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吾峠呼世晴『過狩り狩り』は何がすごいのか?

『うちの師匠(鳥海永行)に散々言われたんだけどさ、「演出家の仕事は盛り上げじゃない。盛り上げることを演出だと思っているバカが多すぎる」って。1つの台詞でも、1つの表情でも、1つの構図でもなんでもいいんだけど、その1つに向かって映画を作っていくのが監督の仕事なんだよ』
(立東社『押井守の映画50年50本』より抜粋)


前回の『ルックバック』に引き続き、自分が衝撃を受けた読み切りマンガ『過狩り狩り』について語りたい。


作品の経緯について

今回取り上げる『過狩り狩り』は、ご存知『鬼滅の刃』の作者・吾峠呼世晴氏の最初期の読み切りで、2013年にジャンプの新人賞で佳作を受賞している。

受賞した読み切りは他の受賞作品と同様、『鬼滅の刃』が連載される以前から公式サイトにおいて無料で公開されていたが、この時点ではまだあまり注目されていなかったように思う。

翌年、2014年の少年ジャンプNEXT!!にて『文殊史郎兄弟』という読み切りが掲載された。新人を集めた増刊号での掲載というのもあり、この時点でもまだあまり話題にはなっていなかった。

潮目が変わったのは同2014年、3本目の読み切り『肋骨さん』が掲載されたときだった。この読み切りは、週刊少年ジャンプ本誌に掲載されたのだ。

この時twitter上の漫画読みクラスタで、いわゆる「バズり」が発生した。「今週のジャンプの読み切りがなんか怖い」「これはジャンプの漫画なのか?」など、概ね「奇才による異色の読み切りがきた」という反応だった。

実は私が初めて読んだ吾峠呼世晴氏の漫画も、この読み切りだ。

この『肋骨さん』に衝撃を受け、遡る形で中古のジャンプNEXT!!を買い、『文殊史郎兄弟』を読み、そして公式サイトで『過狩り狩り』を読んだ。どれもすさまじい個性を感じられる読み切りで、「天才」の二文字が脳裏をチラついた。

その後、2015年に『蠅庭のジグザグ』という読み切りを挟み(これも興味深い作品だ)、2016年から『鬼滅の刃』の連載が開始された。

その後の展開はご存知の通りで、鬼滅の刃の大ヒットに乗じる形で、上記に挙げた4つの読み切りを収録した『吾峠呼世晴短編集』が2019年に刊行された。今回取り上げる『過狩り狩り』も、この単行本に収録されている。

4つの読み切りはどれも鬼滅の刃以上に吾峠呼世晴氏のセンスが凝縮されているが、中でも最初の受賞作である『過狩り狩り』は最も注目に値する作品だ。

その理由は、この読み切りが鬼滅の刃の前身となる世界観を持っていて、連載化にあたっての変化や調整が見て取れるから……というのも勿論あるが、それだけではない。

『過狩り狩り』を読んで私が着目したのは、その異質な構成だ。この読み切りでは、主人公が登場するのが実質後半になってからで、登場してからもほぼセリフがないのだ。

(※ちなみに『鬼滅の刃の公式ファンブック』では、没になった連載会議用ネームが掲載されている。『過狩り狩り』→『連載会議用ネーム』→『本編』という風に読み比べてみると、作り手にとっては興味深いと思う)

顔の見えない主人公

「マンガには正解がない」とよく言われる。
しかし、それでも「商業誌でやるなら、これは流石に守らないとまずいだろう」というセオリーが存在する。

そんな鉄則とも呼べるセオリーの一つに、「主人公はなるべく早く登場させろ」というものがある。

具体的には、40ページの読み切りなら、遅くとも冒頭4ページ以内には主人公を登場させたい。理想的には、1ページ目に出したい。

何故なるべく早く登場したほうがいいかというと、マンガの面白さというのは基本的に、主人公のキャラクター性で引っ張っていくものだからだ。
主人公の登場が遅いマンガというのは、描き手自身がどうやって読者を楽しませるのかをよく考えないで、気分でネームを切ってしまっている可能性が高い。

『うしおととら』で有名な藤田和日郎氏も、著書の中で以下のように述べている。

『メインキャラクターに自信がないやつほど、何かができていない不安を覆い隠すかのように主人公が出てくるのが遅いんだ。(中略)……キャラクターに自信があったら2、3ページ目までに出てくるんだ。4ページ目、5ページ目じゃないと出てこないキャラは、たいていおもしろくないの。』
(『読者ハ読ムナ(笑)〜いかにして藤田和日郎の新人アシスタントがマンガ家になったか〜』より抜粋)

まあ、主人公が早く登場しさえすれば漫画として面白いのか(そして作品を好きになれるのか)というとそれは違うけれど、勿体ぶって主人公の登場が遅い作品は「典型的なダメパターン」の一つだということだ。

一方、『過狩り狩り』はどうだろうか。

一応、1ページ目(※扉絵の次のページ)で、親に捨てられたと思しき少年(主人公)と、彼におにぎりを差し出す老人が描かれている。ただセリフや説明は一切なく、この時点では彼らが何者で、どんなキャラクター性をもつのか全くわからない。

2ページ目では、鬼(吸血鬼)による殺人事件の発生が描かれる。そして3〜4ページ目、帯刀して市中を歩く不思議な青年が描かれる。
風貌から察するに、これは1ページ目の少年の成長した姿だと察せられるが、顔は見切れて見えない。セリフもない。勿論名前もわからない(ただし彼の腕には「ウー拾壱号」という入れ墨がある)。
更に、実はこの青年は片腕を失っているのだが、この時点ではそれも構図的に見えないようになっている。

つまり作者は意図的に、主人公と思しきキャラクターの情報を伏せて話を進めているのがわかる。

5ページ目以降は、違うキャラクターたちの視点で物語が展開していく。
主人公がやっと姿を表して、顔が初めて描かれるのは27ページ目だ。
しかもその時もまだセリフはなく、初めて(心の声で)喋るのが41ページ目である(ちなみに総ページ数は扉絵を抜いて44ページ)。

普通なら読者が興味を失って離脱しかねない構成だが、作者が狙いを持って描いているのがビシバシ伝わってくるので、この時点で俄然続きに興味が湧いてくる。

事件から始める

主人公の登場が遅いのはセオリーに反しているのだが、『過狩り狩り』ではそれを補うかのように、セオリーど真ん中の手法も使われている。

それは、「事件から始める」という手法だ。

これはミステリー小説などではよく使われている構成で、少年マンガを描く際には、一般にそこまで意識されていないかもしれない。
しかし、「ストーリーが始まる前に既に事件が起きている」というのは、実は結構重要だ。

理由を説明するのは難しいが、「ストーリーが進んでいく途中で事件が発生する」という構成だといまいち盛り上がらないことが多い。
おそらく「それじゃプラマイゼロじゃないか」という印象になってしまうからなのだと思う。(ちなみに荒木飛呂彦氏も、『荒木飛呂彦の漫画術』の中で似たようなことを述べている)

1ページ目が始まった時には、既にその作品世界の中で巨大な問題なり陰謀が発生していて、後は主人公がその核心にどんどん近づいていくというのが理想だ。

『過狩り狩り』の場合は、冒頭で凄惨な連続殺人事件の発生が描かれているのだが、吾峠呼世晴氏は他のすべての読み切りでもこの「事件から始める」構成を徹底している。

明らかに「事件から始める」ことの重要性を意識してマンガを描いており、このあたりにも新人離れした凄みを感じる(短編集がお手元にある方は、ぜひ各作品の冒頭をチェックしてみて欲しい)。

無言の抜刀

『過狩り狩り』のタイトルは、「狩りすぎたやつ(鬼)は(鬼狩りの剣士によって)狩られる」という意味であり、その「狩りすぎたやつを狩る」役目を司るのが主人公である片腕の剣士だ。刀には鬼滅の刃と同様、悪鬼滅殺の文字が刻まれている。

5ページ目以降は主人公ではなく、「狩られる側」の鬼達をメインキャラクターとして話が進んでいく。

冒頭で起きた事件は「外国からやってきた鬼(いかにもヴァンパイアみたいな風貌なのが面白い)」による犯行であり、日本に昔から暮らしている鬼達にとっては大迷惑。そこで、普段は個別に行動している日本の鬼達が珍しく協力して、外国の鬼を排除しに向かう…というのが中盤までのプロットだ。

そして、その鬼達が激しく戦闘している最中、主人公がやってくる。「狩り」に来たのだ。

主人公が現れるシーンで1ページフルに使った一枚絵、そしてめくって次のページでは、また丸々1ページを使って「無言で抜刀」するシーンが描かれている。

この「無言の抜刀」シーンこそ『過狩り狩り』一番の見所であり、この作品の異質さを象徴しているシーンだと思う。

このシーンを読んだとき、私は「デビュー作でここまで構築的にネームを描けるものなのか?」と衝撃を受けた。

これは自分自身の経験でもあるのだけど、思いついたアイデアからプロットを書きおこし、ネームを切り、そしてそのネームを清書していると、面白いとか面白くないとか以前に「そもそもなんのためにこのシーンを描いているんだっけ?」とよくわからなくなってくることがある。

特に、脚本術の本などを読んで生半可な知識がついてからそういうことが多くなった。ストーリーをまとめるために四苦八苦しているうちに、「いや、そもそもこれはなんの話なんだ?一体この話で何を表現したいんだ?」と混乱してくるのだ。

一方で、『過狩り狩り』においては、すべてのシーンが上記の「無言の抜刀」のシーンに向けて積み上げられている

意図的にふせられた主人公の情報も、町中で凄惨な殺人事件を起こしている外国の鬼も、それを排除すべく動き出す日本の鬼も、すべては「無言の抜刀」に至るためのお膳立てなのだ。

あるワンシーンのために、他のすべてのシーンが存在する

抜刀の後、外国の鬼は主人公を嘲笑し挑発するが、主人公は無言のまま刀を振るい、外国の鬼はついに首を斬られてしまう。
しかも鬼の首を斬った後、主人公が心の中でつぶやくセリフ(作中初めての主人公のセリフ)は、「(鬼は)あと三体いた」だ。つまり、処理し終えた鬼は既に眼中になく、もう別な標的を追い始めている。
このあたり、吾峠呼世晴氏の「悪」に対する容赦なさがにじみ出ており、個人的には非常にゾクゾクする。

それはともかくとして、とにかくこの作品が凄いのは、「あるワンシーンに向けて、全てを積み上げていく」というその演出力だ。

本記事の冒頭で押井守監督の言葉を引用したが、もう一度引用しよう。

『うちの師匠(鳥海永行)に散々言われたんだけどさ、「演出家の仕事は盛り上げじゃない。盛り上げることを演出だと思っているバカが多すぎる」って。1つの台詞でも、1つの表情でも、1つの構図でもなんでもいいんだけど、その1つに向かって映画を作っていくのが監督の仕事なんだよ』
(立東社『押井守の映画50年50本』より抜粋)

押井守監督の言葉に従うなら、まさに『過狩り狩り』こそ、演出家のお手本と言えるような作品だと思う。ぶっちゃけ、こんなのデビュー作の読み切りでやることじゃないだろ、というくらい美しい。

昨今はwebやアプリで新人の読み切りがたくさん読めるようになり、例えばジャンプ+でも、毎日のように読み切りが公開されている。
それらの作品は原稿料を支払って商業媒体に載せているわけだから、個々のキャラクターや展開などには当然色々とアイデアが盛り込まれている。

でも、『過狩り狩り』ほどよくできた読み切りには滅多に出会えない。

余談

以上、散々「異質」と評したが、一方でこの作品は非常に王道的で、時代劇的ですらあるとも言える。

実は、「主人公のキャラクターを表現するためには、主人公以外のキャラクターに噂話させろ」というのも一つのセオリーなのだ。

この手法を積極的に説いていたのは小池一夫氏(『子連れ狼』などを書いた漫画原作者)で、氏のマンガ塾の塾生には高橋留美子氏などがいるらしい。

『過狩り狩り』を読むと、前半では確かに主人公は殆ど登場しないが、代わりにこの手法を忠実に守っているように見える(鬼達がしきりに「誰か」を警戒しているのが描かれている)。

そういえば、吾峠呼世晴氏の絵って、ちょっと高橋留美子氏の匂いも感じるような……?(だからなんだ、という話だけれど)

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