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小説『鬼平犯科帳/むかしの女』の舞台を散歩

はじめに

長谷川平蔵が、まだ「本所の銕(ほんじょのてつ)」と呼ばれていた頃、深川の娼婦「仙台堀のおろく」のヒモのような生活をしていたことがあった。
二十数年後、平蔵は石川島に人足寄場、つまり今の刑務所で行われている懲役刑専門の矯正施設をつくった。
その人足寄場からの帰途、歳を取ってやつれた「おろく」と再会する。
そこで平蔵は持ち合わせの金を与える。
「おろく」が昔の客を強請って(ゆすって)歩き、楽をして金を稼ぐ味をしめてしまっていた。
そこから事件が展開していく。

そんなお話です。

江戸時代の政治、行政、法律、文化、風俗は、悉く現在に生かされているのではないでしょうか。
明治政府は、とかく江戸幕府を悪とみなし、否定する政治を行って来たのですが、結局、崇高で合理的だった江戸幕府の政治を踏襲せざるをえなくなってしまった、そんな訳で現在に至っていると思うのです。
町火消(消防団)、隣組(自治体の組)、番屋(交番)、消火栓(火消桶)、回覧板制度等々。
そして何より人足寄場(刑務所)ではないでしょうか。

江戸時代という近代文化が芽吹いた時代は素晴らしいですね。

一、石川島人足寄場(いしかわじまにんそくよせば)

正式には、加役方人足寄場(かやくかたにんそくよせば)といいます。
寛政二年(1790年)2月19日に江戸幕府によって石川島に開設された軽犯罪人のための更生施設及び自立支援施設でした。
人足寄場設置以前には、既に隔離労役対策として、佐渡金山や水替人足(鉱山に溜まった水を排水する仕事に従事した人足)があったのですが、非常に厳しい労役であったため、正に懲罰でしかなかったことを懸念した長谷川平蔵宣以が発案し、人足寄場が発足したと言われています。

石川島人足寄場跡

寛政元年(1789年)火付盗賊改方長官 長谷川平蔵宣以が老中 松平越中守定信(まつだいらえっちゅうのかみさだのぶ)に人足寄場設置を建言したのです。
この人足寄場、実は明治維新まで存続していたのです。

設置初期、火付盗賊改方長官が所管していたのですが、長谷川平蔵が退任して以降は江戸町奉行所所管となりました。
以後、人足寄場奉行なる役職が置かれ、町奉行所から目代として与力・同心が配属されたそうです。

ちなみに、長谷川平蔵は、幕府からの運営資金が不足していたため、幕府から資金を借りて銭相場に投資してその利益を運営資金に充てたり、私財を質入れして資金を調達していたそうです。
なので、平蔵が亡くなった後の長谷川家は、先祖伝来の家宝がほとんどなくなっていたり、借金の証文が残されていたと聞いた事があります。
小説やテレビで見る長谷川平蔵と、実際の人物は正に同じであると感じました。

佃の渡跡

収容人員は300人から400人で、作業所、浴場、病室が完備され、喫煙や煮炊きも許され、暖を取る施設もあったそうです。

現在は佃島公園に、当時寄場奉行が設置した石川島灯台が復元されています。
残念ながら当時を偲ぶものは残っていません。

二、ねずみ長屋のおろくの家

長谷川平蔵を男にしたと自ら公言するおろくの家があった場所です。
本所四ツ目、今で言うと、そのまま四ツ目通りですね。
すみません、本所四ツ目のねずみ長屋は、あまりに漠然としていて場所の特定ができませんでした。
墨田区押上(旧 押上村)から江東区猿江(旧 猿江町 小名木川)までを貫く通りです。

三、深川末広町と十万坪

大横川と末広町跡
末広町と十万坪跡

無頼浪人で「雷神党」の首領 井原惣一のアジトがあったところです。
その巣窟は百姓家だったと小説には記されています。
現在、その町名はなく、現 江東区千石一丁目付近が該当します。
当時、深川・十万坪の辺りは一面葦原だったそうです。

四、日本橋大伝馬町の木綿問屋大丸屋

「おろくのむかしの客のひとりで、大伝馬町の木綿問屋・大丸屋の手代で万吉という若者がいた。十七年前のそのころ、万吉は二十三、四というところで、若い男の肌が好きなおろくは欲得をはなれて可愛がってやったものだ。」
との一説が小説にあります。
現在の東京都中央区日本橋大伝馬町ですが、江戸時代、一丁目は木綿問屋街として発展し、且つては木綿問店(もめんだな)と呼ばれていたそうです。
二丁目は各種問屋、薬種問屋、一般商店が軒を連ね、三丁目(通旅籠町とも呼ばれた)には木綿呉服店の大丸屋がありました。

大丸屋跡

そうなんです、木綿呉服店ではありますが、大丸屋は実在していたのです。
安藤広重の絵にも描かれているんですよ。

はい、みなさんご存知、現在の大丸百貨店のことです。
下村彦右衛門が京都で創業しした呉服店で、その江戸店です。
三越の前身である越後屋に次いで繁盛していたと言います。

大丸屋百貨店の創業者、下村彦右衛門正啓は京都伏見京町に生まれ、19歳の時に父の古着商「大文字屋」を継ぎました。
行商だったそうです。
享保十一年(1726年)八文字屋甚右衛門と共同出資で大阪は心斎橋に「松屋呉服店」(現 大丸心斎橋店)を開業し繁盛店となりました。
享保十三年(1728年)名古屋本町四丁目に名古屋店を開店し、初めて「大丸屋」を名乗り、享保十四年(1729年)京都柳馬場姉小路に呉服仕入店を開設しました。
元文二年(1737年)京都東洞院船屋町に大丸総本店「大文字屋」を新築開店しました。

丸に大の字の宣伝が行き渡った頃を見計らって、寛保元年(1741年)江戸日本橋大伝馬町三丁目に大丸屋江戸店を開業しました。

明治になって道路が整備され、これまでの往来が北に移動すると、地の利を失った大丸屋は東京店を閉鎖し、関西へ撤退したのですが、昭和二十九年(1954年)大丸百貨店に成長して東京駅八重洲口に戻ってきたのです。
壮大なストーリーですが、これが呉服問屋大丸屋なのですね。

大伝馬町にはご存知の通り、牢屋敷がありました。
伝馬町牢屋敷、時代劇でも有名ですね。
ここについては、また改めてご紹介したいと思います。

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