信頼と疑いのシーソーゲーム

体調が悪くて、アップしようと思っていた記事をアップする前に休憩のつもりで横になったらそのまま寝てしまったので…。とりあえず予定の記事ではなく深夜や早朝にこそっと載せた方がいいかもしれない内容にしておく。

相変わらず貧血が酷くて病院に通わねばならず(食事等でどうにかなるレベルではないと思われる)、しかしお金がないのでたまにしか行かずちっとも改善しない状況が続く昨今。いかんですね。
ただ、通ってる病院の方は皆いい方で、それに気分が救われてるなとは思っております。

まったく別件で検査が必要になった時、通ってた別の病院から「ここは検査が上手いよ」って紹介してもらった病院なんですけど、その時にも感じのいい病院だなと思ったし、検査も滞りなく済ませてもらえたので(特に問題もなかった)、ああ注射ならここでもいいかなってふっと思い出したのでした。家から歩いて通える範囲だし。結構歩くけど(笑)。

あの時紹介してもらったことが今になってまた役に立ってるな、ってしみじみしてるんですけど、それでまた別に思い出したことがあるのね。

私の身内が2名ほど、かかりつけの町医者の的確な紹介状で命拾いしたことがあるんですよ。あの紹介状が無ければ二人ともまだこの世にいたかしら?って結構マジで思いますね。特に一人は、病院に担ぎ込まれた際に担当した先生は「ああこりゃもう死ぬな」って思ったらしいです…。助かったから本人に言ってのけられる冗談なんでしょうけどね。って助かってなかったら言えんわい。見たこともないような顔色になってたのは私もよく覚えてるので、先生の言ってたことはたぶん冗談じゃないんだろうなとはなんとなく思うけど。

私の身内がおそらく悪運が強いというのもあるかなと思いますが(普段の運が悪い分、こういう場面やギャンブル等では強くなるんじゃないかなって、なんとなく…)、本当にあのかかりつけの先生には足を向けて寝られんだろうなとも強く思います。紹介してくれたのはそれぞれその分野における名医みたいな人だったっぽいんですよ。特に1名は、そこじゃなかったらマジでどうなってたかわかんないんじゃ…。

本気で当たり前のことかもしれないんだけど、病院や病気のことは医者に聞くのがいちばんだな、って痛感したエピソードです。餅は餅屋ってやつですね。
今はネットで手軽に情報収集も可能だけれど、ネットの情報が正しいとは限らないことは言うまでもないし、本当に知りたい情報はそもそもネットでは拾えないことも多い。特に医療に関することはセンシティブな場合が多々あるし、技術や情報も日々アップデートされているはず。ネット程度で手軽に拾える情報だけを素人がどれだけ集めて知った気になったところで、それがどれだけ役に立つんだろうな、とは常に思っています。これは医療に関することだけでなく、すべての分野においてそうです。もちろん、程度の差はあると思いますけれど。日常の中でもある程度身につく分野もあるでしょうから。

「こんな的を得ない質問でどうして答えに辿り着けるの?」みたいな驚きの声をネットで見かけることがあるけど、日々特定の分野の情報に仕事を通して触れていると、本当に断片的なことや相当ポイントが間違ってる質問でも、すぐにピンとくる場合って多々あるんじゃないかと思うのですよ。私もあるし、おそらく皆さんにもあるのではないでしょうか。何でもかんでも聞けばいいというものでもないでしょうが、仕事というのは言ってしまえば基本的に誰でも「何かの専門家」なわけで、専門家に専門分野を尋ねることがいちばん欲しい答えに辿り着きやすいことは、本来考えるまでもないことなんだろうなと改めて思うのです。

もちろん知識不足で答えられない場合もあるし、間違った答えを提示してしまうこともある。そもそもその仕事にやる気がない人や、金目当てでいい加減な情報を与える人などもいるかもしれない。すべての人間が信用できるわけじゃないし、運悪くそういう人に出会ってしまって「自分で調べよう」と思ってしまう気持ちもわからないではないのですよ。私も基本不安になりやすいし、自分で納得しないと先に進めないタイプなので、気になることは徹底的に情報収集しちゃいますしね。
けど、できるだけ「徹底的」にやることにはしてます。その情報の提供元が複数あるか、提供元はある程度信頼できる人材や企業か、情報があまりにも古くはないか、拾えるものは全部拾える勢いで調べることもあります。ひとつの情報源だけで納得してしまうのがいちばん危ないと思うので、できるだけ反対意見なども含めてあらゆる角度から見ますね。しかし、残念だけど、どれだけ調べても結局判断できないことの方が世の中にはすさまじく多いのだとも感じています。
そんな感じで、根気強く調べものをすることには向いてるのですが、時間はすさまじくかかります。社会人なりたての頃に「仕事は遅い。そこは改善ポイント。その代わりしっかり調べ上げ、確実で質の高いものを出してくる。だから仕事は早いけどスカスカのものを出してくる同期より評価している」って言われたことがあるのですよ。その姿勢はずっと変わってないかもしれない、というか元々そういう性分なんだろうと思います。ていうか、ひとつの情報源だけで信用しちゃいけないのは、ネット社会が当然になった今では当たり前のことじゃないかなとも思ってますけれど。

「なんでそんな情報信じるの?」ってびっくりすることがこれまでに何度もあったんですよね。ワイドショーとか週刊誌とかで得た知識だけで「だって○○って○○なんでしょ?」って言い出す人。もちろん中には正しいものもあるんですけど、「何で信じる前にいったん疑わないの?」って不思議で仕方なかった。素直とかそういうんじゃないんです、何も考えてないだけなんですよそういう人は。自分の頭の中で咀嚼するという作業を放棄している。ツイッターがわかりやすい例かなと思いますけど、リツイートする前に「これは信頼できる情報か」っていったん考える癖があればこんなもののリツイートボタン押さないだろうな、って思う例は多々ありました。

スピリチュアル系の人なんかに多いですけど「素直な人がいちばんです」みたいな説ありますよね。素直にアドバイス聞くから開運するとか伸びるとか。あれは半分正しくて半分間違ってるって個人的には思います。何故アドバイスした人間を全面的に信じなければならないのか。本人が「正しいこと言ってます」って思い込んでるだけかもしれないじゃないか。特にスピリチュアル系なんて「明確な根拠のない世界」の筆頭みたいなもんなのに。むしろ何も考えずに自分の言うとおりにする人を怖いと思わんのだろうか。
アドバイスは聞いたけど、それがなぜ必要なのか、そもそも自分に必要なのか等々、まずはいったん自分の中で咀嚼する。その結果アドバイスを実行しないで開運しなかったとしてもそれはその人の選択だし、その作業を行った人が相手を恨むパターンは少ないような気がするんですけど、どうなのかなあ。

一時期noteのアクセスで多かったのが、病気に関することだったんですよね。それも私が「こんな症状あるんだけどうっとおしいな、なんなんだか」って愚痴ってる程度の記事。何故そんなものにそんなにアクセスがあるのか。どういう理由でアクセスされるのかこちらにはわからないから、なんとなく不安なものを感じて、記事によってはそっと下書きに戻したりしてました。
体験記的に「自分も困ってる、この人も困ってるんだね。仲間がいたからってどうなるものでもないけど少し気持ちが共有できてよかった」程度に読んでくれるのなら全然かまわないのですよ。それは私もきっと不安な時に助けになるでしょうから。けど「どういう症状なのか調べたい」とか「対処法を知りたい」とかいう目的でアクセスしてるのなら、こんな本当の個人のブログなんかに何を求めてるの?という気分になってしまった。知りたいことなんて間違いなくここにはないよって。

なかなか治らなかったり、突然のことに不安になったりして、ついつい見つかった情報を開いてるだけじゃないかとも思ったりしたのです。けど、それでもほかにもっとまっとうな情報を提示してるサイトがあるはず。もし「医療なんて信頼できないからほかの方法を探そう」みたいな理由だったら、もう絶対にそんなもの提供できないですからやめてください、と叫びたくなってしまう。
そもそも病気に関することは単なる体験記でも書くことに非常に慎重になったり、書くのを躊躇ってしまったりすることが多々あります。できるだけ断定的な表現は使わないようにものすごく気を遣ったりしてしまう。一時期だけど、病気関連はやたらアクセスが増えるということに気付いたときは(今はもうもしかしたら違うかもですが)かなり陰鬱な気持ちになったりしました。どう考えても、本当に情報が欲しい人にとってはただのノイズでしかないからです。それなのにこんなノイズにこんなにアクセスがあるのはなんで?正直怖い。ていうか、こんなノイズにアクセスしないで楽しいこと考えたり面白いことやったりして気を紛らせるほうがいいような…。いや、気持ちはわかるんですよ、わかるけど。

誰でも死にたくはないし、どうしても体が弱ると不安になるので、病院を転々としたりあやしげな何かに手を出したり、って例は本当によく見かける。本人がそれでいいのならもうしょうがないけど「○○は信用できないから!!」って散々聞かされるのも正直辛い。何事も万能じゃないだけで、○○はすごく頑張ってたかもしれない。不安なあまり本人が信用できなくなってるだけかもしれない。それは私にも経験あるし。
でも、たとえばネットで病院の口コミを見て選んで通院しても、そこが本当にいい病院だったかと問われるとそうでもないことが多いし、反対に本当の知り合いに直接聞いて行ってみた病院が変な病院だったことはあまりなかった気がする。誰が見てるか分からないネットには書けない話の方が世の中には多いから、そうなるのも当然のような気はする。たとえ本人が利用したことのない病院でも「知人が通院してて綺麗に怪我が治ったよ」みたいな話が聞けるかもしれないし。もしあやしげな何かだったら、普段のその人の様子などから「これはあやしいかも」って想像つくことも多々あるかもしれない。共通の知り合いから「あの人はあやしげな健康食品を売る商売にはまってるのよ」って情報がもたらされるかもしれないわけで。

何が言いたいのかよくわからなくなってきちゃったんですけど、要するに、ある程度専門知識もないまま、日々最新の情報に触れる状況でもない素人が、いくらさまざまな情報を見つけて知ったような気になったとしても限界があるんじゃないか、ということです。人間は嘘をつくし、情報が正しいとは限らないし、誰かにとって適切な方法が自分には適切でないことも多々ある。最終的に信じられるのは自分だけかもしれません。けど、短い人生であらゆる分野について絶対的な専門家になれる人間なんておそらくいない。自分も他人も絶対じゃない、間違うこともあるかもしれない。すべてを鵜呑みにするのは危険だということもよく覚えておかねばならない。でも少なくとも自分よりはある分野についてよく知っていて、適切な判断を下せる人がたっくさんいて、その人たちを信じてみることも大事なんじゃないのかな、と時々振り返っては考えるのです。それでもダメならそれは今の人間には無理なんだってことなのかもしれないわけですし。

こういうひとりごとでもね、「そうか、じゃあ〇〇の言うことをとにかく丸呑みしよう」って考えてしまう人がいるかもしれないと思うと怖いのですよ。うまく言えないんだけど、信用するのと疑うのと両方必要だけどそのバランスもまた大事で、それがある程度できるように教育とか人間の交流とかは必要なのかなって。信用しすぎて怖いこと言い出す人も、疑い過ぎていろいろ牙を剥いてる人も、どっちもはたで見てるとしんどいし、そうならないように日々頭を働かせて生きてなきゃいけないなって。
今回はたまたま病院の話を発端にしましたけど、たとえば趣味の話題でもしょっちゅう感じてることだったりもします。それ以外にもいろんな人の噂とかニュースとかでも、日々。そうこうしてるうちにこんな自分の考え方もまた極端かもしれないな、って疑い出してしまうんですけど、昔の人がわざわざ作って今も残ってることわざはそんなに間違ったこと言ってないんじゃないかなって、そう思ったりもするわけなのですよ。てなわけで、おはようございます。←強引な締め方…

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主にフィギュアスケートの話題を熱く語り続けるブログ「うさぎパイナップル」をはてなブログにて更新しております。2016年9月より1000日間毎日更新しておりましたが、現在は週5、6回ペースで更新中。体験記やイベントレポート、マニアな趣味の話などは基本的にこちらに掲載する予定です。お気軽に遊びに来てくださいね。

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