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🌾 ヒンメリが生まれ、育まれる場所 vol.8 お菓子の包み紙が飾られたヒンメリ

日頃、フィンランドの国立図書館が提供するデジタルアーカイブ ” Finna ” を使って調べものをしています。フィンランドの公文書館、図書館、博物館等が所蔵する資料のデジタルコンテンツや書誌データを統合的に検索できるサービスです。

このデジタルアーカイブを使って、ユニークなヒンメリを見つけたのでご紹介します。sotamuseo / 戦争博物館 が所蔵する写真です。

CC BY 4.0
ORGANISAATIO:sotamuseo
Sot.virk. H.Tornia, valokuvaaja 1942


ヒンメリに飾られているのは、フィンランド製のお菓子の包み紙。はじめて見たときは、なんだかゴテゴテしているな、という印象をもちました。

この写真のキャプションを読んでみましょう。

Himmeli, joka on koristettu suomalaisilla karamellipapereilla, mitkä vepsäläistaloissa yleisesti käytetään koristeluun.

(訳)
フィンランドのお菓子の包み紙で飾られたヒンメリ。お菓子の包み紙は vepsäläistalo で日常的に装飾に使われていた。

finna.fi



vepsäläistaloとは


日本語で〈 家 〉を意味するフィンランド語 talo が語尾についているので、建物を意味する単語と想像します。一体どんな建物なのか。talo / 家 を修飾する vepsäläis- は何を表しているのでしょうか。辞書をひいても、地図を探しても、該当する単語は見当たりません。

ならばと、Wikipediaのフィンランド語版を使って検索すると、あるページがヒットしました。

Vepsäläiset (vepsäksi vepsläižed) ovat itämerensuomalainen kansa, joka asuu Venäjällä. Vepsäläisiä asuu pääasiassa Äänisen ja Laatokanläheisyydessä Karjalan tasavallassasekä Leningradin ja Vologdan alueilla.

(訳)
Vepsälaiset とは、ロシアに住む itämerensuomalainen / バルト・フィン人。主に、アアニネンやラドガ近郊の東カレリア、レニングラード、ヴォログダの地域に暮らす。

Wikipedia.fi


なるほど、vepsäläistalo とはロシアに住むバルト・フィン人の家を指すのでしょう。そして彼らはフィンランド製のお菓子の包み紙を日常的に装飾に使っていたのです。一体、なぜ?

なぜ、お菓子の包み紙を飾るの?


この疑問をもう少し掘り下げるため、写真が撮影された年代に着目してみます。

クレジットを確認すると、この写真が撮影されたのは1942年。当時、フィンランドはソ連との継続戦争の真っ只中にありました。継続戦争は簡単にいうと、冬戦争(1939-1940年)でソ連に割譲された領土を取り戻すための戦争で、その領土には itämerensuomalainen / バルト・フィン人 が暮らすカレリア地方も含まれていました。

(引用)Wikipedia


上の画像で赤く塗られているのが、冬戦争でソ連に割譲された地域です。


二度の戦争に翻弄されたのは、他の誰でもない、市井の人々でした。

カレリアにルーツをもつフィンランドの女性が、冬戦争・継続戦争の時代を生きた家族の足跡を追いかけた記録をInstagramで公開しています。テキストの一節を日本語に訳してみました。

1939年12月6日、私の曽祖母アルマと6人の子供たちが避難しました。アルマたちが家を発ったのは、夜8時のことでした。

彼女たちが再びこの家に戻って来たとき、裏庭には砲撃のあとが大きな穴となっていくつも残っていました。牛小屋も同様でした。

2001年、アルマは97歳でこの世を旅立ちました。

自分で編んだ靴下を履いて、一緒に棺に納められた缶には、生前、彼女が用意した故郷スイスタモの土が詰められていました。

アヌさんのInstagramより翻訳・抜粋


この女性の曽祖母アルマさんは、 itämerensuomalainen にあたるのでしょう。なぜなら、彼女の故郷 Suistamo / スイスタモ は元々はフィンランドの領土だった、ラドガ・カレリア地方にありました。( Suistamo / スイスタモ はルート・ブリュックが1969年に発表した作品のモチーフにもなったので、フィンランド美術に関心が高い方には聞き覚えがある地名かもしれません。)

冬戦争の時代にカレリアの自宅から避難したアルマさん。スイスタモの自宅に一時帰宅なさったのはおそらく、継続戦争が始まるまでの休戦期だったのでしょう。アルマさんのように冬戦争をきっかけに故郷を追われた人々は、馬車や電車に持てるだけの荷物を積み、はじめは小学校などに避難しました。そして、継続戦争が塹壕戦に変わると、無理をしてでも自宅に戻った人もいたそうです。

2001年に97歳だったアルマさんが、故郷を去ったのは40歳。一時帰宅なさったとき、どんな思いで故郷の土を瓶に詰めて、それを亡くなるまでずっと大事に保管していたのでしょう。

話を戻します。なぜ、冒頭に紹介したヒンメリには、フィンランド製のお菓子の包み紙が飾られていたのでしょうか。

百瀬宏さんが監訳なさった『世界史のなかのフィンランドの歴史』(明石書店)によると、戦時中のフィンランドでは、「規制」と「不況」がお馴染みとなっていたそうです。特に冬戦争が行われた1939年から1940年にかけては、第二次世界大戦の真っ只中だったこともあり外国からの輸入が難しく、また、国内の工場では軍需品が生産されていたので、食料の他にも様々な物資が不足していました。

当時、キャンディやチョコレートなどの甘いお菓子は貴重品。その包み紙だって、簡単に捨てるのが惜しいものだったのかもしれません。

でも、それをなぜ、「ヒンメリ」に 「飾る」 のか。

CC BY 4.0
ORGANISAATIO:sotamuseo
Sot.virk. H.Tornia, valokuvaaja 1942


その理由はただ単に、お菓子の包み紙がかわいかったから、かもしれません。その昔は卵の殻や鳥の羽根が飾られていましたから、カラフルな包装紙を飾ったら面白そうとひらめいたのかもしれません。

あるいは、戦争で住むところを追われたアルマさんが故郷の土を缶につめて大切に手放さなかったように、フィンランド製のお菓子の包み紙はアイデンティティの一部だったのかもしれません。どうしようもない想いを自分ひとりでは抱えきれず、天を意味するヒンメリに一緒に背負ってくれるよう、託したのかもしれません。


この写真には、ヒンメリを装飾としてだけではなく、文化として研究する奥深さが詰まっているように思います。


🌾 おまけ

当時のお菓子の包み紙をいくつかご紹介します。

CC BY 4.0
ORGANISAATIO:Helsingin kaupunginmuseo
Huhtamäki Oyj, valmistuttaja 1920–1934


CC BY 4.0
ORGANISAATIO:Helsingin kaupunginmuseo
Suklaatehdas Chocoladfabrik, valmistuttaja 1897–1913


CC BY 4.0
ORGANISAATIO:Helsingin kaupunginmuseo
Kari, Herman, valmistuttaja


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