見出し画像

小説『鬼平犯科帳』の主人公『長谷川平蔵の屋敷跡』を散歩

東京都墨田区菊川3丁目16
ここに長谷川邸1238坪の屋敷がありました。

画像1

池波正太郎先生の小説「鬼平犯科帳」で一躍世に知られることになった鬼平こと、長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)。
姓は長谷川、通称を平蔵、諱(いみな:本名のこと、昔は諱を名乗ることも呼ばれることもなかった)を宣以。

徳川家の御先手組弓頭(おさきてぐみゆみがしら)の長谷川家は、戦時においては先陣をきってその先鋒に立ち、敵の陣形に対して弓を射って相手を切り崩すという重要かつ勇猛果敢な部隊の隊長でした。
平和だった徳川幕府治世下でも時として盗賊がはびこったり、放火が相次いだり、平和を乱す輩が現れることが度々あったのですが、そうなると江戸町奉行所も天手古舞になってしまい、通常の業務に支障を来すことになってしまうため、幕府は臨時の特別武装警察隊として武闘集団の「火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)」を組織した。
通称を火盗改(かとうあらため)といい、斬捨て御免で関八州にも権限が及ぶ特別権限を持たされた集団でした。

長谷川平蔵宣以は、その御先手組の弓部隊の頭であり、御先手弓組配下の人員を率いて火付盗賊改方の長官を務めました。
父長谷川平蔵宣雄(のぶお)も且つて火盗改長官を務め、その後京都へ赴任し、京都西町奉行を務めましたが、拝命して三年後に亡くなっています。

父の死後、宣以は、父の通称を継いで平蔵を名乗り、一般的に平蔵と称し、また呼ばれるようになったのです。

宣以は延享三年(1746年)赤坂に生まれ、屋敷替えによって鉄砲洲に移り、宣以十九歳の明和元年(1764年)に築地からこの地に移りました。
池波正太郎先生の小説では、江戸城清水門外に役宅があったとしていますが、史実では火付盗賊改役は長官の私邸を役宅として使用することになっていたため、この場所が自宅兼役宅でした。
ちょっと脱線しますが、時代劇では門に住人の表札や『北町奉行所』などの看板が掛かっていますが、実際は表札も看板もありませんでした。
だから江戸に住人でもどこの誰の屋敷なのか、どのような役所なのか、分からない人が多かったと思われます。

この菊川の屋敷に警察行政事務や取調べ、拷問や白州(裁判)を行い、牢も設けていたのです。
自宅としての寝食、役所としての警察業務をここで八年間も、亡くなる直前まで火付盗賊改役を続けていたのですから、とても大変だったと思います。
通常は2年から3年だったそうですが、8年間も務めたのですから凄いですね。
何が凄いかって、それは私財を投げうって借金までして火盗改の仕事に打ち込んだと言われています。
先祖伝来の宝物や甲冑、槍や刀まで売ったり質に入れて金子を用立て、配下の密偵などに報酬を支払ったり、石川島人足寄せ場を造ったり、またその維持費を支払ったりと、幕府の財政も厳しかったため、自分で工面するしかなかったようです。
寛政七年(1795年)50歳のとき、この屋敷で亡くなりました。

長谷川平蔵宣以が亡くなって、孫の平蔵宣昭(のぶあき)の代、弘化三年(1846年)に屋敷替えとなり、この屋敷は名奉行の誉れ高い遠山金四郎、あの遠山の金さんの下屋敷になったのです。
長谷川家は遠山家がいた駒込の屋敷に入りました。
つまり交換になったのですね。

遠山の金さんは、正式名称を遠山左衛門尉金四郎景元(とおやまさえもんのじょうきんしろうかげもと)といいます。
ちなみに、遠山家の上屋敷は芝愛宕下にあったそうです。

武家の屋敷は屋敷用地を幕府から借り受けていたのですが、大名家を例にとると以下の通りの広さになります。

●1~2万石 2,500坪
●3~4万石 3,500坪
●4~5万石 4,500坪
●5~6万石 5,100坪
●6~7万石 5,600坪
●8~9万石 6,600坪
●10~15万石 7,200坪

【YouTube】

【Twitter】 
https://twitter.com/usakichi_net 

【ブログ】 
https://usakichi.net/ 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?