で、瑞香はネットの解説を見ながら見よう見まねでメイクをした。メイクをするのは、四回目だった。今までよりは上手に出来たと瑞香は自己満足していたが、和樹はまったくお気に召さなかったらしい。
 店員さんの案内に従い、明るい光が当たる鏡の前に座る。とたん、瑞香は一気に幻滅した。
「あぁ……」
 ファンデーションはムラが多く、チークの位置は下すぎて、口紅ははみ出しすぎて、輪郭に違和感がある形になっている。
 一声かけられ、化粧落としをつけられた。瑞香の恥(メイク)が拭い取られると、早速プロの仕事が始まった。マシンガンのようなトークで何をやっているのか説明をしながら、手際よく化粧を施してくれる。かかった時間は、十五分程度ではないだろうか。だが、「できましたよ」の合図で鏡を改めて見つめた瑞香の前には、先ほどまでとは別人のような自分がいた。
「……すごい」
「まあ、プロですから」
 平常心に見えるが、どこか得意げな言葉だった。立ち上がり、和樹のそばに行くと、彼は何も言わずにレジへと向かった。お金! あわててレジに駆け寄るが、和樹はサッとクレジットカードを出し終わった後だった。
「高校生なのに、クレジット?」
「人の勝手でしょ」
「……まあ、あまり一般的ではないかなーっと。……って! そんなことより、お金! 私がやってもらったんだから、私が払う」
「いいよ、気にしないで」
「気にする!」
 和樹はわざとらしく、大きくため息をついた。
「いや、ほんとに気にしなくていいよ。金は結構あるし、可愛くなったから横を歩くのもうれしいし」
「ふぇ」
 息が詰まる。言われない。今までこんなこと、言われたことがない。
 熱を感じる頬を隠すために、「さっさと行こう」と瑞香は和樹に背を向けた。その姿勢のまま、「ありがとね!」と叫んでみる。なんで怒ってるの、と、和樹の疑問の声が聞こえてくる。
 怒っている。自分でも、そう感じる声音だった。けれど、本心は違う。すごくすごく、嬉しいのだと、緩みっぱなしの頬をなでながら、瑞香はそう思った。
 ありがとうございました、の声に見送られて、再び街へと繰り出す。
「さあ、パトロールの開始だ」
 和樹の声。瑞香は頷いた。もうすぐ、夜の八時になろうとしている。太陽はだいぶ前に役目を終えて、今では夜のとばりが下りている。繁華街は賑わっている。小中学生の姿は、もうあまり見当たらない。学習塾の中をのぞけば話は別で、勉強にいそしむ若人たちの姿が確認できた。出歩いていると怒られるのだろう。
 瑞香たちは、今朝のHRでの話を頼りに、ゲームセンターへと向かった。素行があまりよろしくない生徒。その言葉に、昨日のニット帽たちの姿が彼女の脳裏に浮かんだ。もし、鉢合わせたら……。
「ねえ和樹」
「ん?」
「今日のお昼、妹を守りたくて、昨日の騒動に巻き込まれたって言ったよね。あいつらは、売春組織と関係があるの?」
「うん……。これは、あくまで噂なんだけどね。彼のグループが、組織を束ねているって話なんだ」
「そうなの?」
「女の子を集めて、客を集めて、好みの子を斡旋する。そういった管理と、それと、自衛団のような役目を果たしているようなんだ」
「自衛団……?」
「トラブルにあった女の子を、守るってこと」
 なるほど、と瑞香は頷いた。それから、ふと思いついた。
「ん? それなら、あいつらを叩けば売春グループは止まるんじゃない! あいつらを探そうっ」
「それが出来たら、苦労なかったんだけどね」
 大きくため息をつく和樹からは、疲労の色が見て取れた。
「昨日、囲まれる前になんとか話を聞き出せたんだけど、彼らの手を離れて、女の子たちは過激になっているらしいんだ。もう、斡旋役にも止められないらしい。客と連絡先も交換し合って、ダイレクトにやり取りもしているらしくて」
「……そうなの」
 どうやら、話はそう簡単にはいかないようだ。最悪、女の子一人一人に対応して、結論を出さなければいけないのかもしれない。
 ゲームセンターに向ける足を止めないまま、瑞香はぼんやり考える。
 どうして、彼女たちは自分の性を売ることが出来るのだろう。それでも手に入れたいものがあるからだろうか。お金。彼女たちは、それで何をするのだろう。素敵なバックやアクセサリーを手に入れるのだろうか? 家計が苦しい母親を助けるのだろうか? 
 震えが生まれた。
 瑞香にとって、セックスは怖い。恐ろしく深い水の底のような、体の奥底から来る本能的なおびえ。
 売春する少女たちも、きっと、初めは怖かったのではないだろうか。
「ついたよ」
 和樹の言葉に顔をあげて、初めて自分がうつむいていたことに気が付いた。目の前には、爛爛とネオンが輝くゲームセンターがあった。独特のタッチの、ライオンとピエロが大きな看板となっている。
 中に入ると、音の嵐が瑞花を襲った。塞ぎたくなるほどではないが、そこらじゅうから別の音がして、うるさい。どの街でも、ゲームセンターという場所は、同じようなものだな、と彼女は思った。
「さて、探しますか」
「うん、ここはサラッとで良いと思うけどね」
「ん?」
「大人のオトコと二人で入るような場所として、あんまり選択しなさそうだから」
「なるほど」
 それでも一応やってきたのは、HRでの目撃情報があったからだろう。瑞花は顔立ちや服装を頼りに、高校生と思わしき人物を探す。見つけるたびに、和樹へと報告するが、うちの生徒ではない、という返事だけが返ってくる。
 それでも根気よく探し続けるうちに、瑞香は気になる人を見つけた。
「ん。ねえ、あの人怪しくない」
 半ば、断定したような声がでた。和樹が瑞香の言ったその方向に目を向ける。そこに立っていたのは、スマートフォンを片手に持った中年のサラリーマン風の男だった。よれたワイシャツに、関節の部分にシワの入ったスーツ。だらしない印象を受ける。視線が合うのが怖いので、顔をまじまじ観察する気になれないが、冴えた顔でないことは確かだ。
「どこが怪しいの?」
「うん。まず、こういう所でサラリーマンが一人というのがおかしい」
「待ち合わせじゃない? スマフォ見てるし」
「そう、たぶん待ち合わせだろうね。問題はその相手だよ。もし相手が大人だったら、こんな場所で待ち合わせたりすると思う?」
 瑞花は想像してみたのだ。大人同士がゲームセンターで待ち合わせ。ちょっと、一般的ではないかもしれない。駅前だとか、喫茶店だとか、居酒屋だとか、他にもっとふさわしい場所がありそうだ。万が一ゲームセンターを選んだとしても、中ではなく外を選ぶ気がする。それをそのまま伝えると、和樹は神妙に頷いた。
「うん。僕もそう思うよ。中で待ち合わせるのは、きっと、待ち合わせ相手にとって、この場所がテリトリーだからだ。自分の陣地に招くことで、安心しようとしている。あるいは、紛れ込もうとしている」
「……つまり、相手は女子高生だと和樹も思うってこと?」
「そうだよ。それに、あの男、ポケットに手を突っ込んで、すごくそわそわしている。顔には期待と下心が入り混じった表情だ。なんとなく、雰囲気が怪しい」
「ふむ」
 和樹の言葉は言いがかりのようにも聞こえるが、そう言われると、そう見えてきた。それに、他に何のあてがあるわけでもない。
 立ち止まって観察しては怪しいからと、瑞花と和樹はUFOキャッチャーへと向かった。男をガラス越しに真正面から観察できる位置だ。怪しまれてはいけないので、硬貨を入れる。景品は、よくわからないアニメキャラのフィギュアだった。長い銀髪の髪をした、黒いコートを羽織った少女で、目には黒い布を巻き、目隠しをしている。
 その景品の位置を確認している振りをしながら、男の素振りを確認する。男は定期的にスマートフォンを確認しては、周囲を伺うように首を左右に回す。
 硬貨と硬貨の感覚を、十分にあけているものの、四枚ほどを消費した。暇つぶしにもなるので、ゲームはそこそこ真剣だ。
「もうちょっと右じゃない?」「あ~! ストップ、ストップ!」「アーム設定ずるくない?」などなど、試行錯誤を繰り返す。男の顔には段々と、落胆の表情が刻まれていった。
「あ、取れた」
 和樹がぽつりと言ったのは、六枚目だった。景品が落ちる音がする。男のスマートフォンがなりだしたのは、同じタイミングのことだった。
 電話に出た男の顔は、みるみる笑顔になりだした。景品受け取り口に手を伸ばしながら、しゃがんだ状態で男を見上げる。初めてまじまじと見た男の顔は、確かに和樹の言うとおり、鼻の下が伸びている。やがて男はスキップでもするような足取りで、ゲームセンターから出て行った。瑞花と和樹もその後を追う。一応、尾行をしている身として、人の影に隠れつつ移動しているが、男に警戒の色は皆無だ。
 あまりにも簡単な尾行なので、瑞花は手に持ったフィギュアが気になってきた。持っているのが恥ずかしいので、和樹に押し付けようとしたが、いらない、きっぱり断られた。
 男が曲がった角に続くと、スナックの看板が目に飛び込んだ。意味深な色使いの、紫に近いピンク色で、背景では蝶が飛んでいる。他にも、『いわゆるそういう』お店の看板が並んでいた。
 顔がうつむく。見たくないものが並んでいた。和樹が瑞花の肩を叩く。
「そんなんじゃ、見失うよ。きちんと見て」
 その通りだ。拳を握り、前を向く。嫌な気分がざわざわと心を寝食する。やめて、やめてと、繰り返す女の声。例の悪夢だ。悪夢が、目を閉じていないのに瑞花を襲う。
 喉の奥でげろの味がした。男の足は、奥ヘ奥へと進んでいった。

   *

 速人と凛子が任されたのは、繁華街での聞き込みだった。男の財布の中にあった名刺を頼りに、怪しげな通りへと進んでいく。なんだか、勘違いされそうで嫌だな。そう思っていると、「勘違いされそうで嫌だって思ってません?」と、凛子が意地の悪い笑顔で訊ねてきた。速人は軽く片方の眉を歪めてみせる。凛子が微笑んだ。
「今回の事件、簡単に片付きそうですね」
「気を引き締めろ」
「はーい」
 子どもっぽい口調で凛子が言った。お前いい年だろ、とツッコミつつ、凛子の言葉を考える。気を引き締めろと返答した速人だったが、その実、凛子と同じような気持があることは否めない。簡単に片付きそう。裸で見つかった遺体には、性交渉のあとがあった。分析を妨げるために損傷を激しくしたのだろうが、時期に答えは出るだろう。
 痴情のもつれという回答は、犯人へとたどり着きやすい。
「もうすぐラブホテルですね」
「そうだな」
 まだ若い女だというのに、凛子の口調には恥じらいの一つもない。いまは事件の捜査中で、仕事の最中なのだから、当然といえば当然だが。
 速人は呆れつつ、歩を進める。前方に、気にかかる二人組の姿が見えた。誰かに、似ている。更に近づく。うつ向いて、顔は少ししか見えない。あの角度では、こちらは見えていないのだろう。
 息が詰まる。汗が背中を伝った。自分が動揺していることに、なにより驚いていた。見慣れた艶やかな漆黒の髪。肩でそろえたオカッパ頭。小柄な矮躯。いつか一度だけ見た、母が贈ったワンピース。
「瑞花」
 零れるように名前が出た。顔を上げた彼女との距離は、もう何メートルもなかった。瞬間、懐かしい匂いがした。『速人くん』優しい声まで、耳元でよみがえった。
「りん――」
 隣で凛子が、ん? と顔を寄せるのがわかった。そうだ、鈴(りん)はもういない。もう、どこにも。
「は、速人……」
 綺麗だった。大きな瞳が、アイラインとマスカラでますます強調されている。化粧はよくわからない速人だが、全体的に大人っぽく、可憐になっている。
「ん? お知り合いですか?」
 凛子の声に、頭痛がした。知り合いなんてもんじゃない。そんなもんじゃない。なんでコイツがこんな所にいるんだ。横を歩く男は誰だ。考えたくない。
 対する瑞花の表情も、苦いものへと変わっていった。会いたくなかったと、全力でその顔が訴える。二人がどれだけ見つめ合っていたのだろう。横の男が瑞花を揺すり、釣られるように凛子が速人を揺すった。
「コイツは、俺の……」
 ようやく、凛子の質問に答えが言えた。しかし、次の言葉がやはり言い難い。だが、瑞香と自分の関係を表す適切な言葉が、他にあるはずもない。
「妹だ」
 まだ、瑞花の顔から目が離せない。「ん、妹さん?」きょとんとした凛子の声と、数秒の沈黙のあとの「あ」という呟き。どうやら何かを察したらしい。
「あ、あ、あー。あれですね! 奇遇ですね! そうだそうだ、どっかみんなで入りましょうかほら、ファミレスとかなんとか」
 言いながら、一人で歩いて行ってしまう。どうやら、一刻も早くこの怪しげな通りから出て、雰囲気を仕切りなおしたい。そう考えたらしい。
 速人は凛子のあとを追った。瑞花に声はかけなかった。もし、ついて来なかったとしたら、元の目的地に行くのだろう。そう考えると心が痛かった。
 男の顔を、良く見ていなかったことに気がつく。振り返って確認しようかと考えたが、やめた。直視すれば、ますますショックが大きくなりそうだ。
 しかし、彼女たちはついてきた。凛子は土地勘があるのか、すいすいとファミレスにたどり着いた。
 無言のまま、凛子だけが店員に対応し、四人で席につく。そこに来てから、ようやく仕事中だと気がついた。判断力が低下している。
「ささ、何頼みますかー? あ、私、速人さんの同僚の、東凛子と言います。よろしくお願いしますねー」
 真正面から見ると、瑞花はますます鈴に似ていた。顔面は蒼白で、席についたというのに、よくわからない箱を抱えている。こちらも判断力が低下していそうだ。隣の男に視線を移す。ようやく確認できた男の顔は、思いの外男前だった。今時の若い女が好みそうな、少しなよついた感じが嫌だが。
 自分でもきつく睨みつける視線になっていることは気がついていた。が、目が合うと男は、にこりと微笑んだ。
「初めまして、小林和樹と申します」
「…………」
「ほらほらオニーサン、ちゃんと挨拶しないと! 丁寧でいい子じゃないですか」
 凛子に促された。「篠宮速人だ」自分で思うより不機嫌な声になった。
「篠宮、瑞花です」
 瑞花が凛子に向けて挨拶をした。凛子はにこにこしながら、「かわいい名前ですね」と歌うように言う。
 自己紹介が終わり、場に沈黙が訪れた。速人と瑞花は相変わらず気まずそうな顔。和樹は笑顔。凛子はおろおろと順に顔を見つめていく。
「そ、それにしても、瑞花ちゃん可愛いですねー」
「え?」
 戸惑うように瑞花が顔を上げる。凛子はニコリと笑って、「あーっ。なんだか、この子、私にちょっと似てませんか?」
 確かに、少し似ている。
「ふふふ。私、妹欲しかったんですよー、瑞花ちゃん、仲良くしてくださいね?」

   *

 凜子の満面の笑顔。純粋に向けられる好意に戸惑いながら、瑞香はなんとか頷いた。頭は回らず、ただ一つ、速人の視線だけが突き刺すように痛い。
 違う、と弁解したかった。速人は、絶対の絶対に勘違いをしている。私と和樹がそういう仲なのだ、と。
 私は、違う。
 何も聞いてこない速人に向け、瑞香はついに、まっすぐに視線を向けた。
「あのね、速人は誤解していると思うの」
 突然言葉を発した瑞香を、その場にいる誰もが見つめた。震える拳を、さらにきつく握りしめる。胸の前で抱えたアーケードの景品が、ひしゃぐ音がした。
「私たち、そういうのじゃないの。あの場所にいたのは、別の理由があるの」
 恥ずかしいほど、子どもっぽい口調になっているのは分かっていた。だが、毅然と話すことは出来そうにない。今でも泣き出す一歩手前で、泣いたら誤解がひどくなると思い、必死の精神力で止めている。
「別の理由……?」
 速人が眉根をひそめる。瑞香はついに口にした。
「私、今、ある調査をしているの。だから、その調査のために、あの場所へ……」
 速人の顔色が、一瞬で変わった。
「お前まだ、そんなことをしているのか!」
 身を乗り出すようにして、般若のごとき怒り顔を瑞香に向ける。そう、この顔の方がいい。だから、すべてを言うしかない。他の理由でごまかせない。けれど、きちんと本当のことを言えば、速人にはそれがちゃんと、本当のことだとわかる。
「ごめんなさい……」
 頭を下げる。これでまた、しばらく夜のパトロールともお別れだ。
 瑞香は一度だけ、大きな事件を解決したことがあった。まだ、中学二年生のころだ。近隣のペットを飼う住人を震え上がらせた、連続小動物殺害事件。その犯人を瑞香は特定し、追跡し、現行犯で逮捕したあげく、警視総監賞をもらった。
「……で、何の調査だったんだ」
 身を乗り出したまま、速人が言う。
「売春」
 出来るだけさりげない口調で、瑞香は口にだした……つもりだ。そうならないことは、わかっていたけれど。
 速人はいきなり、全身からすとんと力が抜けたように、席に落ちた。ボフッと、ソファから音が漏れる。片手で顔面を覆い、うつむいたその姿勢は、まるで考える像のようだなと、瑞香は思った。
「お前……その調査は、やめろ」
「うん……」
「無理だ。お前には、無理なんだよ、わかるだろ」
 先ほどの怒りはどこへと霧散したのか、速人の声は、慈しみにあふれていた。その理由が、瑞香にはわかる。ごめん、心配かけて、ごめん。
「お前には、絶対、絶対に、無理だ。あきらめろ、やめろ」
 まるで懇願のような言葉の上を、瑞香は漂っている気分になった。さきほど男を尾行し、ホテル街に入ったときに感じた、喉の奥のげろの味を思い出した。
 そう、私には、無理だったのだ。最初から。
 瑞香の奥底で、その結論が出た。
「うん」
 今度の返事は、はっきりとした声になった。その声に、速人は少し、安堵を覚えたようで、顔から手を放し、一度大きく息を吐いた。
 そのまま、速人はファミレスのインターホンを押した。
 周囲の注意が集まっていたテーブルに、恐る恐るといった様子で、若い女の店員が近づく。
「何か頼め」
 速人が、和樹に向けていった。コーヒーを、と和樹が返すと、すぐに速人は、「コーヒーとフルーツパフェを。以上だ」と注文した。
 そして、財布から二千円を取り出し机に置き、彼は立ち上がった。フルーツパフェは自分の分だ、自分の好物だ、と瑞香はぼんやりとした頭で考えた。
「じゃ、俺たちは行くよ」
 瑞香は頷いた。横の凜子も、むくれっつらを浮かべながら、あとに続くようだった。速人がテーブルを離れる。凜子が腰を上げ、しかし、そのタイミングで何か思いついたような顔をした。
 彼女はポケットから名刺入れを取り出し、二枚を机の上に置いた。
「これ、私の連絡先ね。何か困ったことがあったら、いつでも連絡して」
 そういって、優しく微笑んで小首をかしげる。瑞香が頷くと、凜子はついでとばかりにサッと何かを取り出した。
「あ、それと君たち、このキーホルダーどこのか知らない?」
 凜子がつきつけたのは、熊とリボンがついたキーホルダーの写真だった。
「これ……」
 喉の奥が震える。凜子が、「ん?」と首を可愛らしく傾げた。
「いえ……なんでも、ありません。……速人、行っちゃいますよ」
 瑞香は小さく首を振り、凜子の退席を促した。凜子は写真をしまう。
「あの、何の事件の捜査なんですか」
 どうせ教えてはくれないだろう。そう思いつつ、瑞香は訪ねた。だが、予想に反して、凜子は気楽な口調で言った。
「殺人事件だよ」

   *

「篠宮さん、急にどうしたんですか」
 背後からかけるようにして、凜子がやってきた。速人は振り返らずに、「どうもしない」と返事を返した。自分が動揺していることは分かっていた。
 まさか瑞香が、売春について調査をしているだなんて。
「……瑞香ちゃんって、高校生探偵か何かなんですか」
「んなんじゃねえよ。マンガ読みすぎだろ」
 吐き捨てた言葉は、どこか自虐的な響きになった。そんなんじゃない。あいつは、どこぞの名探偵のように、好奇心で事件に首を突っ込み、持ち前の明晰な頭脳で、高見の上から飄々と事件を解決するような、そんな人物では決してない。
 あれは、罪悪感の塊で。
 そして、その罪悪感を植え付けたのは、まぎれもなく篠宮速人その人だった。
 罪悪感で事件に首を突っ込み、持ち前の怪力と暴力で、事件の渦中で傷つきながら、無理やり事を収めてつぎはぎして――。そんなことばかりしているのだ。いくら言っても聞かないから、いつしか速人は見るのを止めてしまったのだ。
「ふーん。そうなんですか」
 凜子の言葉は、どこか意味深だった。睨み付けるように振り返ると、凜子はニコッと悪魔のように笑った。
「ああ、でもこれで、速人さんアイロン事件の犯人がわかりましたね。ずばり、真犯人は瑞香ちゃんです!」
「……なんだよ真犯人って。無実の被害者どこにいたんだ」
「そうですね。あえていうなら、私の中では男の恋人でした!」
「どういう意味だオイ」
「えー……? だって速人さん、なんとなく、女の人が苦手そうなんですもん。だから、そーいうのだったら素敵だなーって♪」
 突然判明した凜子のBL趣味に閉口しつつ、彼女の洞察力の鋭さに舌を巻いた。確かに、女は苦手だ。そして、その苦手意識が何からもたらされているのか、速人はきちんと理解していた。
 泣き出す寸前の、瑞香の顔を思い出す。化粧をして美しくなったあの顔は、やはり、あの時の鈴にそっくりだ。
 十六年前――。速人がまだ、十四歳の少年だった頃。鈴は死んだ。
 鈴とは、仲の良い従姉弟同士で、それほど実家が離れていないこともあり、お互いの家を頻繁に行き来していた。鈴は十八歳だった。生きていれば、三十五歳。だが、死んだ鈴はもうずっと、年下のまま速人の中で止まっている。
 明るい娘だった。早くに病気で亡くなった父親がキリスト教徒で、自分もなんとなく信仰を初めて、大事にしているとよく言っていた。残された母と二人で暮らし、母を愛し、豊かな心を持っていた。植物を育てるのが好きで、ベランダにはよく手入れされた花が、季節ごとに色とりどりに咲き誇っていた。
「速人くんは、将来きっと、素敵な男の子になるね」
 鈴はよく、そんなことを言っていた。自然に人を褒める人間だったのだ。鈴といるとき、速人は自分がとても良い人間だと思った。彼女の横は暖かで、居心地がよく、いつまでも隣にいたいと思う事さえあった。
 それがほのかな恋心だと自覚していたが、従姉弟という関係性と、五歳離れた年齢から、なかなか認めることは出来なかった。二人で買い物や近所の植物園に出かけることもあったが、たいていは家の中で過ごした。高校生の鈴を一人にして、家に残すのを忍びないと思ったのだろう。鈴の母が、鈴のアルバイトのない日は速人の家にと、鈴を任せていたのだ。それぞれの宿題をこなしたり、本を読んだり、一緒にテレビを見たり、何気ない時間を積み重ねて、それがこの先もずっと続くと思っていた。
 鈴が犯されたと知ったのは、近所のおばさんの噂話からだった。
 態度が、急に変になった日は覚えていた。速人の両親がそわそわし、鈴は家に来なくなり、尋ねると、具合が悪いのよとはぐらかされた。
 セックスも強姦も、その意味ぐらい、速人は知っていたのに。おばさんの噂話からなどではなく、両親からきちんと説明を受ければ、速人はもっと違った行動が出来たかもしれないと今でも思う。
「わたし、許せないよ……許せないよ……」
 噂話を聞きつけ、鈴の家に駆けつけ、彼女に無理して会いに行った。問い詰めて、そして、見せられたのがこの表情だった。
 泣いている鈴。速人はそのそばに立って、だた、眺めることしかできなかった。彼女を抱きしめようと伸ばした手を、鈴は思い切り叩き落としたのだ。
「いや!」と、ただ鋭い一言で分かった。彼女は、おびえているのだ。
 自分の顔から、血液が一気に引いていくのがわかった。あの時からだ、女が苦手になったのは。
 それからしばらくして、鈴は落ち着いたようだった。警察に被害を訴えたり、裁判にかけたりする様なことはしなかった。問い詰められて、ますます傷つくことに耐えられない、と鈴が言ったのだ。相手はバイト先の先輩で、向こうの両親とは何度も話し合い、示談金は成立したらしいと聞いた。
 ほとぼりが冷めたと思った頃に、鈴の中に新たな命が芽生えていることがわかった。
 その日から、鈴の様子はまた、落ち着かなくなっていった。泣き腫らして一日を過ごすことさえあった。だが、そんな生活もしばらくすると、また落ち着いた。
 気丈に、いつも通りにふるまって、ときには生まれてくる子が楽しみだ、とさえ口にした彼女。決して、その言葉が偽りだったというわけではないだろう。人間の感情は、くっきりと二つに分かれる訳ではない。だから、膨らんだお腹をなでる彼女に、どのような絶望があったのか、速人には今でも計り知れない。
 鈴が首をつってぶら下がっていたのは、瑞香が生まれた四日後だった。
 瑞香は、一度施設に預けられることになった。鈴の死で、鈴の母も体調を崩し、女手一つで今まで頑張ってきた、その疲れが出たのだろう。そして、そのまま一年で帰らぬ人となってしまった。
 速人も、速人の両親も、鈴の残した子の行方がずっと気になっていた。だから、十分なたくわえを作り、彼女を迎えに行った。
 瑞香が、九歳のときだった。
「え、あれ? ちょっとなんで黙るんですか、本当にゲイなんですか」
「なわけねえだろ」
 凜子の声で、我に返り、あわてて否定した。あわてた感じが、少し嫌だなと、速人は思った。

   *

 運ばれてきたフルーツパフェを、瑞香はうつろな瞳で見つめていた。速人の誤解は解けた。けど、隣には自分の妹を助けようと、頼ってくれた人がいる。
 机の上に、パフェとコーヒーを置いて、店員は素早く離れていく。
「……本当に、ごめん」
 うつむくと、横の前髪が顔にかかった。気になったが、そのままにする。
「安請け合いして、ごめん。私には、出来ないことだった」
 許せないと思った。もし売春している少女のグループが、本当にあるなら。それを支えるという、男たちがいるなら。そんなもの、全部自分でぶっ壊せると、そう思った。
 警察に任せて少女たちの未来を台無しにすることなく、自分なら、前の街のように上手くやれると過信していた。
 でも、速人の言うとおり無理なのだ。古傷に追われるように、壊してやりたいと思った衝動。だが、それもまた古傷によって、断念せざるをえない。
「ねえ、君って処女なの」
「ふわぁっ!?」
「ああ、その慌て方はそうなんだねー」
 口をあんぐり開けたまま、瑞香は和樹を見つめた。急に何を言い出すんだと、責め立てる気持ちが渦を巻く。しかし、それ以上和樹は何も言わなかった。謝罪に対する返事はなかった。ただ、黙ってコーヒーを持ち上げると、口に運んだ。
 瑞香も眉根をひそめたまま、スプーンを手に取る。真ん中のさくらんぼを避けて、横からせめる。ポイップと色とりどりのフルーツを、一緒に口に運んでいく。
 どうして和樹はこんなことを言い出したのだろう? 手を止めないまま、瑞香は考える。周りを一周し、さくらんぼが落ちそうになってきたので、それを取って口に入れた。
 たぶん、速人とのやり取りからだろう。誤解されたくなくて、弁解したこの感じ。それがあまりにも必至だったから、処女だと言い出したのだろう。
 紙ナプキンを取り出し、さくらんぼの種を吐き出そうとする。なぜか和樹がじいとこちらを見つめていた。
「あの、見ないでほしいんだけど」
「横むけば」
「横むいてるときも、見ないでほしいから頼んでいるの」
 仕方ないという風に肩を落とし、和樹も横を向いた。軽く背中合わせになりつつ、瑞香は種を吐き出した。紙ナプキンは丸めて、パフェの器の横に添えた。
「何か訳でもあるの。調査、やめる訳が」
 伸ばしたままの手が震えた。この手は、ごまかせない。それに、一度引き受けた依頼を断るのだ。それなりにきちんとした訳を、和樹に話さないのは不誠実な気がした。
「……場所、変えよう。ここじゃ話せない」
「わかった」
 和樹が立ち上がる。「待って!」瑞香はあわてて叫んだ。
「フルーツパフェ、食べ終わってからにして」 
「は?」
 瑞香はスプーンを再び手に取り、がつがつと流し込むように、パフェを食べた。口の中には甘い味が広がり、体内ではインスリンが急上昇したことだろう。

   *

「覚えていること、ですか。うーん……もう結構、前のお客さんだからなあ」
 速人と凜子の前では、妖艶なドレスを着たセクシーな女性が立っている。店内は暗く、厚塗りすぎる化粧と上手く調和しているため、美人に見える。しかし、明るい太陽の下で見れば、年のいった婆に見えるかもしれない、と速人は思った。
 瑞香と別れた後、速人と凜子は当初の予定であった、聞き込みを再開した。名刺を頼りにたどり着いたのは、スナックだった。準備中だったが、手帳を見せて、名刺の持ち主に話を聞くことが出来たのだ。
「どんな些細なことでも良いんです。思い出せませんか?」
「うーん」
 顎の下に人差し指を乗せ、女性はうなった。やがて、小さく目を見開くと、「そういえば」と口を開いた。
「もっと若い女の子はいないのかって、口癖のように言っていましたね」
「若い子、ですか」
「はい。この店で一番若い子は、二十歳の大学生なんですけど、その子がついてもダメで。ほんと、男の人ってやになっちゃいますよね」
「そうですねえ」
 凜子がメモを取りながら、神妙深く頷く。速人は取り立てて重要な証言とは思えず、ペンを走らせることはしなかった。
 他の店員にも順に話を聞いていき、周辺の聞き込みもして、時間が過ぎた。
 凜子と署に戻る。道を歩く二人の間に、会話は生まれなかった。

   *

 誰もいない、落ち着いて話せる静かな場所を、というリクエストに、和樹が瑞香を連れてきたのは、緑地公園だった。昨夜、和樹がニット帽とその仲間たちに囲まれ、窮地に陥ったあの公園だ。
 ただし、公園には夜のランニングに訪れている人々や、犬の散歩、学校だか塾帰りだかの学生等々、それなりの人がいた。そんな中、和樹は迷わず道を選び、少し奥ばった所にある、うんていの前へとたどり着いた。小高い丘の途中にあり、どうやらこの場所は、あまり知られていないらしい。うんていは煤けて、ちょっと汚かった。
「えっと、何から話せばいいのかな」
 瑞香はこの話を、今まで誰かにしたことがない。喉が苦しくなり話せなくなるというわけではない。話す理由と、親しい友人がいなかったからだ。今はある。前者の理由が。
「私ね、速人の両親の養子なんだよ。小さいとき、施設に迎えに来てくれたの。私は純粋にすごく喜んだよ。でも、ある日知っちゃったんだ」
 瑞香は梯子を上り、うんていへとたどり着いた。「よっと」スタートの一本目にぶら下がる。
 ひょいひょいとうんていを渡りながら、「私が引き取られたのにはね、理由があったんだ。親戚だったんだよ。速人のお母さんの、お姉さんの子どもだったんだ」
 ゴールまでたどり着く。「じゃああの人は、はとこなのか」と和樹がつぶやくのが聞こえた。
「うん、そうだよ」
 手を放し、ドサッと地面に着地する。落ち方は工夫し、足に響かないようにした。
「それでね、その人が、強姦事件に巻き込まれたときの子どもが私。その当時のことを記録した……新聞記事とかまあ、そういうのを見ちゃったんだよ」
 瑞香は少し嘘をついた。事件は大事にしないため、通報することはせず、泣き寝入りとなった。だから、新聞記事は残っていない。
 あの日、速人が机に広げていたのは、鈴の手記だった。何度も読み返した跡がある、鈴の手記。「私は子供を愛せそうにない。顔も見たくない」丁寧で、綺麗な文字でつづられた言葉を思い出すたび、瑞香は胸が痛む。手記の中には、強姦を受けたときの様子も綴られていた。
 速人は、瑞香が引き取られた当初から、どこかよそよそしかった。腫物に触れるように扱ったかと思うと、仲の悪いクラスメイトのように邪険にふるまわれた。
 速人の部屋に入ってしまったのは、偶然だった。速人の母に部屋からとってきてほしいものがあると言われ、頼まれごとをこなそうとした時に、偶然視界に入ってしまい、読んでしまったのだ。
 その途中で、速人は帰ってきた。険しい顔で瑞香の手から手記を奪い、ただ一言、静かに「でていけ」と言った。あの言葉ほど、恐ろしく感じたものはない。
「まあ、そんな事情がありまして。私、そういう性的関連のこと? わりとトラウマ気味なんだ」
 さらりと言えただろうか。瑞香は和樹に向けて、ちょっとはにかんで見せた。
「だから、ごめん。一度引き受けておいて、本当にごめん」
 和樹の表情は変わらない。あまりにも変わらない。告白がヘビーすぎたのだろうか。瑞香がそんな心配をし始めたころ、和樹はようやく表情を少し変え、何も言わずにうんていのスタートへと立った。
「ん」
 一声かかったかと思うと、和樹はうんていの上で逆立ちをした。
「え――?」
 驚く瑞香をそのままに、和樹はうんていの上を逆立ちしたまま進み始める。瑞香の真上も通った。彼女はずっと、和樹を見上げていた。ゴールまでたどり着くと、和樹はそのまま前に倒れるようにして、半回転の形で地面に着地した。ゴールでそのまま下りた瑞香と、梯子を挟んで瞳が交わった。
「少し、僕の話も聞いてくれる?」
 和樹の瞳は、奥深かった。その瞳の奥にどんなものが放り込まれているのか、瑞香は知りたくなった。うなずく。すると、和樹はその瞳を閉じた。
「僕は、小さなころに一度、死にかけたことがあるんだ。すごい高熱を出して、救急車で運ばれてね。小さな僕は、その頃聞きかじっていた、植物人間になるんじゃないかって、そのことがすごく怖かったんだよ。そんなことを考えられるくらい意識がはっきりしていたから、植物人間になるわけないのにね」
 くすっと笑った和樹につられる。彼は目を開けた。
「でも、とにかく怖かったんだ。何の変化もない毎日。何も起こらない日々。それが永遠に、ぼんやりと続くことが。それから、僕は停滞が怖くなった。それと、このままじゃいられないってことをね。こんなものじゃない、もっとやれる、自分は成長していける。高熱から回復した僕は、見違えるように勉強と運動を頑張ったよ。それから、ちょっと変わったことをやるのが好きになった。今の、うんていみたいに」
「……そっか」
 和樹の言葉には、熱がこもっているように感じた。成長していくこと。毎日変わり続ける日々。それは、素敵なことだろう。
「それに、僕たちはいつか大人になる。瑞香、君の抱えているものを、きっと誰もが抱えているよ」
「あ」
 その言葉は、気づきだった。
 胸の水面にすとんと、落ちてきた一滴のしずく。その波紋は静かに広がっていき、瑞香の中で交じり合って、波紋は終わりを迎えた。
今まで、自分だけが抱えていると思っていた。けれど、確かに和樹の言うとおりだ。
 この問題は、誰もが抱えている。性的なこと。それを、大人たちは必至に子供だからと視界の外へやろうとする。けれど、ずっとそのままで良いという人は、誰一人としていないだろう。自然にだとかそのうちだとか、あいまいな言葉に任せる。ある一定の年齢をすぎれば、していないのがおかしいかのように罵ることさえある。
「そっか」
 肩が軽くなったような気がした。ほんの少しだけだけど、確かに。
 自分以外にも同じ問題を、抱えている誰かがいるはずだと知って。
「そっか」

   *

 署内の仮眠室で、速人は横になった。帰ろうと思えば帰れた。ただ、どうしても帰る気になれなかったのだ。寝ているだろうとわかっていても、瑞香と同じ空間にいるだけで、胸が音を立てて軋みそうな、そんな気配を感じていた。
 目を閉じる。化粧をした瑞香の顔が浮かんでしまった。いつの間に、あんなにも綺麗になっていたのだろう。ついこの間まで子供だったのに。
「速人くん」
 鈴の声。もちろん、幻聴だ。どうして、もう何年もたつのに、こうもはっきりと自分は彼女の声を覚えているのだろう。
 眠気の前髪がちらちらと見え始めたころ、漂う思考の中で速人は、初めて瑞香と出会った日のことを思い出した。
 その日は前日から、いや、瑞香を我が家に迎え入れようと母と父が決断したその日から、速人は浮足立っていた。
 鈴の残した子供。
 優しくしようと思った。仲良くしようと思った。
 両親が施設へと彼女を迎えに行っている間、速人はじっとしていられず、らしくもなく家の掃除などをしていた。
「さあ瑞香ちゃん。これがうちの息子。速人だよ」
 玄関で初めて見た彼女は、九歳という年齢より、ずいぶんと小さく見えた。施設でろくにご飯を食べられていなかったのだろうかと、速人はとっさに心配したほどだ。
「は、はじめまして」
 瑞香が口にして、ちょこんと頭を下げた。上げた顔はなるほど、鈴に少し、瞳が似ている。
「……よろしく」
 速人の口調は、ぶっきらぼうになってしまった。そのとき速人は二十三歳だったが、このころから愛想はとくになかった。
 優しくしようと思った。仲良くしようと思った。
 けれど、あまりに離れた年の差と、性別の差と、育った環境の差と……それから、彼女の生い立ちと。さまざまなものが壁に感じられ、速人は瑞香とどう接すればいいのか結局わからなくなってしまった。
「速人くん」
 鈴の幻聴に引きずられるように眠りに落ちた。
 その日、速人は夢を見た。自分と瑞香が一つ違いの兄妹で、縁側で一緒に西瓜を食べている、そんな夢だ。

   *

 パチっと目が覚めた。その瞬間、今日が素晴らしく調子の良い日だと悟る。瑞香には、たまにこういった日が訪れることがあった。起き上がり、日課のトレーニングをこなす。朝にトレーニングを行う事によって代謝をよくしているのだ。すぐに、ほかほかと体が暖かくなってくる。朝の準備を行い、瑞香は学校へと向かうことにした。
 出かけ前に確かめたが、やはり速人は家にいなかった。多分、数日は帰ってこないだろう。瑞香はそう考えた。あまり仲が良いとは言えないが、長い付き合いだ。彼の行動パターンを、瑞香は把握している。
 問、自分と気まずくなったとき、どうふるまうか。答え、しばらく帰らないで落ち着いた頃何事もなかったかのように帰宅して、「仕事が忙しかった、悪いな」と言う。
 今回の件に関しては、瑞香もかなりダメージを食らった。できれば、四日、いや、贅沢は言わないから三日くらいは帰って来ないでほしいなと思う。
 そして、その間に。
「おはようー」
 学校へとたどり着いた瑞香は、教室の扉を開けて、すぐ目当ての人物を見つけた。
 笑顔で挨拶をすると、同じく笑顔で返事が返ってくる。
「おはよう、瑞香ちゃん!」
 今日の百々は、茶髪でボブの髪型を少しアレンジして、前髪をリボンのついたヘアピンでとめていた。赤い縁のメガネは相変わらずだ。
 彼女の横にはいつものように、のっぽとぽっちゃりの二人組が立っている。瑞香は改めて、その二人を観察した。
「おはよ」と、どこかクールな声を発したのがのっぽ、もとい、武原杏樹(たけはらあんじゅ)。仲間内では、タケと呼ばれていることが多い。黒髪でショートカット。胸の大きさも控えめだ。男のようなニックネームだが、その愛称がぴったりな、ボーイッシュな女の子だった。
「おはよお~」と、のんびりした返事を返すのがぽっちゃり、もとい、林めぐ(はやしめぐ)。メグ、や、メググと、呼ばれていた。ロイヤルミルクティー色のロングヘアーを、毛先だけカールさせている。巨乳だ。彼女は可愛らしいぽっちゃりで、太っていてもモテるだろうなと感じる。
 昨日、百々が見せてくれたクマの手作りキーホルダーを、二人も持っているはずだ。もしかしたら、他にも何人かいる可能性もある。が、百々の口調からはいつもの二人というニュアンスがとれた。ということは……。
「おはよう、タケちゃん、メグちゃん」
 改めて二人に挨拶をした瑞香に、彼女たちは少し目を見開いた。リーダー格は百々。そう思って、まずは彼女と仲良くしようと瑞香はふるまっていた。その行動を逸脱したので、驚いたのだろう。
「タケでいいよ」
 タケがやはりクールに言った。
「メグも! メグでもメググでも、お好きにどおぞ」
 メグがにんまりとしたスマイルで言った。

 この二人のどちらかは、殺人者かもしれない。

「うん、ありがと。タケ、メググ!」
 瑞香は満面の笑みを張り付けて、二人に御礼を言った。

   *

 目が覚めて一瞬、自分が今どこにいるのかわからなかった。数秒して、署内の仮眠室を利用したのだと思い出す。起き上がると、骨が鳴った。どうやら、姿勢が悪かったらしい。
 洗面所に行こうと外に出る。歩いている途中で、凜子に出会ってしまった。
「あ、速人さん、おはようございます」
 にっこり笑う凜子の手には、事件の捜査資料が抱えられている。速人が眺めていると、「速人さん、昨日、家に帰らなかったんですか」と責めるような凜子の声が聞こえてきた。
 なぜ分かったのだろう。髭が伸びているのか。そう思い、右手を顎の下にやる。その様子を受けて、凜子がワイシャツを指さした。
「しわくちゃじゃないですか」
 前、凜子は速人のワイシャツをアイロンがきちんとかけてあると言っていた。何度言ってもあいつは聞かない。洗濯のたびに、彼女は律儀にアイロンを当てる。
「ああ、帰らなかったな」
「どうして……っ? 事件はまだ、佳境じゃないですよ。帰れるうちに、帰らないと」
「めんどくさかったんだよ」
 仕事を言い訳にできないと判断した速人は、そういった。実際は、署からかなり近い位置に家があるので、面倒もくそもないのだが。
「……瑞香ちゃん、一人でさみしいと思います」
 そんなやつじゃない。心の中で凜子を否定しつつ、そうだなと適当に頷いておいた。女は面倒だ。特に、自分が世間的に正しいことを言っていると思い込んでいるときは。
「ちょっと、便所行ってくる。今日も頼むわ」
「あ、ちょっと!」
 生理現象を言い訳にして、凜子の前から足早に離れた。なんだか逃げているようだ。
 速人はスーツのポケットから煙草を取り出した。手がうまく動かず、何度やっても、上手に火がつけられない。
 ようやく、火がともった。口に咥える直前で、「歩き煙草禁止!」と、すれ違った女性職員に注意をされた。舌打ちをし、煙草もライターもポケットに戻す。
 今日の目覚めは最悪だ、と速人は心の中で思った。

   *

 調査を再開することにした。ただし、和樹にはまだ何も言っていない。元気づけられて、じゃあまたねと言って、それきりだ。携帯にも連絡はない。
 また、ダメになってしまうかもしれない。ダメになったとき、和樹を消沈させたくはなかった。だから、一人でやることにしたのだ。
 それに、昨日の凜子の言葉――「殺人事件だよ」
 もし、自分の考えていることが本当だとしたら、危険度は跳ねあがっている。そんな危険に、和樹を巻き込むわけにもいかない。
「ここっ! ここが『カラオケ・バババ・バン』っ、です」
 百々が指差したのは、薄汚れた小さなビルだった。煤けた看板に、店の名前が書いてある。
 放課後の百々のテンションは異様に高かった。昼休み、話の方向を誘導しようと、放課後遊びに行くことをそれとなく提案するや否や、彼女が飛びついた。あれよあれよと内容が決まり、カラオケとケーキの食べ放題に行くことになった。
 ちなみに、ケーキの食べ放題はかなり予想外だ。瑞香は財布の中身を授業中にこっそり確認した。
 百々が瑞香の方を向き、
「このカラオケ店は、地域で一番安いんだ」
 それにメグが続いて、
「そうなんだよ、お財布の味方あ~」
 最後にタケが、
「ま、わざわざ紹介するほどじゃないかもだけどね」
 わいのわいのと騒ぎ立てる。瑞香は内心、少しだけ閉口していた。
 実を言えば放課後、こんな風に友人(?)と寄り道して遊ぶのは、初めての経験だった。学校で浮かない程度に友人を作る処世術は身に着けていたが、しょせんそれは学校の中だけの話だ。瑞香にとって放課後は、鍛錬を積んだり、夜に備えて仮眠をとったり、成績を上げるために勉強したりと、一人で過ごす時間だった。
「よし、じゃあ行こっか」
 百々が先陣を切り、後に続く。中に入るとすぐにカウンターが見えた。その隣にはファミレスで見かけるようなドリンクバー。天井は低く、壁は汚く、店内は狭い。
 瑞香は三人の後ろで少し離れて、百々が受付に対応する様子を眺めていた。料金や時間などを話終え、学生証をお見せくださいと店員が言った。一人見せればよいのかなと瑞香は考えたが(なにせ女子高の制服のままなのだ)、タケやメグもカバンから取り出す様子を見て、あわてて探し始めた。もたつく彼女に、メグが「落ち着いて」と笑いながら言う。なぜか皆に笑われた。マイク等が入ったかごを百々が受け取り、ドリンクバーで各々飲み物を注ぎいれ、部屋に向かった。通されたのは、やはり小さな部屋だった。四人でちょうど良いぐらいのサイズで、無理をすれば八人入れるかといった部屋だ。
「よーっし、じゃあ一発目は、瑞香ちゃん行ってみよっか」
 百々が慣れた手つきで四角く重たい機械を部屋から取り出し、瑞香に手渡した。上部に、デンモクと名前がついている。瑞香は戸惑ってしまった。
 カラオケに行ったことはない。しかし、何度か――速人の両親に連れられた居酒屋や遠足のバスの中で――カラオケをしたことはある。だから大丈夫だろうと気楽に考えていたのだが、この意味不明な機械を一番に操れと言われても困ってしまう。
 瑞香は視線を泳がせた。すると、視界の隅におなじみのものが映った。
「ありがと、でも私、こっち使うね」
 デンモクを机に置き、瑞香は棚の中にしまわれていた分厚い本を取り出した。めくると、曲名と番号が並んでいる。やはり、思った通りにこれだ。あらかじめ、歌おうと思っていた曲を探す。有名な歌なのですぐに見つかった。
 しかし、次は入力の方法がわからない。いつも使うリモコンがどこにもないのだ。戸惑っていると、百々が瑞香に恐る恐るといった様子で声をかけた。歌いたい曲を告げると、百々はデンモクを操作し、それを入力してくれた。
 物悲しいメロディが室内に流れ始めた。百々が機械の近くでしゃがんで、大きすぎた音量を操作する。
 瑞香は一息吸い込んでから、歌い始めた。松任谷由美『春よ、来い』
 室内の静まりかえった雰囲気に彼女が気付いたのは、気持ちよく熱唱を終えた後だった。

   *

「ふふ。今日も速人さんと一緒で嬉しいですー」
 会議で割り当てられた今日の班分けも、また東凜子と一緒だった。問題がない限り、同じ相棒を事件中は持つことになる。ダメ元で上司に変動を申し出たが、明確な理由を答えられず、あえなく却下となった。
 おまけに、笑いながらの却下だ。多分、速人が女性を苦手だから変えてほしいと頼んできたと思ったのだろう。実際、その理由もあるのだから、言いがかりとは言い切れないが。
「また瑞香ちゃんに会えないかなー。可愛いからなー」
 一番の大きな原因は、もちろんこれだ。凜子に、瑞香の存在を知られた。その微妙な関係も、もちろん何かあると察しただろう。下手に興味を持ち出して、根掘り葉掘り聞かれること。速人は、何よりもそれが嫌だった。
 ブレーキを踏む。今、二人は車で、被害者の自宅に向かう途中だった。被害者の娘の事情徴収のためだ。二人が割り当てられたこの仕事は、割と花形の役割と言える。被害者の交友関係をあらい、事件の容疑者となりうる人物を探す。また、身辺にトラブルがあったかどうか、被害者の人となり、多大な情報を、被害者の遺族は握っている。
 ただ、それと同時にとても扱いがたく、繊細な部分も大きい。特に今回の場合は、被害者の親族と言える親族は、この一人娘だけだった。
 速人はちらりと、凜子の顔を窺った。まだ若く、あどけない顔をした(しかし油断ならない)女性。
 前日までは他の組が担当していたが、今回速人たちに仕事が回ってきた理由は、間違いなく凜子だろう。引き継ぎの報告書には、娘は寡黙で、心を開く様子がない。父親のことはよく知らないの一点張りだと書かれている。
 信号が青になり前の車が動き出した。速人もアクセルを徐々に踏み、ナビゲーションを頼りに住宅地へと向かった。たどり着いたのは、中流家庭が利用していそうな小ぎれいなマンションだった。被害者は会社で役員を務めており、一人親とはいえ金に困ることはなかったのだろう。インターホンを押し、玄関にたどり着く。扉を開いた娘は、垢抜けない少女だった。ぼさぼさの黒髪を、百円ショップで売っているようなちゃちな黒いシュシュで結んでいる。第一声は、無気力そうな「どうぞ……」という言葉だった。
 資料によると、瑞香と同じ、高校一年生であるはずだ。で、あるならば、もう少し若さあふれる元気があっても良いのになと速人は考えてから、こんな事件の直後では仕方ないかと納得した。
 事前に来訪を告げていたためか、部屋は片付けてあり綺麗だった。ただ、モデルルームのような綺麗さで、生活感があまりない。二人は手のひらで勧められるままダイニングテーブルのイスに腰を下ろした。
 娘は一度キッチンへと消え、第一声とまったく同じトーンで「どうぞ……」とお茶を置いた。日本茶で、湯呑みは修学旅行のお土産だろうか、見猿聞か猿言わ猿の、三匹の猿が描かれていた。娘はどさりと乱暴に凜子の前のイスに腰を下ろすと、小さく口を開いた。
「……それで……今日はなんの御用なのでしょうか……。もう、何度も警察の方が現れて……。うち、本当に、もうしゃべれることないですけど」
「それなんだけどね、桜(さくら)さん」
 速人は車の中で決めていた少女の呼び方を口にした。被害者の名前は、『大崎純一郎』といった。娘の名前は『大崎桜』だ。上の考えが、凜子を使い桜に親しみを持ってもらうためだとするのなら、相方の自分が大崎さんという堅苦しい呼び方をするよりも、そう呼ぶのが良いのではないかと考えたのだ。
「今日は、その、まあいつもとは違う雰囲気で。こう、和やかにお話でもできたらなと思っているんだよ」
「……とっても、嘘くさいです」
 返事をしたのは、桜ではなく凜子だった。じいっと、速人の顔を睨んでいる。
「あのね、桜ちゃん。このお兄さん、いや、おじさんのことは全然気にしなくていいからね。ちょっと目つきは悪いけど、実は小心者だし、いざとなったらお姉さんがバカスコやっつけちゃうからね」
「おい、誰がおじさんで誰がお姉さんだ」
 速人の強烈な眼光と共に放った突っ込みを、凜子はスルーした。
「さて桜ちゃん。桜ちゃんは、高校生なんだよね? 部活動とか入っているの?」
「……入ってない」
「そうなんだ。じゃあ、放課後は何をしているのかなー?」
「別に……。家に帰って、……漫画を読んだり、家事をしたり。……たまに友達と、本屋とかカラオケにいったり……」
「ふーん。漫画に本屋か。どんな本が好きなのかな?」
 桜の表情に、今までにない変化が現れた。固くこわばっていた顔が一瞬、何かを隠すようにいっそうこわばる。
「……別に、捜査と関係ありませんよね」
 固い拒絶の言葉。
 しかし、凜子に傷ついた様子はない。なぜこのような態度をとられ、そこまで踏み込んでいけるのかと関心してしまうほどの陽気さで、話を続ける。
「うん。でも私も、漫画とか読むの好きだから。特に『わかよたれそに君思う』とか、『青と空と僕と春』とかが最近のヒットかなー」
 なんだこいつ。なんだその漫画のタイトル? わかよたれそっていろは歌だっけ。どんな意味だったかな。ていうか、自分語りして被害者との距離を詰められるとでも思ってんのか。
 速人は瞬時にそんなことを考えた。ガタンっと、大きな音がしたのはそのときだ。何が起こったか。速人の斜め向かいに座っている桜が、大きくイスから転げ落ちたのだ。
「ちょっ、桜ちゃん、大丈夫?」
 凜子が心配そうに首をかしげる。桜はイスに座り直し、大きく頷いた。それから、なぜか頬を赤くして、凜子にこう告げた。
「……ちょっと、びっくりしてしまって……。だ、だって刑事さんが、そんな本読んでると思わないから……」
「ふふっ。個人の趣向は自由ですよ、桜ちゃん。思想の自由は法律よりも尊い憲法で保障されていますから」
 まるで春の女神のような微笑みを凜子は浮かべた。桜はまぶしい光を、心地よく浴びる小動物のように目を細める。
「だ、誰押しですか」
「断然、漣×遥人」
「!! う、うちもレンハル押しなんです!」
「おお、同志よ!」
 凜子は桜の手をがしとつかむ。桜は抵抗することなく、その手を受け入れたようだった。
 女子のおしゃべりとは、なんと長くて脈絡がなく面倒なのだろう。速人は中学生からそう思っていた。が、あの頃の認識はまだ可愛いものだったのだ。
 凜子と桜の嬉々としたおしゃべりの、なんと品のないかつおぞましいものか。しかし、被害者となった少女と打ち解けるミッションをクリアしている以上、今は業務時間中だとしかりつけることもかなわない。
 いったい、これは何の拷問なのだ。
 速人は姿勢を正し、いつもの仏頂面でその場にいるのみである。この状況においては非常に残念で不都合なことに、彼は基本的に仕事熱心で生真面目なほうだった。

   *

 百々が西野カナを熱唱している途中で、タケとメグは連れだってトイレへと出て行った。チャンス到来。瑞香は小さくガッツポーズをした。が、歌に夢中な百々には、話しかける隙がない。二人が返ってくる前に、聞きたいことを聞かなければ。そう思いうずうずしていると、歌を途中でやめて、百々が声をかけてきた。
「どした瑞香ちゃん? 寒いの?」
 体を震わせていた理由を、室内の温度が理由だと思ったらしい。歌うものの居ないメロディが流れる。
「ううん。違くて。えっと、百々に聞きたいんだけど、昨日見せてくれたクマのキーホルダー、やっぱり二人も持ってるの?」
「うん、持ってるよ」
「他の人は?」
「ううん。三人だけ」
 第一関門、クリア。瑞香はきょとんとしている百々に、「ごめん、ちょっと気になっただけ」と口にした。
ふうんと百々は、歌の世界へと戻っていく。やがて二人が返ってきた。二時間だけのカラオケは、あっという間に時間が経ち終わった。
「楽しかったねえ!」
 カラオケから出た途端、百々が言った。座りっぱなしで疲れたのだろうか、うーーんと大きく伸びをしている。
「ふふ、次はいよいよ、ケーキだね!」
「食いすぎるなよ、メググ」
「はあ~い。タケこそ、ちゃんと元とりなよ」
「善処する」
「タケはいつも、ぜんぜん食べられないもんねえ。そんなんだからガリガリなんだよお」
「別に、私は普通だって」
 背後のやりとりに聞き耳を立てる。どこから、どんなヒントが飛び出すかわからない。瑞香は携帯を取り出し、時間を確認した。五時半だった。
「よし、じゃあケーキ屋へ行くよー」
 瑞香に向けてだろう、百々が声をかけた。四人で連れ立って歩き出す。瑞香はもちろん道がわからないので、ついていくだけだ。二人のどちらかと話たいと思っていたが、隣に来たのは百々だった。
「ふふ、なんか嬉しいな」百々が笑う。
「何が?」
「瑞香ちゃんとお出かけ出来て。ねね、甘いものは好き?」
「もちろん」
 そうだよね、お菓子も作るんだもんねと百々が言う。料理が趣味と言っただけで、作れると言った覚えはないが、確かに作れる。
 四人は、昨日瑞香が訪れた繁華街を歩いていく。お店の窓ガラス越しに商品をみて、あれが可愛い、それも素敵と会話が始まった。なんだか、こうしていると女子高生みたいだ、と瑞香は思った。いや、もちろん今までだって女子高生だったのだが。
「あ、見てみてこの新作コート! 今狙ってるんだー。似合うと思わない?」
「ほんとだ、良く似合いそうーって、高!」
「ふふっ。これ買うために、今頑張ってんだよねー」
 メグがお店のガラスに張り付くようにして、赤いコートを眺めていた。自然、全員の足が一瞬だけ止まる。高級そうなコートだった。タケはお金持ち。メグはアルバイトをしている。と、昨日の情報を思い出した。
 また歩き始めてしまったので、値段を確認する暇がなかった。今のコートは果たして、女子高生が一般的なアルバイトで買える値段のものだったのか?
「そういえばさ」
 隣を歩く百々が、ぼそりと小さな声で言った。
「昨日、小林が瑞香を訪ねてきたけど、あれ、なんで?」
「あ……っと」
 瑞香は素早く頭を回転させた。
「えっとね、昨日たまたま公園で、私の忘れ物を拾ってくれたって用事だった」
「ふーん……」
 どこか疑り深い様子だ。どきりと心臓が跳ねる。おかしな調査をしていること、そしてその一環として今ここにいること。それら二つがばれてしまったのではないか……。そんな不安が瑞香をよぎる。
「ね、あいつさ、結構顔良いよね」
 ところが百々の口から飛び出したのは、そんな言葉だった。拍子抜けした瑞香は、少しずっこけてしまう。
「あー……ええと、うん、まあ」
「おやや、そのあいまいな言い方はまさかっ」
「いや、違う違う、ほんと興味ない!」
 言い切ってから、和樹の顔が頭をよぎった。違う、と断言したが、嫌いではない。メイクした瑞香を、可愛いよと言ってくれた。君が抱えているものは誰にでもあると、励ましてくれた。
「ま、あいつはちょっと、やめといたほうがいいかもだけどね」
「え?」
「結構よくない噂あるし、狙っている子も多いからさー。ライバル過多ってやつだね」
 百々が腕を組みながら、うんうんと頷く。
「よくない噂って、どんなの?」
「んー? それは私の口からは言えないなあ」
 くいっと、百々は赤縁のメガネを持ち上げた。教えてよ、と続けてせっついても、ダメーっと拒絶されてしまった。この話の流れなら、女を捨てただとか、そういった話だろうか? もやもやと瑞香の心を、まだ知らぬ和樹の良くない噂が支配していく。
 そんな自分を自覚して、はた、と気づく。あれ、私、和樹のこと気になってる? いや、まさかまさか。
「お二人さん、早くー」
「ダッシュだよ、ダッシュぅ~」
 タケとメグの声に顔を上げると、彼女たちが立ち止って手招きをしていた。すぐ横には、青い屋根の割と大きな建物。看板には、有名チェーンのケーキバイキングの名前があった。
「瑞香ちゃん、行ったことある?」
「ううん。地元にはなかったから」
 瑞香が答えると、百々は満面の笑みを浮かべた。
「よかったぁ。じゃあ、お初なんだね! よし、レッツゴー」
 今度はタケが店員に対応し、席に通された。初めてのご利用ですかときかれ、百々が一応説明お願いしますと答えた。90分食べ放題、お皿は新しいものを、食べ残しはご遠慮ください等々、基本的な説明を受けた。
「よーし、じゃあ、行きますかあ」
 メグが立ち上がり、後に続いた。店内には、百々達と同じ制服の生徒もたくさんいた。瑞香と同じ制服は、当然いない。他校の制服も見かけるが、ブレザータイプばかりだった。このあたりは、セーラー服が少数なのかなと、瑞香は自分の服装を少し場違いに思った。
 カウンターに並べられたケーキは、色とりどりで鮮やかで、可愛い! と思わず叫んでしまうようなものばかりだった。瑞香は悩んだ末にいっそ悩むくらいならと、全種類制覇をめざし端から一つずつ皿に乗せていった。大好物のいちごのショートケーキは二個置いた。
 ずっとついてくる人がいるなと隣を見ると、それはメグだった。目が合うと、「えへへ~」と言いながら照れたようにはにかんだ。彼女の皿の上は、ほとんど瑞香と同じだった。ただ、彼女が二つ置いているのはいちごのソースがかかったレアチーズケーキだった。
 全種類制覇の半分もいかない場所で、皿の上はいっぱいになってしまった。メグと一緒に席に戻る。百々とタケはすでに席についていた。百々は五個。タケは三個のケーキを皿に乗せている。
「うわ! 瑞香ちゃん、メググと互角なの!?」
 瑞香の皿の上とメグの皿の上を見比べて、百々がぱちくりと驚いている。
「ほんとに、ほんとに食べ切れるの? 瑞香ちゃんすごい華奢じゃん! メグと違って!」
「どーいう意味よお!」
 メグが抗議の声をあげる。しかし、元来のほんわりした雰囲気がそのままでて、まったく怖くないなと瑞香は思った。
 メグの体格は、確かに自分とは違う。身長は彼女より高く、百五十センチ台の中ほどはありそうだが、体重は六五キロほどだろう。
「ふーんだ。いいもん。メグ、けっこうモテるんだからね!」
「はいはい」
 メグが席に着くと、ぎしりとイスが軋んだ。あまりの間の良さに、思わず瑞香まで笑ってしまった。全員に笑われ、メグがむくれた。もちろん、冗談でだ。
「もう、瑞香ちゃんまで笑わないでよー! そんなに甘いもの食べたら、瑞香ちゃんだってすぐにメグと同じになるんだからあー」
「あう、それはいけない、ケーキ戻してこようかな」
「だーめ! それはマナー違反ですう。さあ、一緒に太ろうっ」
 ふふっと、和の中にふんわりした笑いが生まれた。瑞香は、メグと親しく話したのはこれが初めてだと気が付いた。
 瑞香が席に着くと、全員フォークを手に取った。夢中でケーキを頬張りながら、顔を上げると、同じように笑顔を浮かべ、恋の話をし、自分にこの街の紹介をしてくれ、教師の悪口を言うような、女子高生たちがいた。
 しばし、調査を忘れた。
 瑞香は甘いものが好きだ。前の街では、お気に入りのケーキ屋が二軒と和菓子屋が一軒あって、ローテーションで通っていた。手軽に変えるコンビニの菓子やケーキも好きで、体に悪いのであまり多くは食べないようにしていたが、チェーン店ごとの特色や味の違いを分析するほど好きだった。
 けれど、一緒に食べる友はいなかった。日々のストレスや、夜の散歩の疲れを、一人紅茶かコーヒーを淹れ、のんびりと癒していただけだ。もちろん、その時間の至福さに変わりはない。けれど――。
「おいしいね」「うんおいしいね」「あ、それ一口頂戴」「だーめ、自分で取ってきな」「えー。あ、瑞香ちゃんまた一緒に取り行こお!」「うん、いいよー」「とりすぎないようにね」「ふふ。お店を潰す覚悟で行くよ!」「ほんとにつぶれたら、あんた困んじゃん」「あ、かびーん」
 メグと連れだって立ち上がり、一緒にケーキを選ぶ。瑞香は季節限定の洋ナシのタルトを皿の上に運び、メグはそれを二つ取った。

   *

「……さん、……ってば」
 声が聞こえる。自分の名前を呼ぶ声だ。目を開けると、懐かしい顔がそこにあった。
「……鈴」
 呼びかけると、彼女はニコリと笑った。長く豊かな黒髪が、風に揺れる。いったい、ここはどこだろう。見渡すと、一面が白い壁だった。ああ、そうか。これは夢なんだ。速人は思った。自分でここが夢だと認識している。ならば、夢を自由に操れるかもしれない。そう思い描くと、鈴のとなりに、ひょこりと小さな体が生まれた。大きな瞳をぱちくりとさせるその姿は妖精のように可愛らしい。
「瑞香」
 呼びかけると、小さな体はニコリと笑った。鈴と並ぶと、本当にそっくりだった。
「速人さん、速人さんってば」
 ゆっくりと瞳を開くと、そこはもう現実の世界だった。直前まで、何かいい夢を見ていた気がする。
「……って! 俺! 寝てたのか!?」
「はい。それはもうぐっすりと」
 凜子がきっぱりはっきり、悪魔のような笑顔で続ける。
「勤務時間中に居眠りとは、大層なご身分ですよねー。勤務時間中に、居眠りとは」
「うっ」
「ハーゲンダッツ十個で良いですよ。私が欲しいと言ったら、コンビニに駆け出して買ってきてください」
 お前だって勤務時間中に趣味の話で楽しんでいたじゃないかと反論したところで、凜子には桜の心を開くためという鉄壁のカードがある。速人はあきらめて、桜に向き直り、深々と頭を下げた。
「目の前で寝て、失礼をした。申し訳ない」
「い、いえ……っ。あの、うちはむしろ、寝てくれて助かったと言いますか……。より深い語らいあいが出来ましたし」
「そうか……。で、そろそろ本題に入りたいんだが」
 速人は知らない方がいい世界の匂いを敏感に感じ取り、神妙な顔で頷いて見せた後、話題を変えた。
 桜は顔色を変え、生真面目な表情を見せたが、最初とはくらべものにならないくらい、穏やかな感情が見て取れた。
「答えたくないことは、無理しなくていいからね」
 凜子が言うと、桜は彼女を見て柔らかな笑みを浮かべた。この態度ならここは、やはり凜子に任せてしまうのが良いだろう。机の下で、速人は凜子の肘を肘でつついた。
「えっと、まずはお父さんが恨まれているとか、トラブルに関して何か知らない?」
「……知りません。あの人とは、あまり会っていませんし」
「会っていない? 朝は合わない?」
「はい。うちが起きる時間には、あの人、もう会社に行っていますから」
 桜は最初と比べると、ずいぶんと口数が滑らかなようだった。ただ、父親のことをあの人と呼んでいることが、速人は気にかかった。凜子と桜の会話の切れ目を狙い、疑問を投げかける。
「桜さん。あんたは、父親と不仲だったのかい?」
 桜の顔が緊張で強張った。何かある。速人は、先を焦ることなく、静かに時を待った。しかし、ようやく桜の口からこぼれたのは、「そんなことないです」という否定の言葉だった。
 そんなことないわけないだろ! 心の中で速人は咆哮したが、口に出してしまえば桜の心情が悪くなることは明白だった。速人はまた、凜子の肘に合図を送った。
「桜ちゃん。あんまり、話したくないことかもしれないけど、事件の解決の為に必要なことかもしれないの。私を信じて、教えてくれないかな?」
 桜は凜子をじっと見つめて、やがて長い溜息を吐いた。
「……はい。うち、あんまり仲が良い親子ではなかったです。……あの人、汚いですから」
「汚い?」
「はい、とっても汚いです」
 思春期の女の子が、父親の後に風呂に入るのを嫌がったり、洗濯物を別々にしたりと言った話をよく聞く。この年代の子はまったく、と速人が内心毒づいていると、凜子がしんみりとした口調でいった。
「そう……。桜ちゃん、何か知ってたんだね」
「はい……」
 桜は大きく息を吸う。何度も視線を泳がせてから、深く息を吐いた。
「私の父は、……若い女の子が、好きすぎたんです」
 隣で凜子が、何か納得したように、長い溜息をついた。
「ん?」
 思わず驚いた声を上げてしまう。速人には、意味が分からなかったからだ。そんな速人を凜子が、とても険しい顔つきで睨んできた。
「今のニュアンスで、分からなかったんですか? 桜ちゃんのお父さんは……売春をしていたようですね」
「なっ……」
「あらら」
 心底馬鹿にしたような口調。速人は舌打ちした。そんな風に言われたって、一発でわからなかったものはしょうがないじゃないか。大体、女同士だからだろう。こんなことがわかるのは。
 凜子に不満をぶつけていてもしょうがないので、速人は自分が理解したものを、ゆっくりと飲み込むことにした。
 桜は、父親が女子高生を買春していることを知っていたのだ。汚い。そう言った心理も、今ならわかる。父親が自分と同じ年の頃合いの娘と肌を合わせている――しかも、金の力で――。そんなことを知っていたら、汚いとしか思えないだろう。
 桜は泣きそうな顔をしていた。凜子は桜の手に手を伸ばし、ふれた。包み込むように置かれた手。凜子の口から、子守唄のような言葉がこぼれる。
「大丈夫。私たちは、大丈夫。桜ちゃんは、綺麗だよ。とても。ねえ、辛いかもしれないけど、それでも、そのお話をもっともっと、よく聞かせてもらえないかな?」
「……はい、はい」
 泣くかな? と速人は思ったが、彼女は泣かなかった。桜はただ、力強く一度、頷いた。

   *

 外に出ると、空気の中に甘さが混じっていないことにホッとした。
 邪魔にならないように、また二列になって歩き出す。行きと違って、瑞香の隣に来たのはメグだった。前を歩く百々とタケとの距離を、かなり詰めながら、四人は一塊になって歩いていた。
「ふう、食った食った」
「ちょっとタケそれ、おやじっぽいよ」
「そうそう、百々の言うとおり。それに、タケはいうほど食べてないしい」
「いや、食べたよ。一生分は、食べたね」
 タケが神妙な顔で頷くと、メグは信じられないとつぶやいた。それから瑞香の方を振り向き、「ねえ、信じられないよねえ瑞香ちゃん」と親しげに声をかけてくる。
 もちろん、瑞香は信じられなかった。確かにお腹はいっぱいだ。甘いものはしばらく見たくない。けれど、三日もすれば自分がころりと、「あー、チョコ食べたいなー」と言い出すに決まっていることを、瑞香はきちんとわかっていた。
「うん、信じらんない」
「ほらあ」
 メグが勝ち誇ったが、タケは相手にしない。「糖尿病に気をつけなよ」と半ば本気で心配してきただけだ。
「ふふ、にしても、瑞香ちゃんがこんなに甘いものがいける口とはね。良いライバルができたよお」
 反応に困ってしまい、瑞香は苦く笑った。そんな様子を見て百々が、「どうして、そんなに甘いもの食べるのに、痩せてるのかなー」と、瑞香の体を不思議そうに眺めてくる。
「うーん。普段は食事に気を使っているからかなあ」
「なるほど、さすが料理上手」
 百々がにやりと笑うと、「え、瑞香ちゃん料理上手なの?」とメグが瞳を輝かせた。「お菓子も作れる?」
 どうしてみな、そんなにお菓子作りばかり気にするのだろう。瑞香は笑いながら、「うん、ほどほどに」と答えた。
「すごーい、女子力高いー」
 メグがきらきらとした瞳を返してくる。瑞香は返答にまた困ってしまう。本当のやせている原因は、料理の腕前ではなく日々の鍛練だろう。自分のトレーニングがかなりのカロリーを消費していることを、瑞香はきちんとわかっている。それに、本当はみんなが思うより体重もあるだろう。ただ筋肉で引き締まって見えるだけだ。
 話は、市販のお菓子に飛んだ。どんなお菓子が好きかと問われ、チョコレートが好き、特に今の時期に出てくるサツマイモの味、と瑞香が答えると、メグや百々がわかるわかると共感してくれた。あのメーカーからでた何がおいしかった。あれはおいしくなかった。その話が白熱している最中、タケは程よいタイミングで突っ込みを入れたり、呆れて見せたりする。それがいちいち間がいいので、みんなで笑ってしまう。
 なんだか、とても心地が良い。瑞香は自分が、この輪の中にここまで馴染めるとは思ってもいなかった。転校する前と同じように、学校の中だけの付き合いで、一人ぼっちにならないために一緒にいるだけで、家事や勉強を理由に放課後はいつものように過ごすだろうと考えていた。
 だが、一歩踏み込んでしまうとココは、なんと居心地の良い場所なのだろう。
 瑞香はいつからか、心の底から笑顔で話していた。
「よし、じゃあここで解散かな?」
 百々が学校近くの分かれ道でそういった。瑞香とタケは右の道を、百々とメグは左の道を行くらしい。手を振って、また明日と声をかけた。瑞香はタケと二人きりになって、急に、本来の目的である調査のことを思い出した。タケは瑞香に話しかけて来ようとはせず、黙っていたからだ。
 あたりはもう、すっかり暗くなっていた。夜が始まったころという表現がぴったりだ。さて、どんなタイミングで話しかけよう。何を話題にしよう。そう考えていた瑞香の耳に、思いもがけない言葉が飛び込んできた。
「あんたさ、このグループに向いていないと思う」
「え?」
 それは、タケの声だった。クールで、何かを切り捨てるような言葉。瑞香は目をぱちくりさせて、隣を歩くタケの顔を窺った。彼女の瞳はまっすぐ前を向いていて、瑞香が隣にいることすら知らないような顔をしていた。けれど、紡がれる落ち着いた声は、確かに彼女に向けられている。
「百々やメグと仲良くしてると思ってる? まあ、それを否定することはしないけど。でも、あたしはあんたと上手くやれる気がしない。このグループを離れてほしい」
 瑞香は口をつぐんだ。ああ、そういえば、女子の世界は楽しいことばかりではないと聞いたことがあったな。複雑な派閥争いや、腹の底の探り合い、陰湿なやり方の嫌がらせ等々。
 それらの事柄をかんがみれば、タケのようにストレートに、『お前が気に食わない』と言ってくるやり口は、嫌いではない。それを実際に本人に口にできる神経を、瑞香は信じることが出来ないが、それでも嫌いではない。
「……私の何が嫌?」
 瑞香は訪ねてみた。このグループを、というよりも、今はタケやメグのそばを離れるわけには行かない。
 タケは相変わらず前を見つめたまま、
「嫌だとか、そういうのじゃないの。ただ、合わないって思うだけ」
「……そんな曖昧な」
「……仕方ないじゃん。とにかく、別のグループに行きなよ。委員長のとことかさ」
 瑞香とタケは歩き続けた。そのうち、再び分かれ道にたどり着いたとき、タケは何も言わずに左に曲がった。瑞香の家は右だった。別れの言葉を口にされなかったので、返す言葉ももちろんなかった。何も言わずに瑞香も、自分の家路へと足を運んだ。
 嫌われていても、明日から、また調査をしなければ。
 瑞香は思った。ただ、それと同時にその言葉は、自分があの居心地の良い空間に、まだ居ても良い言い訳なのだとも、彼女は気がついた。

   *

「小さいころ、うちは、父を結構尊敬していました」
 桜の語り初めは、このような言葉だった。速人と凜子は静かに、彼女が紡ぐ言葉に全神経を集中させていた。
 小さな少女の告白。それに真剣に耳を傾けないのは、失礼としか言いようがない。
「ばりばり働いていて、良いお給料をもらってくる。自分の家が、他人より豊かなことは、なんとなくわかってしまうじゃないですか。うちは、それが少し自慢でした。欲しいものは大抵なんでも買ってもらえたし、我慢しないで済んだから。
 うちが中学生のとき、お母さんが死にました。病気でした。そのときから、あの人は少しずつ変わってしまったんです。今まで以上に仕事に打ち込むようになって。……うち、寂しかった」
「そうなんだね、辛いね」
 凜子が相槌を入れると、桜は気丈にも微笑んで見せた。
「でも、その頃でも、たまには構ってくれたんですよ。休日に、昔お母さんと三人で行った遊園地に行こうかって、誘ってくれたり。……まあ、友達と約束があったんで、断りましたけど。行っておけばよかったなあ……」
 桜は大きく息を吐いた後、続けますねとつぶやいた。
「友達と遊ぶのが楽しくなったうちと、仕事に熱意を注ぐあの人は、どんどん疎遠になってしまったんです。家に帰ってもだれもいないから、うちはだんだん夜遅くまで遊ぶようになって……それで、半年前だったかな。見かけちゃったんです。
 カラオケ店に夜遅くまでいて、友達が会計をしている間に、うちはトイレに行ったんです。用をすまして、でも、出て行ってすぐに身を隠しました。あの光景は、ずっと忘れられません。あの人が、女子高生と腕を組んで、カラオケボックスに入っていったんです。
 まさかって思って。見間違いだって思って。……だから、ゆっくりトイレから出て、廊下を通るときに、そっとその部屋をのぞいてみたんです。そしたら……っ」
 桜は顔を伏せてしまった。凜子が肩に手を置き「その先は言わなくていいよ」と優しく声をかけた。
「つらいと思うけど、そのカラオケ店ってどこか、教えてもらえる?」
「は、はい。駅前の、『カラオケ・バババ・バン』ってお店です」
 凜子はメモ帳に、ペンを走らせた。速人もそれに倣い、ずっと広げていた手帳にペンを手に持ち、メモをした。
「その相手の女子高生なんだけど、どんな子か覚えていることある? 制服で学校名とかも」
「はい、えっと、見た目はすごく華奢な感じで……背が高くて、ほっそりしていました。制服はブレザーで、あれは確か」
 桜が口にしたのは、瑞香が通う高校の名前だった。速人は一瞬だけためらってから、その名前もメモに残した。
 瑞香は確か、売春組織を調査しているといってた、この事件にも、それがかかわってくるのだという可能性が、跳ねあがったような気がした。最悪だ。危険すぎる。
「速人さん、シャーペンが折れちゃいますよ?」
 凜子の声にはっとする。いつの間にか、強すぎる力でペンを握りしめていた。さすがに折れることはないだろうが。
「それで、それを目撃したほかに、何か気になったことはないかな?」
「……その日から、あの人を避けるようになって。それとは逆に、やっぱりそういう事をやっている人と意識するようにもなって……。気づいたのは、毎日が少し、楽しそうだということ」
「楽しそう?」
「はい……。生き生きしているというか、なんというか。思えば、お母さんがなくなってから、そんな表情をまったくしなかった時期があったんです。けれど、やっぱりここ半年ぐらいで、結構見せるようになってて。……寂しさ、埋まったのかな……」
 桜のその言葉の背後には、どうして自分じゃと隠れているような気が、速人にはした。どうして自分がいるのに、と。
「そっか。……桜ちゃん、甘いものは好き?」
 凜子が唐突に口にしたのは、この場にまったくそぐわない質問だった。桜も戸惑ったのだろう、不思議そうな顔で返事を返す。
「え? はい……」
「よしっ!」
 凜子は実に嬉しそうな顔でガッツポーズを見せると、スーツから名刺入れを取り出した。中から一枚名刺を取り出し、裏返して白紙の部分に、何かを書き始めた。のぞいてみると、それは十一桁の番号と、かろうじて動物だとわかるへたくそな絵だった。へたくそな動物からは吹き出しが飛び出しており、「よろしく!」と丸文字で書かれている。
「はい、これ、私の個人的な連絡先。今度、おいしいミルフィーユをおごってあげる。ちょっと遠いから車になるけど、ちゃんと送り迎えするからね」
「え?」
「また、お話しようよ。私、桜ちゃんとこれっきりなんて嫌だなって思ったの。趣味の合う友達ってなかなかいないし。……って、友達面するには、ずうずうしい年齢かな?」
「そ、そんなことないです!」
「あはは、優しいね、ありがと」
 凜子が名刺を差し出すと、桜はおずおずと受け取った。まるで宝物を扱うような指先で、そっと机の隅に置く。
「……ありがとう、ございます」
「こちらこそ、ありがとう」
 凜子が薔薇のような笑みを浮かべる。速人は不覚にも、その表情に見入ってしまった。
 署に戻り報告を終え、速人は再び仮眠室へと向かう。凜子は何食わぬ表情で身支度を整えて、あっさりと帰宅してしまった。

   *

 翌日教室にいき、昨日と同じ様に三人に挨拶をした。百々とメグは昨日よりも明るく親しげに返事を返してくれた。タケは、瑞香の方を一瞥したあと、興味がなさそうに「おはよ」と言った。気持ちが暗くなる。適当に三人の会話に混ざった後、先生が来たので席に着いた。
 どうして、自分の気分が暗くならなければいけないのだ。
 瑞香は自問自答する。調査の為に彼女たちのグループに踏み込んだ。ただそれだけだ。なのに普通の少女のように、なぜ仲間に入れてくれないと一喜一憂する必要がある?
 昼休み、百々にお昼に誘われたので、また一緒に食べた。いつか話した、白鳥ちせらというタレントが主役の恋愛ドラマの話になり、盛り上がった。瑞香は昨日、夜のパトロールに出る代わりにパソコンでそのドラマを見ていた。
 和樹がやってくることもなく、昼休みが終わる。
 瑞香はまだ、二人の少女のうちどちらが殺人事件に関わるクマのぬいぐるみの持ち主なのか、わからないでいた。援助交際をしている少女なら、その雰囲気があっても良いものなのに、メグもタケもいたって普通の女子高生のように思える。いや、それは自分だからそう見えるだけかもしれない。瑞香は考える。自分は今まで、ずっと『そういったこと』を避けてきた。恋の話すらしたことがない。だから、分からないだけかもしれない。本当は分かる人には分かって、ああこいつはやってるな、となんとなく判断出来るのかもしれない。
 とりあえず、タケにもう一歩近づいてみよう。瑞香はそう決心して、放課後を迎えた。素早く立ち上がり、タケの元に向かう。彼女は驚いた顔を一瞬見せて、座った状態で瑞香を見上げた。
 机の上にはカバンが用意されていて、中に教科書を詰めている途中だったようだ。
「あのっ! 昨日、帰り道結構途中まで一緒だったよね? 一緒に帰らない?」
 笑顔で言う。タケは、あんたバカなのという顔をしてから、あんたバカなのと口にした。
「ば、バカじゃないもん!」
「あっそ。……ま、いいけど」
 タケは立ち上がり、教室から出て行った。ダメだと言われなかったから、ついて行ってもよいのだろう。瑞香はコガモのように後を追った。百々とメグは今日、それぞれ部活動とアルバイトがある日と昨日言っていた。
 タケは背か高く体重が軽い、ひょろながだ。瑞香に遠慮することなく、自分のペースでぐいぐい進んで行ってしまう。だが、瑞香も持ち前の体力で、苦労することなく彼女のペースに合わせることが出来た。
「あのさ、昨日、なんかわからないけど、私と合わないっていったよね?」
「……いった」
「それって、本当になんでなの? 私は、百々やメググと楽しく過ごせていると思うけど……」
 タケは急に立ち止まると、すぐ横に来ていた瑞香を見下ろした。
「それは、あいつらの本当をわかってないからだよ」
 まさか、それって売春? と聞きかけた言葉を飲み込む。多分、違う。今しているのはそんな話じゃない。
「……どーいう意味?」
「さあね。ただ、私には、あんたはとても純粋で良い子に見えるから。だから、違うんじゃないかと思うんだ」
「……私、良い子じゃないよ? ずるいよ?」
 もっと言えば、悪い。悪いから、償わなければいけない。タケは瑞香をじいっと見つめた後、ため息とともに、「そういうこと言うのは、良い子だからだよ」と吐き出した。
 歩き出す。今度はその背中に、ついてくるなと書いてあった。今までよりもずっと早いスピードだったからだ。
 瑞香はその言外の言葉に従い、彼女を追いかけるのはやめにした。
 ほどなくして家に着く。速人は当然だがいなかった。リビングにある共用パソコンの前に座り、インターネットを開く。売春という文字を打ち込むと、想像以上のヒット数が出た。中身を開こうとしたが、指先が震えた。だが、たかがWebサイトじゃないかと思い切ってクリックした。すると、フェルタがかけられており、アクセスは制限されていた。
 瑞香は今までこのパソコンに、アクセス制限をかけられていることを知らなかった。速人が行ったのだろう。なんだか不思議な気持ちだった。自分が今まで、本当に危ないサイトやダメなサイトに入ろうとしなかったこと。そして、速人がそれを許していなかったこと。この二つを、初めて知ったのだ。
 瑞香は一応、検索履歴を消去してから、パソコンを落とした。 
 ストレッチで体を左右にひねりながら、自分の部屋を目指す。机に座って、今までの話をまとめてみることにした。
 時系列の順に、言葉を並べてみる。まず、売春のグループがあり、売春をしていた。おそらく、その客のうちの一人が死体で発見された。死体には、手作りのクマのキーホルダーが関わっている。そして現在、私と和樹は売春のグループを潰そうと動いている。
 瑞香はコツコツとシャーペンで、死体の部分も叩いてみた。そうだ、この部分だけが、私にとってリアルではない。何も知らないんだ。客だということも、なんとなく状況証拠から推測しているだけに過ぎない。
 顔面から血の気が引いていくのがわかった。学校後すぐに帰宅したので、時刻はまだ四時にもなっていない。瑞香は出かけることにした。制服を脱ぎ、タイツとショートパンツをはき、上にはチェニック風のワンピースを着た。パーカーも羽織る。スニーカーを履き外に出ると、少し肌寒かった。けれど、耐えきれないほどではない。
 死体の発見場所である河川敷までの道順を、スマートフォンで調べて、地図を頼りに街を歩いた。まだ、引っ越してきて一週間もたっていないのに、ずいぶんと時間が過ぎた気がする。だいたい、こちらに来てから異変が多すぎだ。
 誰に向けたものかわからない愚痴を脳内でぶちまけながら、現場である河川敷へとたどり着く。どこが事件現場だろうと、川にそって歩いていけば、不自然に囲われた箇所があり、すぐにわかった。立ち入り禁止テープの手前には、遺族が添えたものなのか、菊の花束が二束ある。
 問題は、その手前の人影だった。背の高い、若い男だ。ぽつんと何を考えているのかわからない表情で、ぼんやりとテープの中を見下ろしている。瑞香は、その人に見覚えがあるような気がした。この街にいる知り合いは多くない。はて、誰だったろうか。
 考えていると、男は背中に回っていたボディバックを引き寄せ、中から灰色のニット帽を取り出した。それを頭にかぶると、この場を立ち去る気なのだろう、瑞香の方を振り返った。
「んーっ!」
 瑞香は男に駆け出し、思い切り膝蹴りを繰り出した。わざと体の端を狙い、簡単に避けられるようにしたが、男は反応が一瞬遅れて、腰に攻撃がかすった。
「よっすよっす、元気?」
「元気じゃねーよ! いきなりなんだよ!」
「それは良くないなあ少年。元気がないと何にもできないぞ?」
 一度勝った相手には強気に。それが瑞香の信条だ。数日前に集団で和樹を囲んでいた連中。その中の中心人物だった少年は、どうやら瑞香に多大な警戒心を抱いているらしい。彼女からそっと距離を置き、両手を前にだし、身構えた。
「あ、もしかして本当に病気だった? 同じクラスって言ってたのに、全然顔だしてないよね」
 瑞香が気さくに話しかけると、少年は苦い顔をしてうなり声を上げた。
「うるせえ、てめーには関係ないだろ」
「ま、それもそうだ」
 瑞香は、明るい場所で見る少年の顔に、かすかな既視感を覚えていた。なんだっただろう。少しきつめの鋭い瞳も、すっと通った鼻筋も、ひょろっとした背の高さも、何かに似ている気がする。
「な、なんだよ、人の顔をジロジロと」
「んー……? 別に。それよりさ、なんでここにいるの? ここ、殺人現場だよ」
「知ってるよ。あんたこそなんで」
「私は事件の調査中」
 少年は一瞬、唖然とした表情を見せたが、瑞香の顔を数度まばたきして眺め、何かを納得したように頷いた。
「さ、私が答えたんだから、教えてよ」
「うっせ」
 ニット帽は瑞香を置いて、足早にその場を離れていく。瑞香は事件の現場と彼の背中を見比べて、少年を追いかけることにした。事件現場は逃げないが、少年と出会う機会は少ないかもしれない。
 なぜあの場所にいたのか。瑞香は理由を考えて、ひょっとしたこの少年こそ、遺族なのかもしれないと考えていた。中年オヤジの息子。ありえない話ではない。
「……なんでついてくるんだ」
 ぴたりと背後をついてくる瑞香に、苛立った風のニット帽が言った。瑞香はにんまりと笑顔を見せて、「事件の調査中」と、返答した。
「ね、名前だけでも教えてよ。あんたとか君とか、呼ばれるのも嫌でしょ?」
 少年は少し迷ってから、「どうせクラスメイトだしな」と小さく諦めたようにつぶやくと、「武原怜(たけはられい)だ」と名乗った。その瞬間、先ほどの既視感に明白な理由がつけられた。
「ひょっとして、武原杏樹と兄妹!? いや、同じクラスってことは同じ学年だから……双子!?」
「……そーだよ、悪いかよ」
 ぶっきらぼうに言うそのしぐさには、どこか照れが感じられた。瑞香は思わず、にまにまと笑ってしまう。気持ち悪ッとつぶやかれたので、表情を引き締め自重した。
 ニット帽の少年、武原怜は、タケと顔立ちや体格が似ていたのだ。双子とはいえ男女だから、二卵性。瓜二つというほどではないが。
 なるほどなるほどと、意外な事実をしり楽しくなる。しかし、電流のようなひらめきによって、瑞香の顔面には一瞬にして険しさが生まれた。
 立ち止り、うつむく。頭はぐるぐると思考を続けている。急激に黙り始めた瑞香を心配そうな顔で武原が見下ろした。
「おい、どうしたんだよ」
「……ねえ、武原」
 瑞香はつぶやく。そして、睨み付けるように彼を見上げた。
「あんた、何か知ってるの? あの事件の犯人……ひょっとして、タケだと思っているの?」
 武原は息をのんだ。その表情を見て、瑞香の推測は確信に変わった。

   *

 二度目ともなると、仮眠室での睡眠も手慣れたものだった。起き上がってすぐに、現状把握が完了する。夢は見なかった。
 身支度を整え、デスクに向かう。早速挨拶に来た凜子も今は、一度上司に連絡をと言って、席を離れている。速人は机に座り、スマートフォンをいじっていた。画面には、『瑞香』と下の名前だけが表示されていて、下には十一桁の番号がある。電話を掛けるボタンをただ一度押すだけで、彼女につながる。
 速人はその画面を眺めながら、迷う。電話をかけてみるべきだろうか。危ないことをやっていないか、念を押すために。
「お待たせしました」
 凜子がやってきた。速人はあわてて電話をポケットにしまった。
「あれ? 取り込み中でした?」
「別に……。ニュースサイト、見ていただけだ」
 何かを突っ込まれる前に、立ち上がり、駐車場へと歩を進めた。何も言わず、凜子がそのあとをついてくる。それぞれ車に乗り込むと、発進させた。運転席に速人、助手席に凜子だ。
凜子に一言断ってまで、瑞香に電話をかけるのは気が進まなかった。そもそも、凜子がもっと遅くに帰ってきたとしても、自分は電話を掛けなかっただろうと思うのだが。
 余計なおせっかい。わかっている。だから、いつも迷ってためらって、結局は辞めてしまう。
「昨日の聞き込み、大収穫でしたね。……それと、桜ちゃん、良い子でしたね」
「そうだな」
 速人は昨日のやり取りを思い返した。凜子がとった行動。あれは、確かに善い行いに分類されるべきで、凜子は優しい人だと思う。けれど、一緒に組んだ相方の身として、一言苦言するべきだろう。
「ただな東さん――」「わかってます、踏込みすぎっていうんでしょう」
 前方から目を離さず、横目で凜子を窺う。彼女は美しい姿勢で、凛と咲いた白百合のように前を向いていた。
「わかってます、わかってます。だけど、私ダメなんです。だって私は、ああいう子を救いたくて、刑事になろうと思ったから」
「……ああいう子?」
「昔の、自分みたいな子」
 凜子は長く、ゆっくりと息を吐いた。
「私の家、実はけっこうお金持ちなんです」
「ほう?」
 速人が興味を示すと、凜子はいたずらっ子のように嫌な笑みを浮かべた。
「あ。今、逆玉、狙ったでしょう」
 反論するのも馬鹿らしい。速人は無視をして、静かにブレーキを踏んだ。信号が黄色になったのだ。凜子は不満そうな表情で、「むう」と不満そうな声を上げた。
「小さな頃はピアノを習っていました。発表会にはいつも何万円もするオーダーメイドの服を着て。それに、誕生日にはパーティーが開かれました。友達誰でも呼びなさいって言われて、クラス全員に声をかけたら、学年中のほとんどが集まったこともありました。……あ、私の友達は六人ぐらいだったんですけどね? 家が大きくて、ご飯が豪華なので、噂が噂を呼んで集まってきたようなんです」
「とんでもねえな」
「はい、とんでもないです。ゲーム機は大抵発売日の二,三か月前に持っていたので、みんなが羨ましがってました」
 確かにとんでもない話だな、と速人は思う。速人の家は、いわゆる中の下あたりに位置する、生活に困ることはない程度の家庭だ。スーパーを梯子し、節約レシピを極め、浮いた分のお金でちょっとしたお祝いの贅沢をするような、そんな家だった。
「……でも私、結構さびしかったんですよねえ」
「そうなのか?」
「はい。だって、綺麗なお洋服を着て発表会に出ても、お母さんは来てくれませんし、誕生日にパーティーがあってたくさんの小学生が遊びに来ても、お父さんの姿はないんですもん」
「ふー……ん。そんで? その話のどこに、刑事になろうと決意する場面が来るんだよ」
「はい。ある日お父さんが、脱税で捕まりました!」
「話重ッ!」
「嘘です」
「嘘なのかよ!」
 しれっと嘘だと宣言した凜子の顔は、悪魔の様な笑みを浮かべている。
「本当は、とても優しい警察官のお兄さんがいたんです。街で一番お金持ちの私の家が、心配だったんでしょうね。家を訪ねてきてくれて。そして、寂しそうにしている私に気づいてくれたんです」
 凜子は胸の前に手を結び、その手を抱きしめるように言葉を紡ぐ。
「何かと理由をつけて、彼は私に会いに来てくれるようになりました。とても親しげに声をかけてくれて、たまにお土産を持ってきてくれて。多分、あれが私の初恋だったんでしょうね。いつの間にか、ものすごく憧れていました」
「ふーん……」
「あれれ? 興味なさそうですね?」
「いや、今の話の流れだと、警察官になりたくなるんじゃないかなーっと」
「優秀すぎてうっかり出世しちゃいましたね」
「うぜえ」
 どや顔に腹が立ったので、本気のトーンで言ってしまった。凜子はそんな速人の様子に臆することなく、ケロリと笑顔でまた「嘘です」と言った。
「嘘です。ホントは、刑事って二人一組で行動するじゃないですか」
「は?」
「それが、なんか良いなあって。男の人がペアで行動するって、素敵じゃないですか」
 どうしてだよ、と尋ねようとして、凜子の腑抜けた笑顔ですべてを察した。
 知らない方が良い世界がある。
 速人は凜子をあきらめて、再び車を発進させた。午前中は、昨日いったマンションで、近隣住民への聞き込みだ。

   *

「最初におかしいなって思ったのは、あいつがバイトを辞めたときだったんだ。前はさ、駅前のカフェで店員やってて、それなりに楽しくしてたみたいなんだよ。それ、あいつ急に辞めたんだ。わけを聞くと、別にって言った。そのときはまあ、それだけだったんだけど」
 武原はそこで言葉を切ると、一口コーヒーをすすった。瑞香はそのコーヒーに、彼が砂糖もミルクもいれなかったことを信じられない目で見つめた。
「バイトを辞めた後も、あいつの羽振りに変化がなかったんだ。特に新しくバイト始めたとも聞かなかったし。ただ、夜出かける時間が多くなったなって、それだけが変化だったな」
「……ねえ、そのときにさ、雰囲気とか、変化なかった?」
 瑞香は昨日、自分がわからないだけかもしれないと思ったことを尋ねてみた。武原は、少し考え込んだ風を見せた後、「わかったかわかんないか、わかんないな」と実に微妙な返事をした。
「ああでも、わかったのか。だから、わざわざあんなことしたんだし」
「あんなこと?」
「つけたんだよ。あいつの後」
「ふむ」
 瑞香は、それはナチュラルにストーカーではないかと思ったが、機嫌を損ねられて口をつぐまれては困るので、「実に心優しい感心な兄だな」という面で、神妙に頷いて見せた。
「そしたら、ま、そういう感じだ」
「そういう感じとは?」
「中年オヤジと仏頂面で腕組んでた。あと、物ねだるときすっげー媚びた顔してた」
 苦虫をかみつぶした顔で語る武原に、瑞香は憐みの視線を向けない訳には行かなかった。
 こいつ、絶対シスコンだ。
 心の中でそう思ってから、そういえば、他にも誰かシスコンがいたような気がするなと引っ掛かりを覚えた。
「で。問題は、そのオヤジの顔だ。俺は初めて見たときから今まで、忘れたことがないよ」
「もしかして」
 瑞香は、武原の言葉の先を読み取り、続けてしまった。
「殺されたっていう、あの顔?」
 武原はただ力なく目をそらした。認めたくないことを、肯定するだけの力がないのだ。瑞香は、自分が注文したオレンジジュースに口をつけた。果汁30パーセントほどのそれは、口の中に張り付くような甘さを残した。
「…………確かめようよ」
「は?」
 武原は顔をあげた。瑞香はニッと笑って見せる。
「ちょうど、私も相方がいなくて困っていたとこだったの。一緒に、調べてみようよ。はっきりさせようよ。……私は、警察につけ口したりしない。もしも……そうだったら、タケには自首をしてもらおう? そうしたら、未成年だもん。高校生だもん。重い罪には問われないよ」
「……お前って……」
 武原は、瑞香の顔をじいと見つめた。その瞳には、不思議そうな色が混じっている。
「なんか、悪い奴じゃねーんだな。……俺さ、どうしていいか分かんなかったんだよ。そんなことするはずねーとも思うし、もしかしたらそうかもしれないとも思うし、すっげー不安で、何していいか分かんなかった。でも、あんたの言うとおりだな。そうやって、行動したほうが、いい結果になりそうだ」
「私が悪い奴じゃないって、トーゼンでしょ」
 頬が熱くなっている。瑞香はそれがばれないように、そっぽを向いて言い放った。
「だって、私は正義の味方だもの」
「ふうん」
 武原は馬鹿にしたような返事を返してきた。瑞香はいつも通りの相手の対応に、いっそ気持ちよさすら覚えていた。
 瑞香と武原はそれから二人で、作戦を立てた。どうやらタケはいつも、一度家に帰って身支度を整えてから出かけるらしい。武原と瑞香の家の位置を確認したところ、それほど離れていないことがわかった。
 今日はタケの『アルバイト』があると思ったら、武原がすぐに瑞香に連絡することになった。見つかりにくく玄関の動向がわかる裏口の位置を教えてもらったので、瑞香はすぐにそこに向かう。
 タケが出かけたら瑞香が尾行を開始し、後から武原が家を出て瑞香と合流するという手筈になった。
「杏の前に俺が出て行ってもいいけど、やっぱりちょっと不自然だもんな。悪いけど、しばらくの間は一人で頼む」
「妹のこと、杏って呼ぶんだ」
「なんでもいいだろ」
 少し照れたような言い方に、瑞香はくすりと笑い声を立てた。立ち上がり、伝票をつかむ。レジで割り勘をして外に出た。武原と別れ、今夜の予定を考える。今日にでも、彼から連絡が来るかもしれない。そうなれば、落ち着いてはいられないだろう。早めに晩御飯を済ませお風呂にも入っておくべきだろう。
 武原の話では、タケは大体夜の8時ごろ外出することが多いようだ。一緒に歩いていた男性は、仕事帰りのサラリーマンに見えたというから、相手に合わせているのだろう。
 家に帰り、冷蔵庫を開ける。食材はもうあまり多くなかったが、今日は買い物に出かける余裕はない。ネギと卵とひき肉があったので、チャーハンを作ることにした。栄養バランスが悪いので、野菜たっぷりの即席スープをプラスしようと取り出した。
 エプロンをつけ、包丁を握る。とんとんとんとリズミカルな音が、一人きりの室内に響く。そのとき、電話が鳴り始めた。瑞香は包丁を置き、手についていたネギを払い、電話を探して音のする方へ近づいた。
 携帯はカバンの中だったはず。そう思いながら中をあさっているうちに、音が止まった。と、思うと、すぐにまた鳴り始めた。どうやら電話の主はよほど強引な性格なのか、緊急の用事があるらしい。
「み、瑞香ちゃん! 大変!!」
 通話ボタンを押すと、耳がはじけるような声が飛び込んできた。この声は、百々だ。電話越しの声は初めてだけれど、甘ったるい砂糖菓子のような女の子の声。間違いない。
「も、百々ちゃん!? どーしたの!」
「う、うん。今ね、この間みんなで行ったカラオケボックスにいるんだけど、なんか急に怖そうなお兄さんがたくさん入ってきて……っ。こわ、こわくて」
「え!? だ、大丈夫なの?」
「いまのところは。トイレに行くってトイレに行ってるから、そんなに長く話せないの。二人一緒には席を立たせてくれなくて……」
「誰がいるの?」
「メググと二人で来たの。ちょうど帰りが一緒になって……」
「敵は何人?」
「5人。みんな怖そう。ど、どうしよう……っ」
「今行く!」
「……っ! あ、ありがとう。そろそろ戻らないといけないから、切るね」
 電話が音を立てて切れた。瑞香は立ち上がり、エプロンを脱ぎ捨て、素早く身支度を整える。火の元は使っていなかったことを確かに思い出すと、そのまま家を飛び出した。
 走る。足がもつれてうまく進まない。どうして、自分はこんなにも焦っている? 瑞香は自問自答する。
 答えはすぐに出た。今の状況は、容易に最悪の展開を想像できるからだ。
 犯される――。
 私の無力で、友達が犯される。その恐怖が、瑞香を極限まで恐れさせていた。唇を噛みしめる。もっと、もっと、もっと速く。瑞香は走り続けた。もう、足がもつれることはなかった。
 道行く人が、全力疾走する少女を驚いた瞳で見つめる。瑞香は、足も速い。五十メートル走で七秒台前半のタイムを叩きだしたのが最高記録。そのスピードで、目の前に不意に現れる障害物を避けながら、瑞香は止まることなく進む。
 幸い、カラオケ店の場所は分かりやすく、迷う事はなかった。しかし、中に入った途端、困惑する。いったい、どこに行けばいいのだろう。
 瑞香は考える。百々が警察ではなくまず自分を頼った裏側には、事を大きくはしたくないという心理があるのだろう。ならば、ここでもなるたけ穏便に彼女らの部屋を探さなければならない。
 そう思っていたら、携帯が震えた。開くと、メッセージが百々から届いており、『214』と番号が書かれていた。瑞香ははじかれたように受付に向かい、呼び鈴を鳴らした。友達が先に来ていること、部屋番号を告げて、中に入る。ドリンクバーはいかがですか? と丁寧な営業トークをかましてくる店員に、激しく苛立ちを覚えた。
 瑞香は言われるがままに注文してしまった(その方が早く済むと思ったのだ)ドリンクバーの空のコップを片手に、『214』号室を目指した。そこは、受付フロアの一つ上の階の、一番奥にある部屋だった。瑞香はまず、壁に張り付き、そっと中の様子を扉のガラス部分から覗いてみた。
 目に飛び込んできたのは、衝撃的な映像だった。
 百々がソファの下で、男に組み敷かれている。瑞香は反射的に、扉に手をかけ中に入った。突然の闖入者に、室内の全員の瞳が瑞香に注がれた。百々の話通り、敵は五人。いずれも、やせ気味~普通体格の少年だった。楽勝で勝てる。瑞香は無策に飛び出してしまったというほんのわずかな後悔を、ゴミ箱に捨てた。
「瑞香ちゃん!」
 百々が叫ぶ。仰向けに寝転がった姿勢のため、発音はあまりよくなかったが、確かに。瑞香はしっかりと頷いてから、「私の友達に手をだして……。あんたたち、絶対許さないからね!」と男どもに言い放った。男たちは瑞香の言葉を受け、ニヤニヤと、とても嫌な笑みを浮かべた。人を馬鹿にしたような笑みだ。大方、自分の華奢な体格を見くびって、カモがねぎをしょってやってきた、とでも思っているのだろう。
 瑞香はその場で構えた。狭い室内だから、あまり中心に飛び込まない方が良い。飛び込めば、囲まれて、戦うのは難しくなる。このまま入り口に背を向ける体制で、向かってくるやつを一人ずつ片付ければよい。ただ、百々の目撃情報が完全ではない可能性も考えて、背後からの闖入者にも気を付けなければならない。
「おらあ!」
 男の一人が瑞香に向かってきた。彼女は突き出された右手を払い、懐に潜り込む形で喉をえぐるように拳を出した。「カはっ」と苦しそうに息を吐き出して男は倒れた。室内がざわつく。
 次の男が襲いかかってきた。先ほどの瑞香の動作を警戒してか、上半身に意識が集中しているのがわかる。瑞香は隙をついて、思い切り急所を蹴り上げてやった。先ほどよりずっと激しく室内がざわつく。「おい、金的だぜ……」「ああ、金的だ……」顔面蒼白な男どもを、瑞香は得意満面な笑みで眺めた。ここまでやると大体、次の行動は読めてくる。思考が戻り次第、百々を抑えている男が、彼女を人質に取り始めるのだ。だから動揺が広がっている間に、瑞香は百々に近づいた。
 百々の両腕を後ろから掴んでいた男が、ハッという表情をする。男は思わずだろうか、百々の手を放した。チャンスだ。瑞香は百々の立ち位置を確認したあと、男に一直線に跳躍した。まずは、腹部を狙ってキックを一発――
 不意に、脳が揺れた。
 背後から攻撃を受けたのだ。なぜ? 誰が? 誰もいなかったのに。
 揺れる脳みそで瑞香は考え、絶望と共に背後を振り返った。
 百々が、両手を握りしめ、振り下ろした姿勢で笑っていた。
 直後に、腹部に衝撃が起こった。百々を掴んでいた男に、逆に蹴りを食らわされたのだ。
 瑞香は、冷たいカラオケ店の床に倒れた。すぐに、男たちに押さえつけられる。
 百々、百々、なんで? 
 瑞香の瞳からはいつの間にか、涙が静かに流れていた。

  *

 近隣住民への聞き込みは、ほとんど収穫がなかった。大崎親子は礼儀正しく、いい人に見えたという回答のみだ。昼食を取り、二人は昨日と同じように繁華街の聞き込み調査に向かった。前回と違う点は、桜の目撃情報から、大体の利用施設が把握できたことだった。ただし、被害者が利用していた時間帯とは違うため、芳しい効果が得られなかった。
 時間が半端になってしまった二人は、少し早い夕食をとるため、手短な定食屋を訪れた。
「んー、仕方ないとはいえ、あんまりお腹すいてませんね」
「食えるときに食っとけ」
 刑事の仕事は、不規則になりがちだ。速人はメニューを広げて、カツ煮定食を注文することに決めた。
「よくそんなに食べれますね」
「まあな」
「うーん。私はこれにしよ。海鮮おかゆ」
 呼び鈴を鳴らし、店員に注文を告げた。食事を待つ時間、自然と事件の話になる。もちろん会話は小声だ。幸い店内には客が何組かおり、主に部活動帰りの高校生で、騒いでいるため目立たない。
「今回の事件、なんだか、嫌な感じですよね」
「そうだな」
 売春のトラブルの末の殺人。自分たちが追っているのは、おそらく女子高生だ。今、奥の席で大騒ぎしている彼らと、なにも変わらない年頃の子。瑞香と同じ学校の生徒。
「……なあ、あんたの学生時代にもやっぱ売春ってあったのか?」
「噂を聞いたこともなかったですね。もっとも、私が関わりのない普通の生徒ってだけかもしれませんが。ただ、世間では騒がれていましたね」
「ふーん……」
 テーブルの上の灰皿を引き寄せ、速人は取り出した煙草に火をつけた。
「なんで、そんなことするんだろうな」
 速人の脳裏には、鈴の姿があった。鈴が大切にしていたもの。女なら、誰でも大切にするんじゃないのだろうか。
「そりゃ、楽してお金が手に入るから、じゃないですか? 他にも、寂しさを埋めるためだとか」
「寂しさ?」
「はい、テレビ番組の受け売りですけどね。父親に冷たくされた子だとか、父性を求めて売春したりするんです。手に入らなかったものを、他の人から優しくされることで埋めようとするんですよ」
「なんだかなあ」
 本物が混ざるときもあるだろう。けれど、たいていの場合、そこにあるのはギブアンドテイクだけだ。金を受け取り、体を渡す。そこに愛という幻想を求めているなら、なんて哀れな存在なのだろう。
 海鮮おかゆとカツ煮定食が運ばれてきた。どちらもまだ、湯気がふんだんに立っている。煙草を灰皿に押し付ける。
 その後、速人は箸をとりカツを分けて口に運んだが、凜子はおかゆをみつめたまま手を動かさないでいた。
「……桜ちゃんが言っていた制服の特徴、瑞香ちゃんの学校と一緒ですよね」
 速人は返事をせずに、ご飯を口に運んだ。カツとまじりあい、複雑な美味さを形成する。
 凜子もそれ以上何も言わず、レンゲを手に取り一口掬った。ただ、それをそのまま口に運ぶことはせず、三度も息を吹きかけてからようやく口に入れた。
「この後は、どうしましょうか」
 凜子が問いかけてきたのは、食事が終わる寸前だった。それまでの間、二人は黙ってお互いの食事に集中していたのだ。
「そうだな……」
 腕時計を確認する。そろそろ、被害者が活動していた時間帯と重なりそうだった。
「もう一度、聞き込み調査をするべきだろう」

  *

「ごめんねー、騙すつもりは……まあ、あったんだけどさ」
 瑞香は男たちにとらえられ、百々はソファにふんぞり返って座っている。その様子を下から仰ぐ形で見上げる自分は、なんて間抜けで惨めなんだろう。
「あ。その顔とっても良いね! かわいいかわいい」
 百々はいつもの笑顔で、ボブカットの髪を揺らしながら、瑞香を携帯で撮影した。カシャっという音が響いた。
「あ、そうだ。携帯。瑞香ちゃんの携帯、回収しなくちゃね」
 百々は動けない瑞香に近づき、ポケットをまさぐり携帯電話を取り出した。「電源オーフ」と言いながら、奪った携帯のボタンを押すと、自分のポケットに入れた。
 それから彼女は誰にも断らずに電話をかけ始める。「あ、メググ? うん、こっち終わった。瑞香ちゃん捕まったよー。うんうん、じゃ」
 百々が電話を切ってしばらくすると、メグがやってきた。トイレかどこかに待機していたのだろう。
「えへへ。ごめんね、許してねえ」
 メグがあどけないしぐさでウインクしながら手を合わせた。瑞香の頭はぐるぐると、罠にはめられた怒りが回っていた。彼女たちに対する怒りではない。自分自身の間抜けさからくる怒りだ。
「さて、と。何から話せばいいのかな? とりあえず、このお兄さんたちの出所かな? この人達はね、わたしのお友達でーす。みーんな言う事聞いてくれるんだよ。ま、ちょっとえっちなことはするけどさ」
「…………」
「あはは。信じられないものを見るような目だね? でも、そんなに悪い関係でもないよ。気持ちーし」
 百々は赤色の縁をしたメガネを外すと、テーブルの上のティッシュでふき始めた。
「さて。瑞香ちゃんに質問なんだけど、和樹と動いて、わたしらを潰そうとして動いてる、間違いはあるかな?」
「売春組織……」
 瑞香がつぶやくと、百々はけらけらと笑い始めた。
「そうそう、それそれ! まったく、和樹もやになっちゃうよね。せっかく上手くいっているのに、急に辞めるだなんて言い出してさ。そんで、あんただけ勝手に抜ければって言ったのに、妙な仲間作って潰しにかかってくるんだもーん」
「え――?」
 和樹が、抜ける?
「ちょ、ちょっと待ってよ。和樹も……和樹も、あんた達の仲間だったの?」
「あー、やっぱり知らなかったか。そっかそっか、騙されちゃったんだねえ。仲間っていうかねえ、そもそも、売春組織を作り上げて、管理してたのがあいつなの」
 百々の言葉が、毒のようだ。
 今まで見てきた和樹の姿が、優しい振る舞いが、元気づけてくれたあの声が、走馬灯のように流れていく。
 メガネを拭き終わった百々がティッシュを捨て、再びそれを装着した。
「わたし達に声かけて、人を集めて、あ、知ってる? あいつの家すっげー金持ちなんだよ。で、そのつながりでお金があって女子高生とセックスしたい男を集めて、結構手際よくやってたんだよー。ま、お金持ちの男って、変態が多かったから、それはちょっと参ったかな」
 瑞香はもう、ただ茫然としていた。意識的に呼吸を深くする。ダメ。今ここにいることを、忘れてはだめだ。すーはーすーはーと、規則正しく肺に空気を取り込んでいく。私は、今、ピンチなんだ。この室内には敵しかいない。味方がやってくる見込みもない。しっかりしろ、篠宮瑞香。
 そう思うのに、頭の中はひたすら白を塗ってくる。騙されたの? 本当に騙されたの? 繰り返す疑問に、正確な返答を返してくれるひとはもちろんいない。
「で、結局瑞香ちゃんの回答はイエスでいいのかな? 和樹と組んでわたし達を妨害しようとしていた、と。どうなの?」
 頷いても、頷かなくても、彼女はここまでやっているのだ。確信があるのだろう。瑞香はへたに嘘をつくことなく、頷いた。
「あはっ。素直な子は嫌いじゃないよ。ま、好きでもないけど。さーって、じゃあどうしようかな。って、もう考えてきてるんだけどさ。ふふふ」
 百々が笑う。嫌な笑いだ。その笑い声が合図であったかのように、男が手を動かした。口元が男の手で覆われ、息をするのも鼻からになる。おまけに顎を押さえつけるように覆われているため、相手の手に噛み付くことが出来ない。
「ん、ん、んー!」
 くぐもった小さな声になる。瑞香は自分の顔の小ささを呪った。
「ふふふ、ねえ瑞香ちゃん。何が起こるか分かる? 何が始まるか分かる? 飢えた男が五人に、見張り役の女が二人。あはは。ねえ、きっと、君が一番嫌がることだと思うんだよね。ふふ。わたしさ、なんとなくわかるんだー。自分が真逆だからかな? 純潔だとかそーいうの、死ぬほど大切にするようなやつ。誰にも言えないよね? ヤられても、誰にも言えないんでしょう?」
 体が瞬間、硬直した。
 血の気が引いていく。瑞香は、目の前にあるものが一瞬で、遠のいていくのを感じた。
 暴れた。
 声にならない声を上げ、体の全部を揺り動かし、ここじゃないどこかへ逃れようとして、はたまた、途方もない何かが急に助けに来てはくれないかと。
「うわっ。きったねッ」
「ダメだよ、そのまま抑えててよ」
 瑞香の瞳からは涙が、瑞香の鼻からは鼻水が、次々と流れ落ちて行った。それらがすべて、口をふさぐ男の手に降りかかったのだ。
 顔面は自分の水分でぐちゃぐちゃで、まるでききわけのない子供のようだ。それでも、止められないのだから仕方がない。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 どうして、こんなことになってしまったのだろう? 自分は、危険に身を進めすぎた。下手なことに手を出さなければ、こんなことにならなかった。無力な子供のくせに、何もかも出来ると勘違いをしてしまった。
 きっと、だからだ。だからこんな目に合う。瑞香は暴れた。ついに男が、二人がかり、三人がかりになった。数の力に圧倒され、結局、瑞香はとり抑えられてしまった。
「なんかめんどいし、もうヤッちゃっていいよ。そのうち大人しくなるだろうし」
 百々が静かに命じて、入り口のガラス窓にメグと二人で張り付いた。見張りなのだろう。
 男たちは、待ってましたとばかりに瑞香を囲う。けだものの匂いがした。しゃくりあげる。乱暴に顔面を、おしぼりでふかれた。男の手が胸元に伸びる。
 別の手が横からやって来て、服の上から胸をもまれた。行き場をなくした男の手は、瑞香の顎を押さえつけ、唇を奪われた。
 地面が一瞬にして、消え去ったような感覚がした。思考が一気に白くなり、どこか遠い場所で、シャッター音がする。
 助けて、神様。
「ん? ちょっと、誰か来る!」
 百々が叫んだ。男たちの手が、一瞬ひるむ。瑞香はまだ、意識が回復しないでいた。真っ白なのだ。
 扉を乱暴に開く音。百々が抑えようとしたようだが、彼女は吹き飛ばされ、ソファにしりもちをついた。
「おいおいおい、何やってんだ、お前ら」
 瑞香は首を伸ばし、闖入者の姿を見極めた。さかさまに瞳に映ったその男は、いつもと同じ灰色のニット帽をかぶった武原だった。
「これ、何? 普通に犯罪だよな? 俺、通報していい?」
 誰に向かってか彼は言った。通報という言葉にビビったのだろうか、男たちは瑞香の上から退いた。
 瑞香は立ち上がろうと体を起こしたが、ふらついて力が入らずまた倒れた。武原は彼女に近づき体を支えた。立ち上がった後もまともに立つことが出来ず、結局、瑞香は武原に寄り掛かった。きつく腕を握りしめる。
 助かった――。
 自分は、助かったのだ。いまだ茫然とした思考回路で、瑞香は状況を把握した。
「行くぞ」
 歩き出す。カラオケボックスから出ると武原は、自分が来ていたパーカーを瑞香にかぶせた。瑞香は受け取りそれを着込むと、ジッパーを上げて、乱れた衣服をごまかした。気分が悪い。いくつものカラオケボックスへとつながる通路の途中で、口を何度も、パーカーの袖で拭った。
「おいおいおい、何すんだ!」
 武原が苦情をつけてきたが、瑞香に受け入れる余裕はない。何度も、何度も、袖で拭う。本当なら今すぐトイレに駆け込んで唇の皮がむけるほど石鹸で洗いたかった。だが、今すべきことは一刻も早くここから、カラオケ店から離れることだ。
 カウンターに向かう。足取りはまだふらつく。武原は何も言わずに、瑞香を支えてくれた。彼女の顔は、今や能面のようだった。何も考えず、何も感じず、ただそこにあるだけの、そんな仮面じみた表情。いつの間にか止まった涙の後が、頬まで残って痛々しかった。
「そのまま出て行ったらとがめられるかなあ」
 武原がつぶやいた。そういえば、料金を払っていない。瑞香はまだ、袖で何度も唇を拭っていた。
「瑞香!?」
 歩を止める。今、聞こえてきた声は、まさか。
 恐る恐る顔を上げると、案の定、そこには速人の姿があった。ちょうど今、カラオケ店へと入店して来たようだ。瑞香と目があった瞬間、速人の顔は一瞬で青くなった。
 瑞香は袖で唇を擦るのを止め、青くなった速人の顔を見つめていた。
「おい、大丈夫か!?」
 速人は素早く瑞香に駆け寄りしゃがみ、その両肩に触れるか触れないかという位置で手を止めた。
 なぜだろう? あんなに苦手だと思っていたのに。
 その馴染んだ顔に、瑞香は安堵した。
「速人……はや、と……」
 瑞香は胸に顔をうずめると、泣き始めた。何度も何度もしゃくりを上げながら、熱い涙を流した。何も考えられずに、ただ泣きたいだけ泣くことに、瑞香はした。速人はきっと受け入れてくれる。確信に近い思いを、瑞香は持っていたし、それは正しかった。
 速人は何も言わずに、瑞香をただ泣かせてくれた。戸惑ったような顔で、抱きしめることもせず、けれど、そのまま。
 両肩に触れるか触れないかという位置で止まったままの手が、瑞香の肩に置かれることはなく、行き場を失い床に垂れ下がっていたけれど。
 それでも、ワイシャツが鼻水と涙でびしょびしょになることを厭わなかったし、もういいだろと突き放すこともしなかった。
 瑞香は声を上げて泣いた。初めて、速人の前で泣いた。

   *

 瑞香の涙に戸惑うカラオケ店員に、警察手帳という権力を振りかざして納得してもらった。速人は、瑞香に案内された、『214号室』を目指した。 彼女は今、凜子と一緒にいる。そばにいたニット帽の男も一緒だ。
 何があったのかは、まだ詳しく聞けていない。ただ、彼女が傷つけられたことは間違いがなかった。自分の中で、熱く、どす黒い塊が湧き上がっていくのを感じた。
 速足で廊下を進み、『214号室』に勢いよく入った。中には五人の男と二人の女がいて、どいつもこいつも突然侵入した速人に唖然としていた。
「動くな、警察だ」
 再び警察手帳を取り出し、顔写真入りの身分ページを見せる。室内が一気にざわついた。
「け、刑事さん? いきなり、なんですか。わたしたち、カラオケしているだけです」
 ボブカットのメガネが言った。
「うるせえ。今、とんでもなく苛立ってるんだよ」
 低く、小さく、速人は言った。ドスの利いた声だ。百々は体を震わせ、一歩下がった。
 速人は室内を見回した。男たちの中には着衣が乱れたものがいた。テーブルの上のものが落ちたのだろう、床におしぼりやマイクが転がっている。
 瑞香は、何度も何度も唇を拭っていた。信じたくないが、ここで行われていたことを速人は静かに理解した。
「暴行未遂で、お前ら全員しょっぴいてやる」
 少年たちの顔に、焦りが広がった。顔を見合わせて、何か言いたげにお互いの視線を行き来させている。対して、落ち着いているのは少女たちだ。言い逃れがしやすい立場だからだろう。
「……刑事さん」
 ボブカットが小さな声で言った。
「それ、被害届、出ているんですか?」
「あん?」
「仮に、仮にですよ。ここで暴行未遂が行われたとして、その子は被害届を出すのですか? 辱められたことを繰り返し証言すると思いますか?」
 速人は舌打ちした。この女は、瑞香の性質をわかっていて、大胆な行動に出たのだ。
 二次被害と呼ばれる問題がある。性的暴行の『被害者』であるはずなのに、警察官の取り調べによってそのときの状況や、それ以前の性的体験についてまで、根ほり葉ほりと聞かれる。裁判沙汰となれば当然、大勢の人の前で証言をする。果てはそういった事件の被害者だと周りにばれて、奇異の視線を向けられる。
 本人にまったく非がなくても、そういった目にあうのは危ないことがらや性的なことに日ごろから関与しているからだと勘繰られる。だから、被害にあっても届けを出さない被害者は後を絶たない。
 唇を噛みしめた。鈴も、その中の一人だったのだ。
「とりあえず刑事さん、出て行ってもらえませんか? わたし達を押さえつけたり、しょっぴいたり、そんな権限ありませんよね」
「…………」
 ボブカットの少女は、赤色の縁をしたメガネに触れた。勝ち誇った表情だ。速人は睨み付けるように、その顔を見た。
 彼女の言うことは確かに正論だった。だが、だからといってこのままにしていたくない。ここで、うるせえ馬鹿野郎と、端から少年少女たちを痛めつけていくのはどうだろう?
 自分はおそらく、何らかの処罰を受けるだろう。最悪、児童に暴行を加えた暴力刑事として、懲戒免職、実刑もありえるかもしれない。だが、瑞香の受けた痛みの、十分の一でも返せるのなら――。

   *

「大丈夫、大丈夫だからね」
 凜子の柔らかな胸の感触を、瑞香は感じていた。頭を押し付けているからだ。なんだか、とても落ち着く気がする。
 速人の胸を借り、泣きつくしたこともあるだろう。あれで、心が大分静まったのだ。どうして、あんなにもちょうど良いタイミングで、速人はあそこにいたのだろう。ずるいな、と思う。何がずるいのか瑞香自身もわかっていなかったが、そう思った。
 思えば、前にもこんなことがあったような気がする。普段は嫌になるくらい邪険に扱うのに、気まずそうにふるまうのに、いざというときだけは、いつでも自分のそばに居てくれる。助けてくれる。
「……そういえば」
 瑞香はゆっくりと体を起こした。いつの間にか受付前のソファに凜子と隣り合って座っていた。あたりを見回して、壁に背中を預けて立っている武原を見つけた。その隣には、ショートカットのほっそりとした少女。
「あ……」
「やっ」
 タケが短くそういった。挨拶のつもりなのだろう。瑞香は頷いた。速人だけでなく、武原もタイミングが良かった。その理由が、タケだったのだ。タケも百々とメグに呼ばれていたのだろう。後から合流する手筈だったのだ。そのタケの後を、約束通りに武原は追ったのだ。奪われた携帯には、連絡が来ていたのかもしれない。
「だから、言ったでしょ。百々とメグに……私たちに、近づかない方がいいって」
「……うん」
 近づいてきたタケは、少し口角を持ち上げた。笑っているのかもしれない。彼女はなぜか、座っている瑞香の頭に手を伸ばし、右へ左へ頭をなでた。
「なんか。ごめん。まさかあいつら、ここまでやるとは思わなかったんだ。そろそろ嫌気がさしてきたころだったから、ちょうど良い。これを機会に、あたしは辞める」
 ハッと顔を上げた。何を? とは聞かなかった。瑞香はこくこくと頷いた。頷いた拍子に、どこかに留まっていたのだろう、涙が頬を伝った。
 続いて、瑞香は武原を振り返った。今のタケの言葉が嬉しいのだろう、静かに笑った。
 胸の奥が熱くなった。頑張ったことに、傷ついたことに、少しだけ対価が払われたような気がした。
「瑞香ちゃん、こんな危ないこと、もうしちゃだめだよ」
 凜子が、瑞香にやさしく言った。そうだな、もう、しないほうが良いだろう。反射的に、凜子の言葉を肯定する。今まで一体、何度、余計なことに首を突っ込んできたのだろう。
 万引き常習犯の男の子をつけまわして更生させたり、動物をいじめる小学生をしかりつけたり、暴走族を走って追いかけたり、待ち伏せしたり。
 生まれてきた言い訳がしたかった。
 正しいことをたくさんすれば、悪いことをして生まれてきた自分の存在が、許されると思った。誰に対してか。多分――自分自身に対してだ。
 小さな頃に、いつか習った。お父さんとお母さんが愛し合って生まれた結晶が子供だと。その暖かくまやかしのような言葉に、瑞香は静かに絶望した。
 自分のルーツを知ってしまったから。
 誰かの深い悲しみと傷の『膿』として湧いたのが、私だから。
「…………」
 それでも、瑞香は凜子に頷けない。危ないことはしないと、約束できない。
 取り返しのつかない事態になることだった。分かっている。今のままの正義の味方を続ければ、同じような事態も起きるだろう。分かっている。
 でも、やめてしまえば、自分の足もとが完全にひび割れて陥没するような気がしている。
「うん」
 瑞香はゆっくりと立ち上がった。体が震えだした。おびえているのだ、怖いのだ。けれど、行かなければならない場所があることを、彼女は知っていた。
「……っ」
「瑞香ちゃん? 無理しちゃだめ」
 凜子の柔らかく優しい声に吸い込まれるように、椅子に腰かけた。立ち上がった瞬間、ふらついた。もう、何もしたくないと感じていた。
 『214号室』。そこに行かなければならない。そう思うのに。
「……速人」
 瑞香は小さく言い放ち、両手を握りしめた。
 その呟きを耳にした凜子は大きく瞳を見開くと、何か言いたげに口を開けて、けれど、何も言わずにその口を閉じた。

   *

 拳を握り、振り上げた。気づいた瞬間には、目の前に倒れた少女の姿があった。床に転がった体。
「いってぇ……。何すんだよ!」
 少女が叫ぶ。もう一人の太った少女が心配そうに、「百々ちゃん、大丈夫!?」と駆け寄った。どうやらイラつくボブカットは、百々という名前らしい。
「警察が女子高生に手を上げていいと思ってんのか!」
「うるせえよ……」
 転がったまま吠える百々に、速人は冷たく言い放った。また拳を握り、手短にいた男子高校生の顔面を殴りつけた。
 一度堰を切ってしまうと、あとはもう止まらなくなった。その場にいた誰も彼もを、痛めつけたくてたまらない。その欲望に逆らわず、速人は行動した。
 殴る、蹴る、殴る、投げ飛ばす。単純な、けれど強烈な攻撃動作を、その場にいた全員に一通り加えた。逆らうものもいた。けれど、警察官として訓練を受けた彼にかなうものは一人もいなかった。圧倒的な力。それを、ただ一つの感情で、速人は振るった。
 許せない――。
 瑞香の泣き顔がちらつく。その顔に重なるように、鈴を思い出す。
 許せない――。
 どうして、どうして自分はこの事態を、止めることが出来なかったんだ。瑞香を守ることが出来なかったんだ。
「ウワああああ」
 速人を止められるものは一人もいなかった。百々ともう一人の少女は、部屋の隅で身を寄せ合っておびえていた。男たちは少なくとも二発は殴られ、床に沈んでいた。
 テーブルの上のガラスは割れ、破片と飲み物が飛び散っていた。
 速人は少しずつ、冷静さを取り戻していた。肩で息をする。思った以上に体力を使っている。動きの多さよりも、感情の激流故だろう。
 速人はあたりを見回した。視線が、重なり合う二人の少女たちで止まる。
 彼女らは、怯えの色をいっそう濃くし、体を縮めた。目を細める。
 こいつらだ、こいつらも、瑞香を傷つけた。
 拳を再び握りしめる速人に、少女たちはついに泣き始めた。百々は、速人に一度殴られた頬が、痛々しく赤い。許せない、許してはいけない。速人の脳内はそう命じる。まだまだ、瑞香の受けた苦しみは、こんなもんじゃない。
 けれど、その拳を振り上げることが、彼にはできなかった。
 女というものは可哀想で、そしてずるい生き物だった。
「絶対に、許さないからな」
 低く、うなるような声で速人は言った。
 振り上げることは出来なかった拳だが、開くことも出来なかった。

   *

 主犯格は百々。事件関与の疑いがあるのはメグ。
 瑞香はその事実をゆっくりと飲み込んでいた。祈りの手はまだ組んだままで、速人のことを思っている。
 楽しい時間を過ごせた。今までの、どの瞬間よりも。
 瑞香は唇を拭った。胸を乱暴にもまれた感触を不意に思い出した。体が再び震えだす。瑞香は祈った。速人の為に。
 彼女の頭の中は、激しい渦だった。今、こうしてどうにか座っていられるのは、凜子がそばに居るからだ。彼女の体を支える人がいるから、暴れずに騒がずに絶望せずに、ここに座っていられる。
 大きな音がした。
 その場にいた全員が顔をあげ、瑞香と凜子は顔を見合わせた。音はさらに大きな音となり、はっきりと聞こえる。まるで、野生動物が暴れているかのような轟音。
 速人だ……。
 瑞香は立ち上がろうと力を入れた。けれど、体の動きとは裏腹に、心が叫んだ。
 行きたくない! あの部屋に、行きたくない! あの男たちと顔をあわせたくない! 百々やメグと同じ空気を吸いたくない!
 瑞香は今や、壊れたラジオだった。スピーカーがないことだけが幸いかもしれない。もしもあれば、彼女の心のどうしようもない感情に、この場にいる誰もが瞳を逸らすだろう。
「私、行ってくる」
 凜子が立ち上がった。彼女は武原兄妹に目で合図を送り、瑞香のそばから離れた。
 こてん、と、瑞香の体がソファに倒れた。
「おい、大丈夫かよ」
 武原が言った。大丈夫、大丈夫、何心配してんの馬鹿じゃないの。瑞香の言葉は声にならない。
 心配を重ね塗りした武原は、瑞香に近づきその体を支えようと手を伸ばした。
「い、やあああああ!」
 その瞬間、瑞香は跳ねあがった。後ずさり、ソファからずれ落ち、床に転がった。
 怖い、怖い。男が、怖い。
 両腕で自分を抱きしめた。くしくもそれは、胸を守る盾のようだった。
 武原は顔をゆがませ、そっといたわるように瑞香から離れた。タケに、行ってやれという風に視線を送る。
 タケは無言で瑞香に近づくと、しゃがみ込み、ただ彼女のそばに座った。呼吸がしだいに落ちついてくる。それを見計らってか、彼女は瑞香に手を伸ばした。その手を瑞香はつかみ、ようやく床から立ち上がることが出来た。
 ソファに腰をかける。凜子の代わりとばかりに、タケは瑞香に寄り添って座った。
そうしてから、いったいどれほどの時間が経っただろう。受付に、凜子と速人が連れだってやってきた。
 瑞香は顔をあげて、速人を見つめ、驚いた。力なく、背中をまげて歩いていた。いつもと正反対の様子に、瑞香の胸中に不安が広がる。
 凜子と速人の視線は、タケに向かった。その容姿を観察するように、上から順に二人はタケを見つめた。
「あんたも、あいつらの仲間か?」
「うん」
 一切ごまかさないタケを、瑞香は少し関心した。
 凜子の指が、受付にいる人数を数える。この場には、五人の人間がいる。
「車、全員は入りませんね」
 凜子が言った。
「タクシーを呼びましょう」

   *

 室内に駆けつけた凜子は、彼らの名前と住所と電話番号を控えた。もちろん、でたらめを教えられないように、身分証明書の提示と携帯画面の提示を求めてだ。もってないっすと言い出した一人には、持ち物検査を実施した。携帯が見つかった。
 手際よく作業を進める凜子を、速人はぼんやり見つめているだけだった。

「ずいぶん派手にやってしまいましたね」
 現在の時刻は午後九時。場所は速人の家だ。凜子は速人が入れた緑茶を唇に運び、一口含んだ。
「説教なら聞きたくねえ」
「あらら。まるできかん坊ですねえ」
 凜子がまた一口緑茶を飲む。姿勢正しく、湯呑みを両手で持ち、すする。その美しい所作は、まるで年季の入ったおばあちゃんみたいだ、と速人は思ったが、当然激怒されるので、言えない。そういえば、何度か凜子と食事を共にしたが、いつも美しく丁寧な動きで、食べ終わりの皿も綺麗だった。本人のいう事が確かなら、これがお金持ちの教育というやつなのだろう。
「瑞香ちゃん、ここの会話聞こえますかね」
「どうだろうな」
 高校生を送り届け、三人で家に帰ってきた。瑞香は気分が悪いと言い、風呂に入ったあとすぐに自室に行った。ただし、いつもなら欠かさず鍵までかけて扉を閉めるのに、今はその扉が全開だ。お風呂に入る時間も長く、体や顔を丁寧に洗っている様子が想像された。
 速人の回答に、凜子は少し考えるしぐさを見せた後、「じゃ、小声で話しますね」と宣言した。
「速人さん、はっきりいって、やりすぎです。一人二人はおそらく、病院送りになったことでしょう」
「だろうな」
「だろうなって……」
 正直、あれぐらいではまだ足りないほどだった。瑞香が受けた精神的苦痛を考えれば、いつか消えてしまう肉体の痛みなど、あと何発上乗せすればつり合いがとれるのか分からない。
「やりたりないって顔してますね」
 凜子が呆れた顔で指摘する。
「速人さん、速人さんの気持ちは、分からなくもありません……。けれど、あなた、分からないんじゃないですか?」
「何をだ」
「瑞香ちゃんがどれだけ傷ついたか、結局分からないんじゃないですか」
 凜子の言葉に、目を見開いた。彼女の指摘は、的を射ていた。瑞香が受けた苦痛がわからないから、どれほどの痛みがつり合うのか分からない。
 けれど、そんなもの、分かるわけがない。速人はうつむき、自分の膝に視線を落とした。固くて、ごつくて、可愛げのない両手が映る。
 瑞香や鈴の苦しみは、分からない。きっと、これから一生わかることはないだろう。
「……速人さん、速人さんの行ったことは、犯罪です」
 凜子が淡々と、感情を混ぜない静かな声で言った。ただ、それが感情を混ぜようとしていないだけであることは、速人には簡単に理解できた。
「最悪……実刑も覚悟してください」
 刑事を辞めることになるかもしれない。
 速人はぼんやりと先のことを考えた。刑事を止めたあと、自分は何をすればよいのだろう。何一つ守れなかった自分。
 凜子は光のこもったまっすぐな眼差しで速人を見つめた。
「あと、これは余計なおせっかいかもしれませんけど」
 一呼吸置き、凜子はお茶をすすった。それをゆっくりとテーブルに置き、姿勢を正す。
「もう、瑞香ちゃんから逃げないで居てあげてください」
「逃げる……?」
 速人の口から、自然と言葉が漏れた。馬鹿なことを言うなと返そうとしたが、言葉は続かなかった。逃げている。その言葉は、まさしく速人の行動そのものだった。
 大切にしようと思った。けれど、いつからかすれ違っていた。怖がっていたからだ。傷つけてしまうこと以上に、自分が傷つけられることを。
 いつか鈴が、彼の手を振り払ったように。
 瑞香が自分を、振り払ってしまうのではないか、と。
「彼女は、あなたの何なのですか」
 凜子が言った。何度も何度も見た、悪魔のような表情で。
「あいつは……」
 まるでアルバムを見るように、さまざまな瑞香の姿が脳内を横切っていく。笑顔の写真は数えるほどだ。速人の前で、彼女は困ったような表情をすることが多かった。普通の表情でも、少しだけ眉や口元が下がっているのだ。
 小学生、中学生、そして高校生。順々と成長していく瑞香を、速人はいつも遠巻きに見つめていた。
「あいつは――」

   *

 瑞香の瞳に、小さな希望の光がともった。けれど、それは微かな光で、また恐怖が心を支配する。毛布にくるまり、瑞香はぼんやり考えていた。
 カラオケにいたときのような震えは、すでに収まっていた。ただ、頭の中はめまぐるしく、スクランブル交差点のように思考が交差している。
 私は結局――何がしたかったの。
 自分のルーツを知った瞬間、世界が真っ黒に染まった。手当たり次第にレイプ事件について調べ、調べれば調べるほど落ち着かない気分になった。幼い瑞香には、当然、理解できない部分が多かった。だが、理解できないからこそ、そこに本能的な恐怖を植え付けられる結果となったのだ。
 どうしていいか分からなかった。これが、誰にも相談してはいけない問題なのだということは分かっていった。
 自分の体が、すごく汚いものに思えてきた。どろどろとした黒いもので、自分の体は出来ていて、それは時折うごめくのだ。そして囁く。「お前は、生まれてきてはいけなかったのだ」と。
 そんな思いに駆られ始めた当初も、瑞香はこうして毛布にくるまり横になっていたような気がする。それから何か月も、瑞香は考え続けた。自分のこの黒いものが、なくなって、洗い流されて、綺麗になる方法を。
 そして思いついたのが――正義の味方になることだった。
 幼い頃からあこがれていた。日曜日の朝にやるような、女の子たちがフリルのドレスで戦うお話。今ではさすがにそんなアニメを見たりなんてしないが、確かに自分の血肉となっている。
 そうだ、あれになろう。そうすれば、私は許される気がする。たくさん良いことをすれば、きっと――。
 瑞香の瞳から涙がこぼれてきた。
 間違えてきたのだろうか。思い上がって、余計なことに首を突っ込んで、力不足で、速人をこうして、辞職の危機にまで追い込んでしまった。間違えたとしたら、いったいどこで? 
 瑞香は立ち上がり、机の引き出しからカッターナイフを取り出した。毛布にはくるまったままで、歩くときはその裾が床とすれた。
 壁に寄り掛かるようにして座る。毛布に包まれたまま右手と顔だけを出して、彼女は見つめていた。刃を出したカッターの先を、じいっと見つめていた。
 こんなことをするのは、初めてだった。瑞香は、追い詰められて死を選ぶ人間を信じられないとまで思っていたし、自分は精神的にタフだとさえ思っていた。
 だが、こうして刃先を見つめる今は、彼らの気持ちがわかる気がした。この刃を皮膚にあてて引きさえすれば、たったいま抱えているこの複合的な問題から、解放される。すべてが楽に終わるのだ。
 そう、これから先なんてなくても良い。そんな考えが、彼女の脳内をちらつき始めた。
 涙がこぼれる。自分が初めてこんなことを考える理由が、瑞香にはきちんと分かっていた。
 また、体が震えだす。考えないように、考えないようにとしてきたが、今度はもう無理だった。瑞香の本当の夢は、可愛いお嫁さんという、死ぬほど平凡なものだった。ただし、彼女の描くこの夢のお嫁さんは、とても純潔だった。
 瑞香はまた、唇を拭った。擦りすぎて、もうひりひりと痛いのに。お風呂に入り、石鹸もつけて、何度も何度も磨いたのに。
 まだ足りない、それでも足りない。恐怖に押しつぶされそうで、これ以上の苦痛を味わった『お母さん』のことを考えると、言葉に表しようのない絶望に駆られた。
「じゃあ、私はそろそろお暇します」
 凜子の声が聞こえた。瑞香はあわてて、カッターの刃先をしまって毛布の中に隠した。
 椅子を引いて立ち上がる音に続いて、歩く音。部屋の扉が開いていたので、凜子は瑞香の部屋をのぞいていこうと考えたらしい。目があい、凜子は柔らかく微笑んだ。きらきらと輝き、まるで天使のようだなと瑞香は思った。ただ、つられて笑みが浮かんだりしない。彼女は無表情で、凜子を見つめ返した。
 やがて凜子が去り、瑞香はまたカッターを取り出した。
 予想外なことに、刃先を出す暇もなく、また別の足音が聞こえた。毛布に隠す。やがて、開いている扉なのにノックの音がした。視線を向け、速人の顔を確認する。
 どうして、ここに? 瑞香は疑問に思った。絶対、ここには近づきもしないと思っていた。
「入っていいか?」
 瑞香は迷った。だが、小さく頷いた。速人は安心したようにため息をつくと、ゆっくり室内へ歩を進めた。近づいてくる。
 速人が、近づいてくる。
 びくんと、瑞香の体が震えるのを見てか、速人は足を止めた。戸惑ったような表情を浮かべ、その位置で腰を下ろす。その場所は、ほとんど入り口と変わらないくらいの室内だった。瑞香は、部屋の一番奥にいる。
 兄妹が何気ない会話をするには、不自然な距離。はっきり言ってしまえば、赤の他人の距離だった。

   *

 逃げている。速人はその言葉を振り払うように、すぐに行動へ移した。ぐたぐたと迷えば、瑞香に釘をさすメールを送らなかった時のように、結局は実行されないことが分かっていた。
 立ち上がり、瑞香の部屋へとたどり着く。彼女が怯えた位置で腰を下ろした。脳裏には、抱きしめようと手を伸ばし、振り払われた記憶があった。
「……何?」
 瑞香が訊ねる。しっかりもので、優秀で、頼りなさなど微塵も見せなかった彼女が、今では生まれたての子猫のようだった。毛布が、まるで自分を守る鎧であるかのように、両の手で、しっかりと内側から掴んでいる。
「……ええ、と」
 速人は考える。瑞香にやさしい言葉をかけよう。彼女に、元気がわくように。暗い気持ちに沈みすぎないように。
 お前が今まで大切にしてきたことは、失われたわけじゃない。気にするなと。
 ――そんな言葉に、なんの意味があるのだろう。
 瑞香の苦しみも、分からないくせに。
「もうこんなことすんじゃねーぞ、めんどくせーし」
 馬鹿野郎っ。どうして自分は、こんなセリフが出てしまう? 
「……うん」
 だが、予想に反して瑞香の反応は好ましいものだった。能面のようだった表情に少し柔らかさがでた。顔のパーツはほとんど動いていないので、分かりにくいが。
 下手な慰めよりも、気がまぎれる言い方だったのだろう。速人は結果オーライだと納得し、話を続けることにした。
「だが、まあ警察官って仕事も大変だしな。首になったらなったで、今度はトラック運転手でもなろうかな。実は、大型の免許、持ってんだ」
「……そうなの?」
「おう。なんとなく、若気の至りでかっこいいって憧れてな」
「へー、すごい」
 瑞香が泣き出しそうな顔でにこりと笑った。もし辞職する事態になっても、お前は気にするな。そう伝えたかった。正しく通じたかは分からない。それでも、小さな笑顔が嬉しかった。
 静かな時間が流れた。
 瑞香は変わらず毛布をきつく握りしめたまま、くるまっている。
「なあ、そっちに行ってもいい?」
 速人は訪ねた。やり直すなら、今だ。そんな気がしていた。あの日が重なる。凜子に手を伸ばした日。思い切り振り払われた痛い思い出。
 何か、もっと自分に出来たことはなかっただろうか。気づけたことがあるはずじゃないか。何度も繰り返した後悔。
 瑞香はためらうように、空中に視線を漂わせた。つばを飲み込む。瑞香に断られたら、拒絶されたら……。
 こめかみを汗が一滴伝い、床に落ちた。訪ねてから、いったい何秒たったのだろう。ようやく、「いいよ」と瑞香が小声で言った。自然と息を吐いていた。どうやら、呼吸を止めていたらしい。
 立ち上がり、速人はゆっくりと瑞香の元へ向かった。彼女の小さな体が、また震えるのがわかった。もう、止まった方がいいのだろうか。これ以上、近づかない方がいいのだろうか。
 迷いを何度も振り払い、進んだ。逃げない。速人は拳を握りしめた。そしてついに、瑞香のすぐ隣までたどり着いた。たった数メートルの道のりを、これほど長く感じたのは始めてだった。
「座るぞ」
 瑞香が緊張するのがわかった。だが、断りの声はない。許しが出たものと解釈して、腰を下ろした。心臓の音が聞こえた。瑞香のものか、自分のものか、分からない。
 瑞香は、はっきりと怯えていた。今まで以上に毛布をしっかりと体に巻きつけている。だが、拒絶の言葉は吐き出されない。
「なあ……」
 呼びかけたが、言葉は続かない。この場所にいる。ただそれだけで、しゃべることもままならないほどの体力と精神力を速人は要していた。
 近くにいても、遠くにいても、同じように感じる。彼女の痛みの一割も、自分は結局のところ理解できないのだと突きつけられる。むしろ近くにいる分だけ、自分と彼女の距離がさらに遠くに感じられるような気がした。
 触れれば。
 もしも隣の華奢な体に触れて、抱きしめれば、何かが変わるのだろうか? 伝えられなくてもどかしいこの思いを、体温に乗せて届けることが出来るのだろうか?
 お前は汚くない、醜くない、ずっとずっと昔から……。
 ためらった。だが、どうせここまで来てしまったのなら、という思いもあった。今夜は特別だ。速人はこうして瑞香の近くまで――普段なら絶対に来ることのない近くまで、来てしまっている。
 速人は手を伸ばした。毛布の内側で固く握りしめられている、瑞香の手を目指した。

   *

 心臓の音が聞こえる。おそらく、自分のものだ。とくとくと、いつもより早いそのリズム。
 今まで、速人を恐怖したことは一度しかなかった。
 気まずいと感じたり、苦手だと思ったり、嫌いだという感情を抱いたこともあった。けれど、そこに恐怖はなかったのだ。あったのは、ただ一度。瑞香が鈴の手記を覗いてしまったあの日だけ。
 瑞香は、ずっと前から気づいていた。速人の心の奥底には、自分を憎からず思う気持ちがある。だから、怖いと感じる必要はなかった。
 今は、とても複雑な気持ちだった。
 恐怖と一緒に、いろんな感情が流れてくる。隣に座った速人の体が震えている。彼も、怖いのだ。おそらく、自分に拒絶されることが。
 その気持ちを思うと、瑞香は彼を拒むことが出来なかった。嬉しいと思う。隣に居てくれて、心強いとさえ思う。
 多分、他の誰でもダメだ。気まずくても苦手でも嫌いでも、速人は私の家族だったのだ。
 瑞香は入り混じった心の中で、そんなことを考えていた。
 速人の手が伸びてきた。びくり、と体が震える。その手が優しく、瑞香の毛布を握る手を掴んだ。毛布越しに触れあった指先に、電流が走る。
 怖がるな。これは速人の手だ。私を思う、彼の手なのだ。
 体が結局、恐怖に負けた。
 毛布ごと飛びのき距離を置くと、からんと嫌な音がした。床に、先ほどまで瑞香が見つめていた、カッターナイフが転がった。
 速人の顔色がサッと変わった。今、カッターナイフはちょうど、速人と瑞香の中間地点に落ちている。そしてどちらも青ざめた表情で、そのナイフを見つめていた。
「瑞香……お前……」
「でてって!」
 瑞香は叫んだ。涙が両頬を濡らした。
「死んだりしない! しないから、でてってよ! 一人にしてよ! 私のそばに居ないで私の近くにいないで!」
 恥ずかしくて死にそうだった。瑞香は狂ったように泣き叫んだ。見せたくない見せたくない、ここまでの弱さは、絶対に。
「お、おい、どうしたんだよ」
「どうもしていない! いいから、いいから、でってよ……」
 瑞香の懇願に、速人は立ち上がった。立ち上がるまで何度も逡巡するその様子には、「はたしてこいつを一人にして、本当に大丈夫なのだろうか」と、そんな言葉が聞こえてくるようだった。
 入り口にたどり着くと、速人は振り返って瑞香を見つめた。瑞香はもう、速人のことを見てはいなかった。ただ、自分が落としたカッターナイフを、感情のこもらない瞳で見つめていた。
「なあ、俺は」
 速人が言う。
「お前の力になりたい。瑞香、お前は一人じゃないんだ。いいな」
 そう言い残して、出て行った。扉は来たときと同じく、開けっ放しにしてくれた。瑞香は毛布にくるまって、涙を流した。速人に知られてしまった。自分が妙なことを考えてしまうほど、弱っていることを。知られたくなかった。しっかりした自分、一人でなんでも出来る自分。強い自分になりたくで、努力してきたつもりだった。
 なのに今、カッターナイフを見られた瞬間、それが崩壊した。ひびはもちろん入っていた。弱り切った自分をずっと見せてはいた。
 けれど――。
 瑞香は手を伸ばしカッターを拾い上げ、また刃先を出してみた。
 銀色に煌めくその刃は、どこか妖しく、優しく見えた。

   *

 リビングに戻ったものの、速人は落ち着かなかった。当然だ。研ぎ澄ませるだけの神経を全部、瑞香の部屋に傾けていた。
 彼女が、もしも死んでしまったら。
 死ぬわけがないと思いつつ、速人は考えてしまうのだ。
 自分はおそらく、もう二度と、立ち直れはしないだろう。そんな予感があった。鈴。彼女のとき、まだ自分は幼かった。自分にも何かやれたのではないかと後悔する気持ちの片隅に、子供に出来ることはないと、言い訳する気持ちもあった。
 けれど、瑞香は違う。年の離れた義妹。どうして今まで、自分は彼女を避けてしまったのだろう。いや、避けてしまっていた理由は分かっている。けれど、こんなことになるならば、もっともっと昔から彼女に手を伸ばすべきだったのだ。逃げないと思えば、自分はこんなにも、彼女の近くに行けたのだから。
 追い詰められてからようやく、踏み込む勇気が芽生えたのだ。なぜ今になって、これほどまでに彼女が大切な人間だと気付くんだ。
「馬鹿だなぁ……」
 速人は大きくため息をついた。だが、まだ、まだ、やり直せるはずだ。瑞香はまだ生きている。その精神も――まだ、きちんと生きているのだ。
 そのとき、携帯が震えた。ポケットから取り出し確認すると、知らないメールアドレスからメールが届いていた。深く考えずに開く。衝撃の画像が広がった。
 瑞香だ。
 瑞香が乱暴に組み敷かれ、男に胸をもまれている。背景はどう見てもあのカラオケボックスで、送り主はあいつらだと察しがついた。
 考えがまとまらないうちに、電話がなった。どうして電話番号を知っている? 速人はあわてて通話ボタンを押した。
「やっほー、刑事さん?」
「……百々、か?」
「あ、うんそうそう。よくわかったね!」
 瑞香に聞かれないように、声を潜める速人に対し、百々の声は飛び跳ねていた。人生が楽しくて仕方ありません! というような、女子高生らしい声音だった。
「どうして、俺の番号を知っている?」
「いやー、なんかね、瑞香ちゃんの携帯が落ちててさあ。そこから。刑事さん、彼女のお兄さんだったんだね」
 落ちていた? 馬鹿を言うな! と腹の中で速人は怒鳴った。おそらく、真相は奪ったのだろう。これから瑞香をいたぶるために。
「もういい。用件を言え」
 言われなくても分かっていたが、速人は静かに言った。
「うん。さっきの写真は見てくれたかな? 結構きれいに撮れてるでしょ」
「………………」
「あれれ、返事なし? 冷たいなー。で、用件はこちらです! この写真をばらまかれたくなかったら、大人しくいう事を聞け。ばらまきの対象はまあ、手始めに学校と、地域と、それからネット上にも拡散しちゃおうかなー? その場合はもちろん、瑞香ちゃん以外は身元がわからないように加工するけどね」
 最悪だ。
 速人は声にならない悲鳴を上げた。もしそんなことをされれば、この先、瑞香には一生今回の事件が付きまとうことになる。まるで、亡霊のように背後にずっと。そうなれば、今は保てている精神も、どうなるのか分かったものではない。
「……何をすればいい?」
「お、話の分かるお兄さんだねー」
「その、お兄さんというのは辞めろ。篠宮でいい」
「……え? やだよ? わたしがあんたのこと、なんと呼ぼうが勝手でしょ?」
 速人は苛ついたが、それをぶつけることは当然できない。百々はどうやら、速人が嫌がることをするのが楽しいようだ。忍び笑いが電話から聞こえる。
「とりあえずさあ、今から指定する場所に来てもらえないかな? もちろん一人でね。警察なんかに言っちゃだめだよ? こっちはワンクリックで、瑞香ちゃんの人生を終わらせられるんだからね」
「……わかった」
「うん。内容はね、お兄さんにお返ししたいって人が大勢いるからね。ま、覚悟して来てよ」
 電話が切れた。指定する場所はどこだと思った瞬間、メールが届いた。住所と、ご丁寧に地図まで添えてあった。時計を確認する。十時半を回っていた。この街ではそろそろ、道路に人気がなくなる時刻だ。
 速人は身支度を整える。準備をしながら、瑞香の部屋の前を通らなければ外に行けないことに気が付いた。勘の鋭い彼女のことだ。もし前を通れば初めはトイレだと思うかもしれないが、帰ってこない自分にやがて、不信を覚えて不安になる。
 出かけの準備が整った。速人は、瑞香の部屋に寄っていくことにした。
 開いている扉をノックする。室内を覗くと、瑞香は布団で横になっていた。だが、起きていることは明白だ。
「瑞香、すまないが、署から呼び出しがあったんだ」
「…………うん」
 聞き取れるか取れないか、ぎりぎりの返事が聞こえた。
「気をつけろよ」
 言い残して、家を出た。鍵をかける。心配するな、大丈夫だ。念じる。
 速人は一人、夜の街へと飛び出した。

   *

「うそつき」
 瑞香は小さくつぶやいた。くるくるくるくる、パズルのように、物事をつなぎ合わせていく。速人が電話をしているのは分かった。だが、声を潜めていて、聞こえてきたのは断片だけ。だが、声を潜めている時点で、それが署からの電話などではなく、瑞香に聞かれたくない会話の類なのだ、というのは分かっていた。
 その証拠に凜子との会話は、小さいながらも言葉がはっきりと聞き取れていたのだから。

『あいつは――俺の大切な妹だ』

『彼女はあなたの何なのですか』と聞いた、凜子への返答。速人から、そんな言葉は今まで聞いたことがなかった。ずっと、疎まれていると思っていた。面倒だと思われているとも。鈴の事件を引きずっているのも知っている。瑞香は憎い相手の娘でもある。
 あの言葉を聞いたから、瑞香は速人が隣に座ることを許せたのだろう。その大切な妹に、絶対に聞かれたくない会話。そして、署に行くと嘘をついて出かけていく理由。
 何かあったのは、間違いない。問題は、何があるのかだ。瑞香は考える。タイミングから考えて、今回の一件と関わりがあるのも間違いない。
 ならば、考えうる可能性――。
「あ」
 瑞香は布団から飛び起き、来ている服のポケットをあさった。部屋も見回した。持っていった記憶もなかったが、カバンの中身もひっくり返した。
「……ない」
 自分の携帯電話は、百々に盗られたままなのだ。顔が青ざめていく。ならば、今の電話は、百々からという可能性がある。速人は百々からの電話を受けて、外に飛び出した。百々が無策で速人を迎え入れるはずがない。
 ならば、これは間違いなく罠だ。へたり込むようにして床に座り込んだ。速人はおそらく、たった一人で敵地へと向かったのだろう。
 どうすればよい? 何をしたらよい?
 瑞香は自問自答する。
 腕っぷしには多少の自身があった。しかしそれも、今となってはむなしい限りだ。百々の近くにあの男どもがいるかもしれない。そう考えると、家から出ることにさえ、臆病になっている。
 ならば、自分には他に何が出来る? 百々やメググを説得する。……ダメだ。即座に結論づけた。結局彼女たちの本性すら、瑞香には見破ることが出来なかったのだ。闇雲に感情論で言葉を紡いだだけでは、彼女たちを説得するなど不可能だ。
 速人を追いかけたところで、自分は足手まといになるしかない――。
 瑞香は膝に顔をうずめた。今日一日で、いったい何度涙が出たのだろう。ここ何年も、涙とは縁がなかったのに。
「ぅぅ……」
 小さく声が漏れる。どうしてこんなにも、自分は無力なのだろう。速人にすべて押し付けて、この部屋にいるしかない。
 それを悲しく、やるせなく思うと同時に、瑞香は、自分が大きな安堵を覚えていることも理解していた。もう、立ち向かわなくてもよい。百々や男たちと相対し、傷つかなくてよい。
 その場に駆けつけなくても良い確固たる言い訳を手に入れた気がして、瑞香は安心したのだ。そして、そんな自分の心情に気が付き、深く情けなく思ってもいた。
『お前は、ひとりじゃない』
 速人の声がよみがえった。ありきたりで、臭いセリフ。
 瑞香はそんなセリフを、何度が頭の中で反芻した。

   *

 指定された場所は、古びた廃墟のような工場跡だった。建物の撤去費用がないのか、まだ建物がほとんどそのまま残っている。速人はまず、遠くからその工場の様子を窺った。明かりが漏れている。時折動く影は、十人以上の人の気配を感じさせた。やはり、穏便に済むわけには行かないようだ。
 覚悟を決め、速人は歩み始めた。近づくと、室内の声が聞こえ始める。
 百々が集めた仲間たちは、どうやら昼間と同じ系統の男たちで、さらに人数が増しているらしい。入り口にたどり着き、速人の姿を視界に収めると、彼らはなんとも言えない波のような興奮を表した。鼻息荒く大勢の男に見つめられるのは、あまり愉快ではない。
「よお、クソビッチ」
 一番奥に玉座かなにかのように、廃材に腰を下ろしている百々に言った。傍らには侍女のように、ぽっちゃり少女が立っている。
「ようこそ、お兄さん。逃げずによく来たね。約束も守ってくれたみたい」
 百々はひらひらと携帯電話を振った。ちらりと見えた画面に、あの写真が写っている気がした。
「やだやだ! そんなに凝視しないでよ。あと。携帯壊したりしないでよ? すでに何か所かバックアップ取ってるから、これを壊しても無駄だかんね」
 ボブカットの髪をゆらゆらと揺らしながら、百々は言った。
「さて。君に痛めつけられてしまった少年たちに再集結してもらいました」
「その割には、数が多いな」
「んー? そこはあれだよ、俺のダチを傷つけるなんて許さねえぜえ的な友情?」
 ちろりと赤い舌を出して、百々がくるくる笑う。
「要求を言え」
「気が早いねえ、お兄さん」
 今すぐ駆け出して百々の顔面を一発殴りたい。メガネが割れて、破片が飛び、失明することになるかもしれないが仕方ない。
 そんな苛立ちを抑えて、ここまで気長に会話をしてきた自分を、速人は褒めてほしいくらいだった。気が早いどころか、とてつもなく気が長い。
「おお、怖いなあ、怖いよお」
 百々がからかうように笑う。傍らのぽっちゃり娘がくすりと笑った。彼女は百々ほど、この状況に馴染めていないようだ。居心地が悪そうに、緊張した表情をしている。あの表情こそが、通常の反応だろう。廃墟に夜遅く、人が集まり一人の男を囲っている。冷静でいられるはずがないのだ。男たちも高ぶりを覚えているし、おそらく百々のこの感じも、普段よりテンションが高いものなのだろう。
 高揚した連中は、たいがい限度を超えやすい。速人の背中を汗が伝っていく。まさか自分が、女子高校生相手に命の危険を覚えるとは思わなかった。もちろん、直接手を出してくるのは男子高校生だが、この烏合の衆を束ねているのは間違いなく、この百々という少女なのだ。
「なあ、聞いてもいいか?」
「んー? 何を?」
「あんた、いったい何がしたいんだ」
 百々は笑った。お腹を抱えて、面白くておかしくて堪らないいいと言った雰囲気だった。
「そうだね、そうだね、これからタダでボコボコにされるのも可哀想だし、それだけ教えてあげよっか。わたしはね、好き勝手がしたいの」
「……好き勝手?」
「うん。そのための手段が、売春組織を運営することだった」
「は?」
 突然の告白に。速人は思わず声を上げた。売春組織……? 
 そんな速人の様子を、百々は意外そうな瞳で見つめた。
「あれ、お兄さん知らないの? おかしいなあ。まあいいか。話、続けるね。わたしは和樹っていうアンポンタンに誘われた。誘われたときは、なんじゃそりゃって思ったけど、話が具体的になるにつれて、わたしは興味を持った。和樹がお客を集めて、わたしは女の子を集める。お互いを引き合わせて、分け前をピンハネする。わたし自身が商品になることもあったよ? 愛想よくすると、たまにお客さんがチップなんかくれたりしてラッキーだった。和樹の人脈はお金持ちが多くて、ちょーっと変態が多かったけど、金払いの良いいい人ばかりだったよ」
 速人は百々を睨み付けた。百々は少しも堪えないようだった。
「でもある日、これ以上は危ないからやめるって和樹が言い出した。わたしはやめたくなかった。だから仲たがいを起こした。そうしたら和樹のやつ、わたし達を潰すために動き始めたの。せっかく上手く行っていたのに、嫌になっちゃうよね。和樹が送り込んできた刺客が瑞香ちゃんだった。可哀想だけど、これ以上は踏み込まれないために、脅しの材料を作ろうと思ったのよ。お話終わり」
「……なあ、あんたは、なんとも思わないのか?」
「なにを?」
 きょとんとした表情で百々が訊ねる。速人は苦虫を噛み潰したような味を感じながら、
「知らない男に抱かれることについて、だ」
「あー、それねー」
 百々は苦笑いの表情を浮かべた。
「ま、正直言って気持ち悪いよね。でも慣れてきたら何でもないし。今、わたし達の市場価値ってすごいじゃん? だったら気持ち悪いとか言ってないで、価値が高いうちに売り出した方が得じゃん」
「…………履歴に傷がつく」
「んー? どうせ男だって、女買ったりだましたり、好き勝手やってから結婚するんでしょ。そんで、結婚した後なーんも言わないんだ。それならこっちだって、お金稼いだっていいじゃん。だって、誰も困ってないんだし、悪いことしてないし」
 頭痛がする。
 百々のいう事は、ある意味で正しい。双方が本当に納得している売春なら、現段階で傷つくものは誰もいないのだ。未来には後悔して、やらなければ良かったと思うかもしれない。しかし、第三者にそれを指摘し、強制させる権利は、本来存在しないのだ。
「わたし思うんだよね。万引きとかってすっげー悪いじゃん? お店は大打撃だし、潰れちゃうこともあるんでしょ? 一方的な搾取だもんね。でも、売春は違う。きちんとサービスを提供して、それで対価をもらってるんだよ?」
 メガネを百々は持ち上げた。頭をよく見せようとしたのかも知れない。確かに、今の理屈には一理あった。だが世間ではどちらかといえば、万引きよりも売春の方が、上位の悪としてとらえられる。
 ろくでもない大人、その究極はやくざだが、彼らが管理して少女を働かせ、売春組織を作り上げることがある。この場合はもちろん、万引きよりもよほど高度な悪だと断定できる。少女は、無理に働かされているケースも多い。
「わたしが集める女の子たちは、みんなハッピーに働いていたよ? もともと素質のある子だけしか誘わなかったし、合わないって客がいれば絶対に振らなかったし、やめたいって言えばお別れ会だって開いた。うまくやってたんだよ。それを、潰されたくなかったの」
 百々がにこりと笑う。
「そんなわけでようやく、お兄さんへの要求です。――わたし達のしていることを、見逃してほしい。そして、ばれないように協力してほしい」
 携帯画面を、速人に向けた。
 瑞香が画面の中でまた、男に組み敷かれている。
「わたしの奴隷になってほしい」
 速人は息を飲んだ。沈黙が流れる。一秒、二秒……
「わかった」
 この答えしかなかった。そんなこと、初めから分かっていた。
「よかったあー」
 百々がにこにこ笑う。
「お兄さんがすごい薄情もので瑞香ちゃんの人生とかどうでもよくて、わたしはクリックひとつでウエブサイトにアップロードできる状態なのに殴りかかってきたらどうしようかって思ってたよおー」
 百々が玉座、あらため廃材から、「よいしょっ」と言いながら、ぴょんと飛び降りた。
「とりあえず、君に痛めつけられた子たちが、君に仕返ししないと許さない、もう協力できないっていうから、させてあげてね」
 つかつかと、百々がこちらに近づいてくる。男たちも、ぽっちゃり娘も、百々ほどではないが速人との距離を詰めてきた。いよいよ袋にされるらしい。
 どこまでやられるか分からないが、きっと自分は耐えられる。大丈夫なはずだ。今までの訓練に比べれば、こいつらのシゴキなど蜜の味だろう。
 速人は丹田に力を込めて、襲撃に備えた。
 だが、まだ突撃の号令は訪れない。百々の足音だけが、廃墟に響く。
 ついに彼女は、速人のすぐ目の前にまで迫った。そして右足を持ち上げ、速人を見上げて睨み付ける。
「キスして」
 頭を思い切り殴られたような衝撃。
「いっかい、こーいうのやってみたかったんだよね。えっちの最中にやりたがるやつは居たけどさ。お兄さん、こーいうの絶対やりたくないでしょ? そういう人に、キスさせるの」
 速人は持ち上げられた右足の、靴を眺めていた。
「早くしてよ、片足立ちもつらいんだよ」
 百々が一度、地面に足をつけた。ほら早く、と言いながら再び足を持ち上げる。
 速人はその足を受け取った。靴の裏についた土の感触が、手のひらに広がる。素早く唇をつけた。
「あっはっは。すっごい良い表情!」
 百々が歓喜の声を上げ、携帯電話で撮影した。いったい自分はどんな顔をしているのだろう。見なくても、想像はついた。ひどい顔だ。誇りをおられ、情けない、魂の抜けたような顔。
「あ、そうだ! 今度は動画も撮ろうっと。ねえ、メググ、お願いしていい?」
 胸に棘が刺さる。口内を噛んだ。体の痛みのほうが、今感じているそれよりも、何十倍もましだった。勘弁してくれ、やめてくれと訴えたい。だが、それを言ったところでますます百々を喜ばせるだけだとは分かっていた。そして最終的には写真で脅され、いう事を聞くしかない。そんな醜態をさらすくらいなら、潔くキスするほうがまだましだ。
 メググ、と呼ばれた少女がカメラを構える。ぴとんという、呑気なスタート音がする。百々が右足を持ち上げる。速人は覚悟を決めてその靴に唇を近づける。
「待った!」
 その声に、動きを止める。振り返ると、瑞香が立っていた。背後には、凜子の姿もある。
 速人は驚きのあまり、大きく目を見開いた。

   *

「瑞香! 大丈夫なのかっ」
「うん、平気平気」
 瑞香はゆっくりと、室内へ足を踏み出した。震える足を、それでも。
 ようやく速人の隣にたどり着くと、彼女はそれ以上進むのを止めた。顔色が青い。視線を、自分を襲った連中には向けられないのか、速人の体ばかりを凝視した。
「瑞香ちゃんは招待してないよ? どうやってきたの」
 百々が険しい口調で問う。速人を疑っている様でもあった。おそらく、一人で来いとでも釘を刺されていたのだろう。
「簡単だよ。速人の様子が変だったから、追いかけてきたの」
 本当は違った。まず、瑞香は受け取った名刺で番号を知り、凜子に連絡を取った。続いて、近所の武原兄妹のもとに向かい、妹に何か連絡が来ていないか訪ねた。案の定、百々はタケも招待していた。タケはカラオケ店での宣言通りに足を洗う事に決め、家にずっといたようだ。だから、住所をしった。そのあと迎えに来てくれた凜子の車に乗り込み、この場所にやってきたのだ。
 大きく息を吸い、吐く。
 瑞香はそれを何度か繰り返してから、静かに言葉を吐き出した。
「ねえ、河川敷の死体も、あなた達がやったの?」
 みな、あっけにとられた。一瞬してすぐに、「死体?」という疑問符が飛び交った。
「うん、知らないんだ。でもね」
 瑞香はぎこちない動きで、首を二人の少女に向けた。
「百々。百々がいつか見せてくれた、お揃いだって言ってたクマの手作りキーホルダー……。死体は、それを握っていたんだよ」
「え!? なんで!?」
 彼女たちの顔が、同時に青ざめた。とくにメググは、汗を垂らし始め、明らかに挙動不審になる。
 その様子に百々も気が付いて、「あんた、なんか知ってんの!?」と声を上げてメググを問い詰めた。
 メググは泣き出しそうな顔で、首を激しく振った。
「知らない、知らないよ! ただ……。言いにくくて、言えなかったんだけど、何日も前にそのキーホルダーなくしてて……。多分、メググのだよ。どうしよう、なんで!?」
 後半はすでに泣き出していた。涙を服の袖で拭い始める。だが、太めの少女の取り乱しようを見て、もうひとりは逆に落ち着きを取り戻したらしい。
「……死体なんて知らない。わたし達には、関係ない」
 その声の響きには、冷静さが戻っていた。瑞香の言葉に詰まる。
「大崎純一郎」
 速人はぽつりと言った。瑞香は速人の顔を見つめる。おそらく、死体の名前なのだろう。
 再び少女達の顔色に変化が生じた。メググは完全に青白くなり、百々もメググほどではないが、血の気が引いていた。
「こいつは、女子高生と援助交際をしていた、という事実がある。目撃証言もいくつか出ているんだよなあ……。あんたらのうちのどっちかじゃないのか? こいつの相手は」
 言いながら、速人は二人を順繰りに見つめた。
「その顔は、心あたりがあるって顔だな」
「…………知らない」
「嘘をつくと、後々困るのはあんた自身だ」
「し、知らない! ほんとに知らない! その人は知っているけど……死体とか、キーホルダーとか、ほんとに違う!」
 速人は静かに言った。
「とりあえず、事情聴取と行こうか」

   *

 二人の少女を乗せて、凜子は署に向かっていった。瑞香の携帯電話も無事に回収され、今は持ち主の手元に戻ってきている。
「瑞香ちゃんのこと、しっかり頼みましたよ」
 そんな言葉とウインクを、彼女は最後に残していった。速人は瑞香と廃墟の外に座り、ぼんやりと月を眺めていた。ポケットから煙草を取り出す。火をつけて口に運ぶと、いつもと同じはずの煙が、やけに美味く感じられた。
「いいのか?」
「うん、いいよ」
 言葉をかなり省いたのに、瑞香はしっかりと理解していた。
「私が襲われた話、必要なら、きちんと署で証言する。そりゃ、きついけどさ。あんな写真を拡散されるより、ずっとマシだもん」
 速人は瑞香の顔をちらりと窺った。彼女はまっすぐに月を見つめていた。綺麗な大きい黒い瞳に、金色の月が浮かんでいる。
「私ね、ずっと一人で戦ってたんだね。馬鹿だった。手を伸ばして、助けてって言えば、叶えてくれる人がたくさんいたんだね」
 月を飲み込んでいた瞳が、速人を射抜いた。瑞香は、少し大人びた表情をしていた。いや、実際に着実に、彼女は大人になっているのだ。自分があまりにも、彼女を真正面から見つめたことがなかったから、そう感じるだけなのだ。
 自分も彼女と同じように、今回気が付いたことがあった。
 瑞香を大切に思っていること。
 疎ましいと思っていたし、古傷にむやみに手を触れるようで、彼女に接するのは怖かった。だが、深い愛情をいつの間にか、この少女に覚えていた。
 自分がどうなっても良いと思えるほどに――。
 だが、瑞香と違い、それをストレートに言葉に乗せることは出来なかった。きっと、これから先も言えないだろう。
「ところで」
 途端に、先ほどまでの大人びた顔は消え失せ、変わりに幼い子供のように瑞香はにんまりと笑った。
「私が駆けつけたとき、速人は何をしようとしてたのかな~?」
「ゴホッ! ごほ、ゴホっ」
 思い切り煙草をむせた。瑞香はにまにまと笑っている。どこか凜子をほうふつとさせる。
「未遂で済んでよかったね」
「……ああ、まったくだ」
 瑞香が現れる前に、速人は百々の靴にキスをしてしまっている。
 このことは、墓場まで持っていこうと、速人は固く決意をした。

   *

 大きく伸びをする。目が覚めた瞬間、唇の感触を思い出し、思い切り拭う。いつかこの嫌悪感を忘れ、うまく折り合いをつけることができるのだろうか。瑞香はうんざりしながら、部屋を出た。
 リビングには意外なことに、速人の姿があった。驚いたことにエプロンをして、キッチンの中で何か作業をしている。
 訊ねると、捜査関係者に親族が入ってしまったため、外されたらしい。このあたりで一度、休養をとっておけと休みにされたそうだ。
 瑞香は少し緊張しつつ、テーブルについた。
「ほら、丁度できた」
 速人がドヤ顔で運んできたのは、目玉焼き? だった。この『?』はけっして外すことが出来ない。なぜか白身の部分が紫色に変色し、黄身と思わしき部分はぐちゃぐちゃだからだ。そばにナスの炒め物? があることから、変色はこのナスの色が移ったものだと理解できた。毒でなければ食える。瑞香は、社交辞令として、「うわーおいしそー」と言ってのけた。
 だが、速人は気に食わないらしく、顔をしかめて見せた。
「なあ瑞香、もうそういうの、やめにしないか?」
「やめ?」
「思ったことを、そのまま言えよ。俺を気遣うな。気遣われる方が、めんどくせえんだ」
 瑞香は速人をまぶしそうに見つめた。
 自然と、笑顔がこぼれて落ちた。
 こんな言い方しかできない速人を、とても愛おしく思えた。だから、彼女は笑顔のまま頷いていう。
「この目玉焼き、すっごい下手!」
「うるせえ」
 速人は笑いながら返した。
 ここから、少しずつ変わっていけそうな気がする。瑞香は箸を手に取ると、目玉焼きを口に放り込んだ。
「美味しい!」
 思ったままを、口にした。

   *

 瑞香を学校へと送り出し、速人は煙草に火をつけた。彼女と朝ごはんを食べるのは、いったい何か月ぶりだったのだろう。よく思い出せない。が、思い出す必要もないだろう。これからは出来るだけ、彼女と一緒に食事をとろう。たまには、どこかへ遊びに出かけても良いだろう。
 一服を終え、速人は凜子に電話を掛けることにした。
「あ、速人さん~、おはようございます~……」
 どこか眠たそうな声だった。
「あれから、少し大変だったんですよー、とりあえず二人は、家に帰しました。今日は学校を休ませるようにと伝えています」
「そうか……」
「けれどやっぱり、彼女たちは殺人犯ではなさそうです」
 電話からの報告に、やっぱりなと速人は頷いた。
「だけど、結構参ってるみたいですね。これを機会に危ないことに首を突っ込むのも、やめるかも」
「だといいけどな」
「あと、瑞香ちゃんの画像の件は、こちらでばっちり消去させましたからね、強面の刑事さんにも事情を教えずに協力してもらいましたよ。百々ちゃん、ぶるぶる震えて泣きそうでした」
「おう、ご苦労」
 電話を切る。これで、とりあえず表面上の脅威は消えたことになる。また、何か問題は起こるかもしれない。だが、そのときは、今回のようにはならないだろうと速人は考えていた。
 瑞香は必ず、自分を頼ってくれるだろう。自分ももう、瑞香に無関心ではないし、踏み込むことを恐れたりしない。
 こんなに穏やかでのんびりとした休日は、いったい何年ぶりだろう。
 速人は目を細めて、窓の外の明かりを見た。外にでるには良い天気。少し肌寒いかもしれない秋晴れだ。

   *

 瑞香は自転車を止めてすぐに、クラスには向かわなかった。が、途中の廊下で、タケと武原と出くわした。お互いに足を止める。瑞香はにんまりと笑った。
「兄妹仲良く登校? 良いね」
「そんなんじゃねえよ」
「そんなんじゃない」
 瑞香は思わず、噴き出して笑った。武原兄妹も、ばつの悪そうな笑顔を浮かべている。タケは、今回の瑞香を取り巻く事件に関与していなかったため、事情徴収は大目にみられていた。
「まあいいや。私、ちょっと急いでるんだ、じゃ」
 片手をあげてその場を去ろうとする。が、「おい!」と呼び止められた。振り返ると、武原が照れくさそうな顔で、「ありがとな」とつぶやいた。瑞香は笑って手を振った。
 順繰りに他のクラスに顔を出す。二番目に、目当ての人物の姿を見つけた。
「和樹!」
 彼は友人に囲まれて、楽しげに談笑を交わしていた。男も女もいる。それも大勢だ。クラスの中心人物的高校生、といったところだろうか。
「ああ」
 呼びかけに答えて振り返り、瑞香の姿を確認すると、彼は実に親しげでさわやかな笑みを浮かべた。片手をあげた。瑞香は返さなかった。
 友人に断りをいれ、彼が近づいてくる。瑞香は何も言わずに歩き出した。和樹はその後ろをついてくる。
 信じられない気分だった。瑞香はいつか、和樹と連れだって入った自習室にたどり着いた。
 相変わらず誰もいない。好都合な教室。入室した和樹が扉を閉める。瑞香は真正面から彼を見つめた。
「和樹、あんたは」
 瑞香は静かに言った。
「死体を移動して、盗んだクマのぬいぐるみをその死体に握らせた」
 瑞香は警察の情報を知らない。遺体の詳しい状況も。
 けれど、百々の言った言葉から、一つ途方もない想像もしていた。金持ちの男で、変態が多かった。和樹は女の子の管理やお客の手配をしていた。
 行為の後、男から連絡がなかった和樹が、ホテルに顔を出す。すると、男が死んでいたのではないだろうか。一度だけ何かのドラマで見たことがある、途方もなくどうしようもない『事故』によって。
 言葉を止めるが、和樹に反応はない。親しげでさわやかな笑みのままだ。その表情が、瑞香にはだんだんと不気味に思えてきた。
「私は昨夜、百々を追い詰めた。けれど、そのシナリオはあんたが描いたままだった。きっと、警察は突き止める。百々もメグも、捕まることはないでしょうね。けれど、売春組織はもうおしまいだ。それが、あんたの狙いだった」
 変わらず、和樹には変化がない。
 瑞香にももう、吐き出す言葉はなくなっていた。
「話は終わり?」
「あ、うん」
「そう。じゃ、またね、瑞香」
 和樹はくるりと瑞香に背を向けて、出て行った。瑞香は彼が出て行った扉を、しばらくの間眺めていた。
 完全に、見誤っていた。何もかもを。和樹が妹のためと言っていたのは嘘だった。それは、囲っていた側――武原の事情だ。それをそのまま言い訳に使い、瑞香の懐に潜り込んだ。
 ただ、一つだけ。これだけは嘘ではないだろうと、瑞香が確信しているものがある。

『それから、僕は停滞が怖くなった。それと、このままじゃいられないってことをね。こんなものじゃない、もっとやれる』

 この言葉の真意は、もっと奥深いものかもしれない。底なし沼のような欲望を、和樹は何の変哲もない高校生の体の内側に、秘めている。
「うーん」
 瑞香は大きく伸びをした。
 自分は変わった。
 けれどまだ、正義の味方を終えられそうには、ない。


FIN

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