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小説『鬼平犯科帳/女掏摸お富』の舞台を散歩

はじめに

女掏摸(めんびき)とは、女掏摸(おんなスリ)のことです。
女掏摸お富は、長谷川平蔵によって見逃され、堅気の生活に戻れるよう取り計らったのですが、また掏摸を働いてしまうのです。
再び掏摸を働くお富を長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため)はまたも目撃してしまい、二度と掏摸が出来ないよう利き手の人差し指の筋を切ってしまうのです。

逮捕もせず、指の筋を断ち切って諭す鬼平の懐の深さに涙してしまうのは私だけでしょうか。

一、巣鴨村の大百姓「三沢仙右衛門宅」

三沢仙右衛門宅と想像される江戸橋公園

鬼平の実母である「お園」の生家です。
父 長谷川平蔵宣雄(はせがわへいぞうのぶお)が長谷川家を継ぎ、正妻を迎えたため、鬼平が実母と共に巣鴨村の祖父母の元で十七歳までの歳月を送った場所であると小説には描かれています。
巣鴨村の大百姓とありますが、所謂(いわゆる)、名主(みょうしゅ)や庄屋、豪農であったということでしょうか。

小説上の三沢仙右衛門邸は、江戸橋戸沢公園の辺りではないかと推測されるのだそうです。

ただ、実際の鬼平の実母は定かでなく、戸村品左衛門の娘ではないかといわれています。
とある本には、「長谷川家の知行地(領地)戸村品左ヱ門」と、長谷川家のお墓がある戒行寺の霊位簿(過去帳)にあることから、宣以の実母の父ではないかと言うのです。
しかし、実際のところ、戸村家は現千葉県成東町辺りにあった長谷川家知行地の庄屋であった戸村家は、代々五左衛門か権左衛門を襲名し、品左衛門は存在しないとされています。

長谷川家もご多分に漏れず、鬼平の孫の代で随分落ちぶれてしまってからは歴史の表舞台には出て来なくなってしまいます。
一応、長谷川家自体は明治維新以降も続いていたようですが、菩提寺である四谷戒行寺に以前お墓があった時に、昭和の頃、年配の老婆が毎年お墓の世話をしていたようで、その方が子孫とのことでした。
しかし、現在はお墓がありません。
鬼平の父、宣雄、宣以本人、子 辰蔵宣義(たつぞうのぶよし)の三代のお墓がったそうですが、今は無いそうで、どこに行ってしまったのか、どういう経緯でなくなったのか、今となっては誰も知らないのだそうです。
一説には、杉並区にあった墓地から移転する際に紛失してしまったとか。

当時をときめいていた長谷川平蔵宣以、今となってはそのお墓、子孫も分からぬとは、なんだか淋しくなってしまいます。

戒行寺には、長谷川平蔵宣以供養碑のみが残っています。
戒名は、「海雲院殿光遠日耀居士(かいうんいんでんこうえんにちようこじ)」です。

二、王子権現

王子神社

小説「鬼平犯科帳」では、鬼平が巣鴨村の三沢仙右衛門宅、つまり実母の実家に泊りがけで訪問した際、従兄の仙右衛門と共に王子権現へ参詣に出かけます。
その道すがら、仙右衛門は「あれは、笠屋の女房お富だが、あごにホクロはなかったはず・・・・」と、ここでお富を目撃することになるのです。
鬼平は翌日お富を尾行し、掏摸の現場を目撃することになります。

王子権現は、現在王子神社と称しています。
創建年月日は不詳。
ただ、平安時代に源義家が奥州征伐の途中に立ち寄って甲冑を奉納したり、鎌倉時代末期に領主だった豊島(としま)氏が社殿を再興したりと、歴史は相当古いと思われます。
祭神は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)、速玉之男命(はやたまのおのみこと)、事解之男命(ことさかのおのみこと)の五神。

三、巣鴨追分(すがもおいわけ)

巣鴨村切絵図

小説「鬼平犯科帳」には、お富と、夫である卯吉(うきち)の笠屋は、巣鴨村の巣鴨追分にあったとしています。
巣鴨追分は駒込と巣鴨の境界地域のことで、現在の豊島区巣鴨一丁目の中山道辺りが相当します。
JR巣鴨駅付近でしょうか。

さて、「追分」なる地名をよく耳にしますが、この「追分」とは、道が二つに分かれる場所のことを指します。
新宿追分、信濃追分が有名ですね。

巣鴨村といいますが、皆さんが想像する田畑に家屋が点在する風景ではなく、どちらかと言うと密集した大きな集落だったようです。

巣鴨村には有名な「とげぬき地蔵」があります。
とげぬき地蔵の本当の名称は、萬頂山高岩禅寺(ばんちょうざんこうがんぜんじ)といい、曹洞宗(そうとうしゅう)の禅寺です。
また、子育稲荷(こそだていなり)、行人塚があります。

四、江戸城「市ヶ谷御門」

市ヶ谷御門説明板
市ヶ谷御門跡石垣の一部

小説「鬼平犯科帳」では、長谷川平蔵は市中見廻りに出る。
江戸城濠端を市ヶ谷御門まで来ると、右へ曲がり左内坂を上がって市ヶ谷八幡宮の北門から境内へ入る。
そこで見逃してやったはずのお富が再び掏摸を働く現場を目撃する。

市ヶ谷御門があった場所は、現在、JR市ヶ谷駅があります。
市ヶ谷御門の内側、つまり市ヶ谷御門内には旗本屋敷が密集していました。
また、市ヶ谷御門外には、市ヶ谷八幡宮(市ヶ谷亀岡八幡宮)、洞雲寺、長泰寺、長延寺が建ち並び、常火消御役屋敷 本多寛司、水野大炊頭(みずのおおいのかみ)の屋敷も見られます。
御門前の町名は市谷田町と称されていました。

市ヶ谷御門は、寛永十三年(1636年)美作国(みまさかこく)津山藩主 森長継が築きました。
別名を「桜の門」とも呼ばれました。

市ヶ谷亀岡八幡宮

市ヶ谷八幡宮は、太田道灌が鶴岡八幡宮から分霊を勧請し、鶴亀の吉祥から亀岡八幡宮と名付けたのだそうです。
元々は、江戸市中の番町、市ヶ谷御門内にありましたが、度重なる戦火で荒廃したものを、徳川家康公が整備拡張、外堀が出来たのを機に、外堀を見下ろす現在地に遷座したのです。
三代将軍徳川家光の側室、五代将軍徳川綱吉の生母である桂昌院も市ヶ谷八幡を崇敬し、再興したのだそうです。
別当(神社を管理する寺)は東円寺でしたが、明治初期の廃仏毀釈、神仏分離により廃寺になりました。
江戸時代、門前に合った芝居小屋なども撤廃し、江戸期の門前の賑わいは失われてしまったのだそうです。

当時の壮麗だった社殿は空襲により失われてしまいましたが、昭和三十七年に再建されました。

返すがえすも、大正時代に発生した関東大震災、大東亜戦争中の東京大空襲、これらのせいで歴史的に貴重な建造物が沢山失われてしまったことは残念でなりません。

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