自分の父親が亡くなったとき備忘録①
2021年4月23日の17時57分、父が亡くなった。死因としてはCML(慢性骨髄性白血病)の急性転化。
父は何年か前から大腸がんや甲状腺がんなど、複数のがんが発症しており入院や手術、抗がん剤治療を繰り返してきた。白血病と分かってからは週に1度(最終的に週に2度)の輸血をしないと実質的に生きられない体になっていた。
こんな状態とは言いつつ、何だかんだ実家に帰省したり入退院の付き添いで実家に帰ってたときに話していると、そんなことは微塵も感じさせない(そりゃ抗がん剤の影響で髪の毛がなくなったり、杖を使ったりしないと歩くのが困難な状態ではあった)レベルで意識ははっきりしていたし、食事も比較的取れていたため、「何とかなるだろ」とは思っていた。
でも、4月23日に亡くなってしまった。ある意味、僕が殺してしまった。
このGWで葬儀も終わり、一段落したので自分の整理、そして自分の親が亡くなったときに何をしないといけないのかを折角なので纏めてみようと思う。
0.僕/家族の状況
僕は36歳のサラリーマン、妻有り、子無し。
家族だと母親・姉(とその娘たち)という構成。祖父は亡くなり祖母も施設に入っている状態なので、実質的に母と姉のみ。
実家は静岡県の関東よりのとある市。超ド田舎ではないと思いたかったけど超ド田舎だったな!
母もそれなりに高齢・脳の手術をしたこともあるため若干失語症/見当識障害のケがある。姉も体が弱かったり抗がん剤の治療中だったりと、冷静に考え直すとかなり体は弱い家族な気がする…
ただ、自分の年齢を鑑みた場合に同じような境遇というか健康状態の方も多いんじゃないかなって思う。
母も長期の看病や病院付き添い等で疲れ果てており、姉も治療中、僕はまだ元気ではあるけれどこのご時世且つ白血病という病気の特性上、迂闊に実家に帰るわけにもいかず…たまに電話をしたりして様子を聞くだけだったし、それで十分なような様態であることを聞いていた。
個人的に、こういうご時世だからしょうが無い部分もあるし、聞いたから何ができるわけではなかったのだけど、この判断は間違いだったなと今なら思う。
1.亡くなる直前
3月末日頃に親父の退院付き添いで実家に帰った。母と一緒に実家から車を運転し病院、父を引き取りまた車で実家へ。
そのときは「腹が減った」ということでアンパンやコーヒーなどを買って食べてもらっていた。白血病だ癌だと言っても別に腎疾患があるわけでもないし、人工肛門でもあったため特に食事制限はなかった。アンパンも平らげ「お酒飲みたいなー」とか言ってたので「別に食事制限があるわけでもないけど、流石に退院直後はやめときなよ」というようなよくある親子の会話をしていたと思う。
その後、実家に帰った後は調子もまだ本調子ではなかったとはいえ普通に話すことも出来たので、その日はそれほど心配せず家に帰った。
このときはむしろ母親の心配をしており、母が失語症/見当識障害っぽいような症状が出ていたため、「くれぐれも運転して事故しないようにね」と念押しをして帰った。
(地域的にも通院をするためにも運転がどうしても必須だった)
そのような中、父もまた入院をすることになったり、僕自身も仕事が忙しくなったり、新入社員が増えたり、事業部長という形の昇進も果たしさらにわちゃわちゃしていた4月21日の午前、母親から電話があった。
「病院から息子さんを早く呼んで欲しい。お父さんが危ないらしい」
たぶん、こんなはっきりは言ってないと思う。父の隠し方がうまかったのか、Drの説明がイマイチだったのか、本当にうちの両親が理解していなかったのか、本当に母親が親父の病状を理解していなかったと思う。これは本当に悔やんでも悔やみきれない。もちろん、母親に任せっきりにしていた自分の責任でもあるので、何が悪いとは言わない。が、後悔している。
とりあえず仕事を切り上げて新幹線で病院へ。たまたま出社をしていたこともあり、病院へは1時間あまりで到着し母親と合流。父と対面した。
なんだこれは…
白血病にともなう肺水腫がひどく、息をするのが苦しいとは聞いていたが、文字に起こすのが難しいほどの苦しみに満ちた顔をしていた。
人工呼吸をつけてもまともに息が出来ない、苦しさでまともに目も開けられない。母親に何かを言おうとしたらしく、一瞬看護師さんに人工呼吸器を外してもらったがもうまともに喋られない。人工呼吸器を外したのは数秒だったけどSPO2も90を切って88とかそれぐらいの数値になってしまった。すぐに人工呼吸器をつけなおしてもらって先生との面談へ向かった。
当然ながら話された内容は想像出来たとおりだった。レントゲンも見せてもらったが肺水腫により肺はもう真っ白。人工呼吸器を外したら死ぬ、そうでなくてももうまもなく、だということ。覚悟をしなければならなかった。
ただ、うちの母親はどうもピンときてなかったのが気になった。とはいえ、流石に母親も現状は分かるだろうと思い、病院に残ってもやれることがなかったため母親を実家へ送り届け、僕も帰路についた。
念のため会社にある程度は報告しつつ、夜眠るのがかなり怖かったのを覚えている。いつ電話がかかってきてもおかしくなかったから。お世辞にもそれほど仲の良い親子とは言えなかったとはいえ、それでも親の死は怖いものだった。
そのような中で4月23日の17時半頃、母親から電話があった。
「病院からまた呼ばれた。お父さんが危ないらしい」
ここの判断をミスった。いや、結果だけ見れば結果オーライだったんだろうけど、判断ミスだと思う。切羽詰まった感があまり感じられず、とりあえず仕事を切り上げ姉に連絡しつつ、「姉も一緒に連れて行くとなると車かー(抗がん剤の治療中のためあんまり電車に乗せたくない)」とか思いつつ一度帰宅して車で向かおうとした。
何時も通り、なんとかなるんじゃないかなー?とか思っていた。
もちろん、何があるかわからないのもあるので、叔父(父の兄)に連絡もしつつ、家の最寄り駅で再度母親に電話。
話をしているとどうも要領をえない。母親は病院にはいないらしい。「え??」と思いつつ、ちゃんとした状態がわからず看護師さんに対してのモンクを言っていた。死んだら今日中に運び出さないといけないだとか、点の話しかわからなかった。
状況がわからんから病院に俺が電話する、ということを話して連絡先を聞いていったん帰宅。準備を整えつつ病院へ電話をした。時間は18時半頃だった。
「あぁ。○○さんの息子さんですね、ちょっとお待ちください」
最初は看護師さんが出て、その後21日に話をしたDrにつないでくれた。
「お母様には何度かご連絡差し上げたのですが…」という話から入り、もうお昼頃からすでに危なかったこと、母へ連絡したが病院へは行けないこと、父の(電話時点での)状況を説明してくれた。
そして、(超要約、細かなことは覚えてない)「手は尽くし、もう医療的には心肺停止し亡くなってしまっている。これ以上お父様に無理矢理何かをするのは厳しいし、行っても意味がない」
つまり父は死んだのだ。
「そのため、死亡という判断をさせて欲しい」(言い方はもっと違うはずだけど、おおむねこんな感じだったと思う)
そう、父の死の判断をしなければならなかった。
当然、医学的には死んでいる。そして、21日に父の必死に生きるためにもがくいている苦しい姿と肺水腫の苦しさを聞いているからこそ、余計に苦しませたくもなかった。
「(僕)わかりました。これ以上父を苦しませるのは辛いです」
苦しむ姿が最後に父を見た姿となり、それが思い浮かんだ僕は父の死の判断をした。
※続きはまた明日。
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