始まりもお別れも、箱の中はいつも空っぽ

あの部屋は、私が初めて手に入れた、「自由」だった。

ようやく、だけど急に就職が決まって、私は実家を離れた。見つけた部屋は、それほど築年数の経っていない、使いやすい間取りの綺麗なアパートだった。今思い出しても、いい部屋だったと思う。

私の家は貧しかったから、家電を除く家具はほとんど何も揃えることができなかった。持ってきたのは、従兄弟の結婚式の引き出物で貰ったちゃぶ台だけ。ベッドもなく、フローリングに布団を敷いて寝ていたし、本棚は段ボール箱で無理矢理作っていた。

がらんどうのようだった部屋に、少しずつ少しずつ家具を買い足した。棚やベッドを組み立て、クローゼット用の衣装ケースを買い揃え。通販で買ったものをいつも運んでくれる業者のおじさんとは、すっかり顔見知りになってしまった。

初めての社会人生活に疲れ、台所の冷蔵庫の前で寝ていたり、水を入れずにお米を炊いてしまったり、どうしようもない失敗を繰り返しながら、一人暮らしに慣れていった。この部屋で揃えたものや学んだことは、今もって私の生活の基盤となっている。


でも、私がいちばんに得たものは、家族と離れたことで得た「自由」だったのだと思う。

家族が嫌いなわけではない。決してそうではないのである。だけど、子供の頃からずっと、自分が血縁者の集団から浮いている感覚はあった。すべての場面ではないけれど、不思議な居心地の悪さを感じて生きていた。
同じ家で育ったからと言って、性格や考え方が似るわけじゃない。そもそも私は、あまり家族と顔も似ていなかった。

テレビの画面に映る誰かの容姿を平気で貶す家族が、私はどうしても苦手だった。自分に投げつけられているようで、胸が切り裂かれるようで仕方なかった。
「自分はお前の親なんだから、子供に対して何をしてもいいんだ」と激昂されたこともあった。いろいろなことが、本当にいろいろなことがあったけど、詳しくは、書かない。

生活が苦しくて、多大なストレス状態にあったであろうことはよくわかる。だから責め切れないとは思っている。
けれど、その捌け口となっていた私の心は、丈夫さに欠けた私の心は、悲鳴を上げていた。耐えきれなかった。

家族と離れなければ、自分に未来はないと、どこかで勘づいていた。

テレビを見ていても罵詈雑言は飛んでこないし、友達と遊んでいても友達の悪口は言われない。こんなに日々の生活とは気が楽なものだったのか。
自分は寂しがり屋で、一人で居たくない方だろうとは思うけど、一人の生活で手に入れた心の自由は、自分にとってはあまりにも大きかった。

その心の自由は、私が知らず知らずのうちに抱えていた、闇やトラウマや癖も浮き彫りにした。
大切な誰かに対して、家族と同じように怒っている自分に気付いた時、愕然とした。ここから抜け出さなければと思った。あの部屋で。

呪いのように聞かされ続けた、「不幸な家庭は繰り返す」という言葉。それが正しいのならば、私もきっと繰り返してしまう。同じ思いを、こんな悲しい思いをさせるくらいなら、ずっと一人でいようと子供の私はかたく誓っていた。そしてそのまま、大人になってしまっていた。
あのまま、家族と離れることなく、自分の闇や癖に気付くことなく、そして向き合うことなく幸せを選択していたら、それはきっとぼろぼろに叩き壊れていただろう。その作業を怠った者の姿に、自分が選んだかもしれない未来を重ねて、押し黙る。

あの部屋から、私の人生は本当にスタートしたのだと思う。
与えてもらえなかった愛情を自分の手で積み重ねる作業を、あの部屋から始めた作業を、私は長きにわたって続けている。気の遠くなるような作業だ。自分はまだ、小さな子供のような気がする。


挫折と、不安と、悲しみと、そして希望とを抱いて、私はあの部屋を離れた。真夏だった。空っぽになった部屋を、片付けで汗だくになった私は、振り返った。
私はこの部屋が好きだった。どんなに辛い思い出が残っていたとしても、好きだった。
きっと、もう二度とあの部屋をこの目にすることはないだろう。夏は別れの季節だと思う。大切なものを失ったのは、何故かいつも夏だった。

名残惜しむように、ドアが閉まった。
私はまたひとつ、永遠に人生の一部と別れた。

ベランダから眺めた満月。同僚と開いた鍋パーティー。遠くから会いに来てくれた友達と、いつまでも続いた話。
あの部屋に置いてきたもの。それはきっと、「青春」と呼ばれるものだったのだろうと、底冷えする真冬の夜に、そっと振り返る。


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主にフィギュアスケートの話題を熱く語り続けるブログ「うさぎパイナップル」をはてなブログにて更新しております。2016年9月より1000日間毎日更新しておりましたが、現在は週5、6回ペースで更新中。体験記やイベントレポート、マニアな趣味の話などは基本的にこちらに掲載する予定です。お気軽に遊びに来てくださいね。

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