ボケる、という定義をしよう

ボケの定義。

一日に自分がしたボケを記録するようにしている。なんとなく。その中で、ある気づきを得たんだ。すごいよ。自分の中で「ボケる」ってどういうことなのかの定義ができたのと、どういうひとが好きなのかということを認識できたから。みんなもやってみたら?

ある日、出張にいった。朝から。だいたい初ボケは朝にかまして気持ちよく家を出る。だから、その日は早朝に家を出たので、朝ボケをかませなかった。すると、その日の初ボケはいつになるのか、とても心配だった。記録しようと決めているから出てくる不安だ。出張は偉い人達と一緒に偉い人達に会いに行くことが目的だった。だから、その日の初ボケはその人たちに対してかますことになる。不安だ。でも、同時に、自分はどういう時にボケをかますのか、自分を見つめ直すきっかけになるなと思った。やってやる。偉さなんか関係ない。きっと僕は、どんな時でもボケる人間なんだって、信じてる。

結論から言うと、その日はボケをかませなかった。悲しいよ。そういう時に自分はボケをかませない人間なんだって、知ってしまった。おれは人をみてボケをかますかを決めてるのか。安心できる相手にしか、ボケないのか。内弁慶だったのか。

とはいえ、会話の中で笑いは取っていた気がする。エピソードトークもしたし、戯けてみせたりした気がする。でも、自分の中でそれをボケとカウントしなかった。

会食の時も、「いいキャラだね」とか「意外と面白いひとですね」とか、言われた気がする。でも、僕はその日一度もボケはかましていないと認識している。なぜだ。

考えて、わかった。自分の中のボケるという定義。

それは、「これが伝わったら面白いだろうな」って思ったことを、話の流れを切るだろうなってわかっていても、あえて言うこと。

これだった。最悪かよ。空気の読めない人間かよ。でも、事実だったんだよ。この文中にも、ボケを「かます」と書いているように、僕の中のボケるという作法は、そういうことだったんだと思う。

つまり、甘えられる相手に、甘える行為なんだと思う。話の流れに沿ってそっと置いていくユーモアはボケじゃない。自分の中に降ってきた、自分よがりの面白いなと思うことをぶつける。それがボケだと認識していた。そして、そういうことができる相手のことが好きなんだと、改めて、認識することができた。こんなことでも、自分を理解することができた。ウレシッピ。大事だと思う。自分の心がどんな時に動いて、何を求めるのかを理解することは。もう大人なんだし、そういう自分の定義は、心に置いておいた方がきっといい。

これからも話の腰を折るし、好き勝手言う。無視してもらっても構わないし、罵倒してもらっても構わないけど、嫌いにならないでくださいね。

よろしく。

よろしくな。


もしよければ、何卒…