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小説『鬼平犯科帳/密通』の舞台『久栄の伯父・天野彦八郎義盈の屋敷』を散歩

長谷川平蔵宣以の妻である久栄(ひさえ)の母方の伯父、天野彦八郎義盈(あまのひこはちろうよしみつ)についてお話します。
結論から言うと、小説の中の人物であり、実在した方ではありません。

さて、この伯父、性格が驕慢なため久栄は嫌っていたとあります。
七百石の旗本で、お役目は小納戸衆(こなんどしゅう)でした。
長谷川平蔵は、天野彦八郎のお家騒動を内々に解決したと記されています。

「将軍家の側近くに仕え、将軍の日常の世話をするのであるから羽ぶりもなかなかによく、昇進の道も開けている。
それに天野家は、代々裕福であって、久栄の母を妻にしてから大橋与惣兵衛は、天野家から百両の大金を借りうけけたことがあり、現在も全部は返しきれていないらしい。
こういうことで、天野彦八郎には、大橋与惣兵衛(おおはしよそべえ)も頭があがらぬ。
それをかさに着て、彦八郎は威張ること威張ること。
「わが伯父ながら、とても、鼻もちなりませぬ」と、いつか久栄が平蔵にもらしたことさえある・・・・・」

小説上の『天野彦八郎義盈の屋敷』

お家騒動とは、この天野彦八郎が、自身の家臣で用人である中野又左衛門を呼びつけ、中野の妻である「お米」を「たまさかでよいから、お米を、わしに・・・」
と要求したことに端を発するのですが、ここでは詳しいことは割愛させていただきます。
詳しいことは小説を読んでいただいた方が良いでしょう。

久栄の母は、この天野家の三女に生まれ、久栄の父、大橋与惣兵衛の妻となりました。

長谷川平蔵はじめ、天野彦八郎や大橋与惣兵衛等旗本と呼ばれた武士とはいったいどのようなものであったのでしょうか。

旗本とは、将軍直属の家臣のことを指します。
禄高は一万石未満で(一万石以上は大名)、将軍への謁見が許される「御目見(おめみえ)」以上の家格の者を指します。
御目見以下の幕臣を御家人といいます。

大野彦八郎は小納戸衆(こなんどしゅう)であったと記されています。
小納戸衆とは、江戸幕府の役職で、将軍近侍職にあたります。
幕府の小納戸とは、将軍が起居政務を執る江戸城本丸御殿中奥で将軍に勤仕し、日常の細務に従事する者のことです。
若年寄(わかどしより)の支配下に置かれ、御目見以上、布衣(ほい:江戸幕府の典礼・儀式に旗本下位の者が着用する狩衣(かりぎぬ)の一種。無紋(紋様・地紋のない生地のもの)着用を許されていました。

天野彦八郎の石高は七百石とされていますが、七百石取りの旗本の軍役は、侍4人、甲冑持1人、槍持2人、馬の口取2人、小荷駄2人、草履取1人、挟箱持1人、立弓1人、鉄砲1人の揃えと定められていました。
江戸幕府は軍事政権でしたので、軍人である武士は平時の政のほか、有事の際には武器を取って戦う義務がありました。
そのため武士は、読み書き、茶、華、香や剣術、弓術、槍術、砲術、馬術、体術の鍛錬も行わなければならなかったのです。

旗本の勤務先である江戸城への平時の登城では、侍3~4人、挟箱持1人、中間1人、草履取1人、馬の口取1人、槍持2人の約10人を揃えて登城しなければなりませんでした。

屋敷内では、用人(家政)、侍、馬の口取、門番、女中、飯炊き等16人・17人を使っていました。

こうして見てみると、人件費が重荷になっていたのだと思います。
ちなみに、明治政府においては、旗本の家臣は士族として認められなかったのだそうです。
つまり、平民に属したのでしょう。

旧法眼坂

天野彦八郎の屋敷は、小説の中で、麹町・表六番町(現在の東京都千代田区四番町と九段南四丁目付近の二七通り沿い)にあったとされています。

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