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小説『ヌシと夏生』5_地蔵

「懐かしい匂いがする」

突然、しゃがみこんだかと思うと、少女はベンチに置いた夏生のリュックに顔を押し付けた。

「大丈夫?ですか?」

「開けても良い?」

そういうと、夏生の返事を待たずにリュックを開け始めた。美津さんの元旦那の原稿を出すと顔を押し付けて息を吸った。

何を考えているのかよくわからないが、やはり変な人なのかもしれない。少しでも雰囲気を感じ取りたいとオリジナルを持ってきてしまったことを少し後悔しつつ、でもコピーはあるから。仮にここで原稿が痛んでも、本の作成には問題はない、はず。

「どうかされましたか?」

「懐かしい香だ。ここも人がいなくなったからな」

ここだけじゃない。会話を続けながら少女の足元を見て、夏生はちょっと黙った。

やっぱり靴を履いていない。

時計を見る。電車が来るまであと十分くらい。自分のコミュニケーション能力では、見知らぬ人の相手を続けるにはやや長すぎる時間だ。

しかし、少女の興味津々といった瞳が、夏生をとらえて離さない。見たところ高校生くらいか。

「さっきの願いを叶えてあげようと思ってな」

「願い?何の?」

「助け合って生きたいとか何とか、願ってたろ?」

「ああ……」

思い出した。祭りで藁山に突っ込んだことを言っているのだろう。でも、いつ聞いたのだろう?お酒を飲んでそんな話をしただろうか?そもそも、こんな少女があの場に居たかどうか、記憶がない。というか、心の中で思っただけのはずなのに、恥ずかしい。

「何か懐かしい匂いもしたし、叶えてあげようと思ったんだけど……、どこを探しても君でも良いって言ってくれそうな人が見当たらなくて。女性に限らず」

「一体、何の話をしているんですか?」

何となく不愉快な気がして、つい言葉遣いが冷たくなる。

「君はさっき、一生、誰かと寄り添って行きたいと願っていたけれど、世界中を探しても君と寄り添ってくれそうな人が見つからないのだ」

冗談だとしても、それはひどい。酷な宣告だ。

「なので、私が一緒にいてあげることにした」

「はい?」

「だから、私が君と寄り添ってあげることにした。まあ、約束は約束だし、ちょうどここから離れてみたかったのもあるから、そんなに恐縮する必要はない。今流行りの言葉でいうところのウィン・ウィンだ」

事態が呑み込めない。「ウィン・ウィン」という言葉は最近、もう聞かなくなって久しい気がしないでもないが、それを除外しても意味がわからない。

願いを叶えてくれる?

それはありがたい。なんだかわからないけど、とても得をした気分だ。
だが、自分と寄り添ってくれる人はいない?これはショックだ。確かに四十五歳で貯金があるわけでもないし、風貌が良いわけでもない……。

仕方あるまい。さすがにこの歳だ。己のことも多少は客観的に理解しているつもりだ。しかし、だからこの少女が一緒についてくる?……これの意味がわからない。

「大切にしろよ」

少女が何かを差し出した。何だろう?思わず受け取ってしまった。平たくてうすい乳白色のそれは、光を受けて虹色に輝いている。

「えっと、これは……」

「うろこ。さっき、藁山の中で渡そうとしたらつまんで捨てられてしまったから」

「……せっかくですがお返しします」

「なぜ?」

「だって、あなたのおっしゃっていることはよく分からないし」

だいたい、一緒にいてくれる人が一人もいないというのは失礼すぎるだろう。得体のしれないものを拒絶する気持ちの奥に、傷ついた自分がいることは、うっすらわかる。この辺のプライドだか自尊心ゆえに、社内でも「取り扱いが面倒臭い」と陰口を叩かれてしまうのだろう。

「さっき、願っていたではないか?」

どうしたらこんなに不思議そうな表情になるのだろう。曇りのない瞳に見つめられてつい、口にしてしまう。

「あなた、誰?」

ざわっと、夏生の周りを回るように風が吹いた。とたんに少女の眉間にしわが寄る。軽いため息をつくと、駅舎の入り口の方を向いて仁王立ちになった。ふと沸いた居心地の悪さに、夏生はまだ手に持っていた薄いものに目を移す。

午後の日の光に、淡い紅色に輝いている。その向こう側に少女の後ろ姿がぼんやりと映る。腰まで伸びた長い髪。やっぱり素足だ。

「あれ?」

夏生は目の前の景色に異物が混じったのを感じた。

駅舎の入り口で少女と並んで外を見る。ロータリーには車一台止まっていない。一本道。祭りの会場から駅までの道のり……。

何かが違う、気がする。輪郭がはっきりし過ぎている?色が、黒い……。あんなところに、お地蔵さんはあっただろうか?
ふつと夏生の周りから音が消えた。
くっきり。真っ黒な石の輪郭が、背景から飛び出して見える。お地蔵さんに吸いつけられるようで、焦点がずらせない。

「ぎゃっぎゃっぎゃっぎゃっ」

カラスの鳴き声?違う。何というか高らかな笑い声のような音だ。
お地蔵さんの顔が、崩れた?
次の瞬間、夏生は誰かに腕を引かれて床に倒れ込んだ。視界の上の隅。待合室のベンチが飛んできた石の塊を喰らって粉みじんに吹き飛んだ。すべてがゆっくりと、空中に舞い飛ぶのが見える。

ふっと背中から、柔らかな重みが消えた。立ちあがった少女の影に隠れながら、夏生も恐る恐る起き上がった。

けぶる視界の中、自動券売機にお地蔵さんが頭から突き刺さっている。もし彼女が手を引いてくれるタイミングが、一瞬でも遅れていたら、自分がこの券売機のように潰れていた。

(つづく)


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