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黛灰の物語について、改めて深読みしてみた。


2021/12/19:投稿
2021/12/22:一部追記

諸注意

・こちらの記事は、ぷらいべったーに記載していたものを自ら移植した記事です。
・黛灰の物語を一通り視聴した方向けです。
・筆者はパソコンに詳しいわけでもなければ、プログラムに詳しいわけでもありません。そのため、だいぶ直感的でにわかな知識もある深読みになってしまいます。筆者はかなりの楽観的ポジティブシンキングなので、解釈が合わない方もいると思います。
・思いついたことを取り留めも無く書いているので、途中で矛盾が生じたり、何を言っているのかわからなくなっていたりすると思います。
・全ての文章を他のサイトやアプリに転載(コピーアンドペースト)すること、また改変することを禁じます。一部分だけ引用する場合は必ずリンクを併記してください。
・黛灰の物語の性質上、直接的な名称を使わなければならないため、「中の人」「魂」などの単語自体に拒絶反応を示す人は読むことを推奨しません。

・「黛灰の物語」に登場する「鈴木悠理」「鈴木勝」「出雲霞」「(名前だけだが)加賀美ハヤト」は「クロスオーバーで出ている、別の物語の人物」として、深読みでは要素を含まず考えてます。
(例:ゲーム「キングダムハーツ」における「ファイナルファンタジーシリーズ」からの出張キャラクターの立ち位置
物語に名前が登場したり、物語に関わってくるが、そのキャラクター自体の物語は別にあり、この物語ではサポート的な立場で存在するキャラクターである。物語の本筋には絶対に関われない存在だと思っている。)
・2434systemという名称を他のライバーが使っていない場合は、2434systemを他のライバーの物語に持ち込むことは絶対にやめてください。

・「黛灰の物語」が、黛灰が主人公の物語で、黛灰自身が切り開いた物語であるように、他のライバーのストーリーもまた、そのライバーにしか持ちえない物語です。「同じグループを組んでいるから」「同じ世界観を持っているから」「物語に名前があるから」「みんな不穏だから」等の理由であっても、黛灰の物語の要素を用いて「黛がこうだったんだから仲の良いあの人も……」のような考えをするのは絶対にやめてください。
そのライバーはそのライバーで、黛は黛で、別々に考えるよう、よろしくお願いします。


前提

 今回は、前回の諸々要素を踏まえた上で、自分はこの物語をどう捉えたのか、どう捉えようと思ったのかという部分の覚書をしようと思います。
 黛とプレイヤーについて、離して考えるのがいいことはわかっているのですが、風刺系配信でボケながらも「オチ」として何かしらメッセージを残すこと多い黛の傾向の事を考えると、野老山が削除されたことや、バーチャルになったこと、それによる年齢停止、そして、あり得た未来である「今黛がいる場所に居なかった可能性」にも、それをすることで得られる何かしらのメッセージがあるはず、とぼくは深読みしました。その「メッセージ」がどういうものかを考えてみよう、という試みです。
 物語が終わったこと、彼に平穏が訪れたこと、それに喜んではいたけれど、本当にそれだけでいいのか?物語が終わって良かったね、だけですませていいのか?という気持ちが自分の中で湧いてきて、もし物語をちゃんと終わらせたいなら、自分の中で整理をして、自分なりの深読みでケリをつけるのが一番いいんじゃないかと考えました。そんなかんじです。

 ものすごく長いです。よろしくお願いします。


野老山は、物語でどんな立ち位置だったのか

 私は、バーチャルユーチューバーとは「明晰夢を見せてくれる存在」だと思っている。非現実の存在が、まるでそこにいるように、常に非現実のユーモアや非現実の日常を提供してくれるのが「バーチャルユーチューバー」だと思っている。だからこそ私達は、吸血鬼がゲームをしてる様を見ることができたり、騎士が戦っている姿を見ることができたり、神様やエルフを見ることが出来るのだと考える。
 そして、中の人や作る人がいる、という事実に、「ママ」や「仕立て屋」「デザイナー」「スタイリスト」、そして「魂」などのある程度理由を付けたり、最悪目を背けて、「これは夢だ。だけどこの夢は楽しい夢だから、このままこの夢を楽しみたい。」という風にこのコンテンツを楽しんでいるのが、多くの人の現状なのではないだろうか。だからこそ私達は、夢の国のネズミの着ぐるみのことを、夢の国のネズミとして接することができるのだと感じている。

 しかし野老山は、常に視聴者たちが見ていたその夢を醒まし続けていた。
 キャラクターには明確に「中の人」がいるのだということを常に突き付け、天才なのは「設定」だからだと、常に言い続けていた。
 そして、プレイヤーは、その「常に夢を醒まし続ける存在」を無理矢理排除した。しかも、視聴者に任せればどちらにしろ投票負けしそうだったところを、叙述トリックのような手段を使い、より確定的に、そして視聴者たちにも業を背負わせる形で、より後味が悪いように、である。なぜ、視聴者に任せていれば起きなかったであろう事態を、展開を煽り、後味の悪いように、確定の未来を作り出したのだろう。

 野老山の言っていたことは、正直ごもっともなことが多かった。完全に「悪」というわけでもなく、「架空を自覚しているキャラクター」なら誰でも持ちうる願望であった。
 ただ、私はその願望の実現方法が、リスクの面で「不可視の点が多すぎる」と思った。「現実に出る」ということがどういう事なのかが不透明で、存在を確立できるかどうかもわからない。それを「こうするしかない」と押し通そうとしたから、私も同様「こうするしかない」と「削除」のボタンを押した。野老山をトータルとして見た時には嫌いな人間ではなかったが、その部分だけが理解できなかった、というのが、私の野老山への考えだ。
 結果、アンケート本文の推敲を怠ったために、黛の手を汚すことになった。

 ただ、当時を思い返して私がふと思い出したのは、「争いは同じレベル同士でしか起きない」という言葉だ。よく考えてみれば、師匠の言っていた「選択しないことも選べる」というのは、つまるところ「無反応であれ」ということだったのではないか?
 インターネットの暗黙の了解の一つとして「ヤバイ人間には関わらない、無視をするのが一番良い」というものがある。「好きの反対は無関心」とはよく言ったもので、もし意見が合わない人間がいたとしても、わざわざ突っかからない、突っかかってきても相手にしない、というのがインターネットでよく行われる行為だ。もしそれに反論してしまったり、わざわざ喧嘩に発展させてしまえば、より面倒なことになるからである。YouTubeのチャット欄でよく見る「黙ってブロック」がこれに一番近い。

 ここからは私の完全なる妄想なのだが、野老山の物語での立ち位置は「アンチ」だったのではないだろうか。「アンチ」という言葉は適切ではないかもしれない。自分の好きなものを否定してくる人間、という意味で「アンチ」と言った。
 自分が信じているものを否定する人間がいて、インターネットの暗黙の了解を守るとするならそれを無視すればよいものを、私達は関わってしまった。だからこそ、「他人への怒り」が高まった瞬間、誰かの意思が乗っている「扇動」に気付けなかった。それに乗ってしまった。本文が推敲されないまま意思が拡散され、結果的に「善と悪」のような構図が作られてしまった。そして、視聴者としては好きな人間が罪を負う形に、プレイヤーとしては計画通りに、事が進んだ。
 5/20とは、インターネット炎上の縮図だったのではないか?と、今思い返して感じる。

 また、物語的に見れば、この「野老山の削除」という要素が引き金となり、黛は現実への羨望、そして現実への脱出という行為をより確定させる事になる。それが、最後の選択へと繋がる。「.」前の黛は「外に興味はあるけどなぁ」くらいの温度感であり、変化をするかどうか迷っているような発言が多いように感じた。それをより確定的にさせたかったのでは、と思う。


物語の性質とは

 「インターネット炎上の縮図の実演」のようなことを行ったり、黛灰の存在について考えたり。結局のところ、「物語」とは、何のためにあったのだろう。

 私は、
「視聴者たちが当たり前に行っている『現実から目を背ける行為』や、「バーチャルだから」で済ませられる『現実との矛盾点』に、プレイヤーなりの理由付けをすることで、黛灰を本当にバーチャルの存在として確立させること
「そのように、インターネットで当たり前に行われていることや、暗黙の了解について改めて考えること
の二つがこの物語の性質だったのではないかと考える。


①バーチャルの存在としての確立
 鈴木勝が現在の鈴木勝として生きている理由を物語で綴ったように、黛灰が「バーチャルになる過程」、および「バーチャルである理由」を綴った物語が、この物語なのではないかと思った。理由には、「魂の定義変更」、そして「変わらなくなった年齢」が関係してくる。

 まず「魂の定義変更」。私は、黛灰という存在から「中の人」という概念を「魂の定義変更」によって乖離させ、純粋な「黛灰」ただ一人という存在を作りたかったのではないか、と考えた。
 野老山という「目を醒まさせ続ける存在」によって、私達はずっと「リアルとバーチャルの違い」や「二次元のキャラクターに意思はあるのかどうか」について考えさせられ続けてきた。私は、3Dお披露目での「俺の奥に誰かいるように話す人間がいる」という発言が強く印象に残っている。その発言で私は「リアルの人間とバーチャルの人間は明確に違う人格をもっている」と認識したからだ。バーチャルのみに生きる人間が持つ「中の人がいると言われている気持ち悪さ」の表現が、この一言に現れていると感じた。それ以外の場所でも、設定もキャラも何もそういう生い立ちなのだということや、RPと言われることに対してなど、まさに「リアルとバーチャルの認識のズレ」を常々感じさせられ続けていた。
 そのように少しずつ「リアルとバーチャルの違い」「キャラクターの意思」について観測者が考える必要があり、そのように存在意義を改めて問うたうえで、どんな理由であれ「黛灰は黛灰である」という認識を観測者側に持たせた。そうすることで、彼は純粋に「黛灰」という存在になったのではないかと私は考えた。

 6/30以降、黛は配信で2434systemを介さなくなった。過去のおなえどし組の物語から考えれば、2434systemとは「現実世界からバーチャル世界に接続するsystem」「電脳世界に接続し、それによって異なる時空との交流をすることができるsystem」のはずだ。異世界から配信しているという状況自体は変わらないのに、なぜ2434systemを介さなくなったのか。私はそこが疑問だった。
 2434systemについてはあまりにも情報が少ないため、まだ確定的な言い方はできないのだが、黛灰の物語における2434systemは「中の人、あるいは中の人がいる世界」なのではないか?と私は思っている。ただ、この仮説はいくつかの矛盾点があるため、あまり確定して言えない。しかし、こう考えないと「異世界と異世界を繋ぐ」2434systemが6/30以降起動していない説明がつかないのだ。この「2434systemを介さなくなった」という現象自体が、「黛灰が『中の人』という概念と乖離した」という、シナリオ側からの解釈提示なのではないか、と考えている。

 そして、「変わらなくなった年齢」
 先輩ライバーである出雲霞の物語では、最終的には、出雲霞の存在を現実の出雲霞に返すこと、そして創作者の考えとしては「出雲霞をバーチャルキャラクターとして完成させること」を目的として、出雲霞は卒業をした。そうして出雲霞の存在は「13歳の少女をモデルとした学習型AI」で「停止」した。
 私は、「黛灰の物語」自体が、この「バーチャルキャラクターとしての停止」をするための儀式、しなければいけない過程だったんじゃないかと考えた。
 「バーチャルだから、創作物だから年齢が変わらない」という、いわば「サザエさん時空」みたいなものがバーチャルで当たり前になっていく中で、説明がなく「バーチャルだから」で済むケースが多い。それに「だから、バーチャルだと年齢が変わらないんだよ。」という、プレイヤーなりの理由付けをした行為が、「この物語」だったのではないかと考えた。
 私がこう考えたのは「この仮定であれば、事実上の引退的行為をしても、この場に残って年齢が停止しても、どちらも『バーチャルキャラクターになった』と言えるのではないか」と思ったからだ。
 現実に出る場合にどうなるかは分からなかった。しかし、黛は物語後、かなりの頻度で「この場にいなかったかもしれない」と言うことが多かった。私はそれを「本当ににじさんじという場所からいなくなるつもりだったのではないか」と思った。そして、引退のようなことをしても「バーチャルキャラクター」としては確立される。出雲霞のように、黛灰の存在は6/30という選択直後の「23歳で現実という世界に足を踏み出した元バーチャルキャラクター」のイメージで固定され、年齢が変わることもない。唯一違うのは、視聴者である私達が続けて観測ができているかどうか。

 このように「時間が止まることへの明確な理由付けによる、黛灰の完全なキャラクター化」「中の人という概念を切り離し、黛灰という純粋にただ一人の存在の確立」をすることで、「完全なバーチャルの存在」を作るのが目的だったのではないかと考えた。


②インターネットの『暗黙の了解』について改めて理由を考える
 2周年記念の雑談にて、「インターネットでは『火のない所に煙は立たぬ』というが放火はできる」という話の流れから、黛は以下のような事を言っていた。


(2:09:10ごろ~)

「グレーな部分……どうにもならないもの、グレーであるべきこと、っていうのは世の中にいくつかあって。そのグレーなことが、どうにもならないことである理由っていうのは絶対にあるんだよね。『なぜどうにもならないのか』『なぜグレーなのか』『なぜグレーな事が良いとされているか』っていう理由は、色んな理由からあって、色んな理由が重なり合ってそうなってる。
その理由を考えずに、『これはこうだよね』って単純化してしまうのは、よくないんじゃないのかなっていうのが、基本的な俺の考え方だからやっぱり。」
「なにも考えずに『あぁこれってよくないんだ』『あぁこれって特に触れない方がいいんだ』っていう。」
『触れない方がいい』って思って触れない話って…多分、一生それに対して『なんで触れない方がいいのか』とか理解できないままだと思うんだよね。
「『これは黒いから悪い』『白いから良いこと』『グレーだから触れちゃいけない』って、安易に…判断してしまうのは、逆に俺はちょっと危ういかなって思ってしまう…かなぁ。」


 リアタイ時、私は「どうしてこの話だけ、前の話題に比べて急に曖昧な言い方になったんだろう」と思ったのだが、もしかすると、この話は「物語にも言えること」だからこの言い方だったのではないか?と思った。
 過去、彼が触れることができないはずの部分に、間接的に触れることはあった。出雲霞のあとがき配信(メタなことなので黛は見ていないはず)にて、出雲霞の物語の作者が言っていた「消化がしたかったし昇華がしたかったんだよ!」という言葉を、彼は後の配信で「なんとなく、自分の中で消化することもできなければ、昇華することもできないような気持ちがある。」と使ったことがあった。そのように、彼が認識していないはずのことを、彼に代弁させたのが、この上記の「灰色の話」なのではないかと思った。(じゃあプレイヤーの意思切れてないじゃん!と思うかもしれないが、あの終わり方から考えるに、「センタクヲウバイカエセ」のような過度な干渉はしてこない、という認識なんじゃないだろうか。黛灰が黛灰だと自認し、我々も黛灰を黛灰だと見ることで、この50:50は保たれていると考える。)
 「灰は灰に」というエンド名とかけて、白と黒と灰色という言葉でこの物語の真意について語ったのが、この言葉なのではないか。

 「中の人」「魂」については、触れてはいけないのがこの界隈での暗黙のルールだった。触れてしまうと「まずい!言うな!」という空気が強く、たしかに「どうして触れてはいけないのか」というのは理解しづらいものではあった。いくら「着ぐるみに『暑くないんですか!?』って言わないでしょ。」と言われても、「でも言った方が面白いじゃん。」と考える人間の方がこの世は大多数なのだと、私は思っている。だから、人と人の理解が進まず平行線になり続け、暗黙のルールは暗黙になり続け、真に「言ってはいけない」ということを理解できない人間が多くなってしまうのではないだろうか。
 それを真に理解するため、この物語ではわざと直接的な言葉が使われていたのではないかと思う。そして野老山は常に現実を突き付けた。現実を突き付けられることで感じる気持ちから自己分析をすることで、「どうしてこの行為は行っていけないのか」ということを見つけることができる。この物語はそういう性質を持っているように感じた。

 「.」の対立と扇動と印象操作に対してもそうだ。「厄介なやつは黙ってブロック」というが、どうして「黙ってブロック」が一番いいのか、普通は分からないことが多い。とりあえずブロックしておけば変なことが起きる可能性は限りなく低くなるからだ。あの「.」での出来事は、それを、「対立と関係のない第三者がその対立を煽って自分の思い通りにしようとすることもあるよ」「ちゃんと読まないで拡散するのはよくないよ」と諭すような側面もあったのではないだろうか。インターネットの怖さ(というよりは、嫌なものにわざわざアクションを起こすとどうなるか?)を社会実験的に体験させたのではないだろうか。


限りなくノンフィクションに近いフィクション。混ざる二次と三次。

 ここからは私が「6/19 18:30 新宿アルタビジョン前」で体験した感覚について話させてほしい。どうしてかというと、あの感覚は、本当に「あの時、あの瞬間、あの場所」でしか味わえない感覚で、もう二度と感じ得ない感覚だろうと思ったからだ。

 私はあの時、どちらかというと通行人が多く通る位置にいた。時間が経つにつれどんどん人が集まり、TLには「ここで配信してくれるらしい!」「配信は公式から指摘があった場合取り下げます」「今日現地行く人気を付けて……」「現地行けないけどなんかソワソワする……」という文言が入り乱れ、配信をしているのだろうカメラを持つ人を見て、なんとなく「アニメで怪獣の近くにわざわざ配信しようと近寄って土煙に巻き込まれる人」を思い出したりして、ちょっとうきうきして。周りはそんな非日常に、少しズレれば笑いが飛び交う日常に、そんな狭間に立っていた。もう少しで始まる…!と思った30秒前、ふき取るのも面倒な小さい雨粒がぷつぷつ、とスマホに落ちて、雨だ、と思ったことをよく覚えている。
 黛が出てきた後、私は黛の声を聞き取ろうと必死だった。そりゃあ、自ら雑音の多い場所を選んだのだ。聞き取りづらくもある。ふと周りを見ると、多くの人間が、みな一方向を向いてスマホを掲げていた。その光景が、恐ろしくもあり、祈りの様であり、綺麗であるとも感じた。黛の話の間は、ただただ話に集中し、緊張で体が震えていて、終わったあと、全ての緊張の糸が解けて、あの場の緊張も終わった瞬間ワァッと解けたこともよく覚えている。
 現地にいたときは、正直あの体験を「フィクションのようだ」とはあまり感じなかった。話に集中し、その後のTwitterでの出来事を見て、黛に問いかけられたことに対して思考がいっぱいだったからだ。

 私が衝撃を受けたのは、帰った後、スマホで録画した映像を見たときだった。

 録画した映像を見返すと、驚くほど綺麗に、まるで効果音のような「ゲームのキャラとか?」「アニメ?」「ウケるwww」「ワハハwww」「でさ~~……」という通行人の和気あいあいとした声、カツカツと鳴る靴の音、電車の音などの環境音が入っていたのだ。黛が真剣に話しているトーンと、世界の音とのズレがあまりにも芸術的すぎて、現実に起きたことだと思えなかった。しかも「人間のはずだった。」と言った瞬間、姿が変わったので私は画面をアップにして撮影をしたのだが、アップにした瞬間、一瞬だけ全ての環境音が遠のいたのだ。編集などしていない、スマホで撮った映像がだ。その映像はまさに「フィクション」だった。小馬鹿にしたように笑い去る通行人も、必死に訴える人間を気にせず仲間内で笑い合っている人たちも、帰宅する通行人も、電車も、何もかもが、あの瞬間全てが「登場人物」にさせられていたのだ。「私は、本当にこの中にいたのか?」と、すごく怖くなった。その映像が自分のスマホにあることで、私は「あの瞬間、あの場所だけフィクションで、自分もあの中にいたんだ」と自覚した。
 その瞬間、あの場での記憶が全て大事なものになった。始まる前のTLの空気も、黛が必死に訴えかける横で「アニメ?w」と言っていた人も、黛の話で図星を突かれドキドキとしていた自分も、あの場の全部が、忘れられない出来事になった。
 あの場所に思い通りに集められていた私達は、本当にノンフィクションだったのだろうか。台本通りに動かされていた私達は、本当に「台本の上にはいない」と言えるのだろうか。あの瞬間、現地で見ていたファンも、配信を見ていたファンも、想いをはせるファンも、黛も、物語の存在を知っていた全ての人間が登場人物で、主人公だったんじゃないだろうか、と思う。「二次」と「三次」の違いは、なんなのだろうか。あの瞬間、「二次」と「三次」に境目などなかったのではないだろうか。


 私はこの物語を「限りなくノンフィクションに近いフィクション」であると思っている。わかりやすく言うなら「テラスハウス」とか「バチェラー」とか「全ての日程が放映される新人アイドルオーディション」とか、そんな感じの番組が近しいんじゃないかなと思う。
 場面設定や大まかなスケジュールは番組側から決められている。シェアハウスする場所であったり、旅行する場所、起こるイベントと日程などは予め決められていて、そこでどういう人間関係が育まれるか、どういう心境の変化が表れるか、というところを楽しむのが上記にあげた番組だと思う。(正直私はそのあたりのドキュメンタリーを見たことがないので、間違っていたら申し訳ない。)
 黛灰の物語には、『物事が進む段階』『物事を整理する段階』がある。『物事が進む段階』は「HAVE Not」や「3Dお披露目」、「.」のような『本人が干渉しえない出来事』が起きる段階。『物事を整理する段階』は、雑談などで自分の思考をみんなに伝えるような段階。その二つのラインがあると考えている。そのうちの『物事が進む段階』というのが、黛灰の物語における『シナリオ』『台本』であり、上記の例えで言う『番組側が用意したもの』だと考えている。そして、それに対してどのような感情を持つか、どのような結論を持つかは、演者次第、つまり黛次第であり、その感情の変化を見るエンターテインメントがこの物語であるとも言えるのではないだろうか。

 上の仮説について、もう少し踏み込んだ例えを出そう。最近流行りの「TRPG」になぞらえていく。
 TRPGは、ルールブックとシナリオを使い、自分で作ったキャラクターをルールブックとシナリオの世界で動かし、クリアを目指すゲームだ。なにか行動をする際は技能が上手くいくかどうかをサイコロの確率で決めていく。「ルールブック」でその世界の世界観やそのゲームでのルールが、「シナリオ」によって今回キャラクターが挑む課題や事件が決められている。ただ、どのように課題をクリアするかどうかはプレイヤーに委ねられている、というゲームだ。
 TRPGの特徴でよく言われるのは「自分で行動を決められる」というところだ。例えばRPGゲームなら、「扉を開けますか?」と言われると「はい」「いいえ」と出てくるが、TRPGなら「扉があります。どうしますか?」と言われる。「開けます」と言う人もいれば、「開ける前に聞き耳を立てて向こう側に人がいないか確認していいですか?」と言う人もいる。これをやるとちょっとアレだが「蹴り破っていいですか?」と言う人もいる。そのように、課題にどう対処するかはある程度プレイヤーの自由なのだ。ただし、根本からゲームを破壊するような対処の仕方はゲームマスターから直々にNGを出されることもある。

 TRPGでは、プレイヤーとGM(ルールブックとシナリオを管理する人)が集ってゲームをプレイすることを「セッション」という。そして、キャラクターが挑む物語の事は「シナリオ」という。この二つ、どこかで聞いたことがないだろうか?systemメッセージのツイート、「System message:当該シナリオ及びセッションの安全な維持のため、エラー要因の削除を実行しています。」という文言である。
 私はこの物語は、どちらかというとTRPGのような形態で作られているのではないか、と考えている。先程のテレビ番組の話で例えるならば、『物事が進む段階』は「シナリオ」『物事を整理する段階』は「プレイヤーの行動ターン」なのではないか、と思っている。だからこそ、全てがシナリオ通りに決められていたわけではなく、黛には「プレイヤーがいるから」行動の自由がそれなりにある代わり、野老山という「NPC」の行動は先回りされていたのではないだろうか。そして、「例外」「現実に干渉すること」が「GMからすると根本からゲームを破壊する行動である」と判断されたのだとしたら。あの後、6/30までシナリオ通りに進んだのは、「強制的にルートを選ばされたのではないか」と感じる。
 一つ、そう思う理由として、プログラムでの「例外処理」がある。以下は私の元に届いたマシュマロの一文だ。

『「例外」はザックリ言うと
プログラムの書き方の用語として存在しているんですが、
予期しない動作に対してあらかじめ上手くプログラムを終了させるために
書いておく記述のことです。
例えばプログラム実行中に、
数字が入力されるはずのところにアルファベットが来たら
そのあとの動作が困ってしまうので、
例外記述をしておくことで下手に変な挙動をさせずに
安全に終了させるようにしたりします。』

 あの黒い例外スタイルさえ予期されていたもの、と考えると薄ら寒いものを感じるのだが、もし、もし6/19のエラーが「例外処理」を引き起こす原因だったとしたら。あの6/19以降から6/30まで突然、今までより忠実に決められたシナリオをなぞったのは、あの投票自体が「下手に変な挙動をさせずに安全に終了させる」ための行為だったのではないだろうか。それを行うために、例外は発動され、投票が終わった瞬間いなくなったのではないか。
 しかし、一つ気になっていることがある。私はこの物語を「TRPG的である」と言った。そして、黛が「プレイヤーキャラクター」であることも。ではなぜ、TRPGにもかかわらず、あの投票では「消す」「消さない」の二択があったのだろう。TRPGには基本的に選択肢がないのが特徴、と言った。しかしその二択は、まるで「RPG的」じゃないか、と、あとから考えて感じた。あのシーンだけ、まるで「RPGのワンシーンで、主人公の意思に反して、プレイヤーが『ゲームを進めるために』選択した」かのような…………
 これ以上考えるともう一本話を書けそうなくらい逸れてしまいそうなので、本題に戻ろう。


 「TRPG」や「ドキュメンタリー」を通して、つまり何が言いたいのかというと、「シナリオに対して黛がどのような感情を持つか、どのような結論を持つか。そして、その感情の変化を見るエンターテインメントがこの物語である。だからこそ、黛灰という人間の意思は、シナリオに全て決められているわけではなかったのではないか。」ということを言いたかった。フィクションに囲まれた唯一のノンフィクションが黛灰であり、そのノンフィクションの変化を楽しむエンターテインメントが、この物語だったのだろう。

 だからこそ、黛がどのような結論を出したとしても、それが正解で、間違いはなかったのだろうと思う。もし前述したとおり、黛に「プレイヤーがいたから」行動の自由があったと考えるなら、結論を出すために考える自由があったのなら
 もし、そのようであるなら、私達同様、プレイヤーも黛がどういう結論を出すかを見ていたのではないだろうか。「黛灰というノンフィクションが、フィクションに囲まれていた事実に気づき、どのように折り合いをつけるか」が、このエンターテインメントの中での一番の華なのだから。それで黛が「自分は黛灰である。誰がなんと言おうとそこに自分の意思しか存在しない」という結論に至ったのなら、もうプレイヤーは必要以上に干渉しないんじゃないだろうか

 そこに「今までの物語でのダークな側面が見えなかった」としても、「随分と綺麗に終わってしまったと思った」としても、きっとこれが、黛灰が出した「リアルな答え」、「ノンフィクションな答え」なんじゃないだろうか、と、私は思う。
 また、先に言った「この物語で『インターネットの暗黙の了解』について考えさせるつもりだったのではないか」ということや、「私達は本当にノンフィクションだったのか」ということを体験させられた事も踏まえると、私は物語をこう受け取った。

 一番大切だったのは、どんでん返しをし続ける物語の斬新さでも、伏線回収でもなく、「我々が黛と共に、悩み、苦しみ、考えること。」「悩んだ先に、各々の、黛の結論を出すということ自体。」だったんじゃないだろうか。


最後に

 書きたいことをわ~~っと書いてしまったため、文章としての起承転結が弱く、読みづらい文章になってしまっていたらすみません。以上が、この物語で私が考えたこと、そして、受け取ろうと考えたものです。結局のところただの「深読み」ですので、この大量に書いた文章自体、「作者の人そこまで考えてないと思うよ」「何言ってるの千代ちゃん!」状態かもしれませんが。

 野老山が削除されたこと、大衆向けのご都合主義なハッピーエンドだったこと、その他いろんな要因によって、納得できなかった人間も多くいたと思います。
 ただ、それらすべてを踏まえた上で、これが、私なりの物語との折り合いの付け方です。ずっともやもやとしている人間の誰かにこの記事が届いて、さらにそのうちの誰かが物語に折り合いをつける手伝いになってくれたらな、と思います。

 本当は黛灰の物語においての2434systemについての考察もしたかったのですが、なにせ情報が少ない&他の2434systemの物語と扱い方や存在が違う等々の理由で「こりゃあわからんお手上げだぁ!!!」となったので見送りとなりました。続きを書く日は来なさそうだな……と思っています。まぁそれでもぜんぜんいいなとは思ってます。平和だし。

 この考えは、黛灰の物語に出てきた要素を踏まえた上での「私の考え」です。プログラミング的な観点のことなんて私は一ミリもわからないし、ハッキングのことも全くもってわからない。この物語は考えれば考えるだけ没入できる物語だと思っているので、もし私と考えが違ってもぜひ発信してほしいなと思います。そして色々教えてほしい。例外処理のこともマロで教えてもらったことだし。色んな解釈の数だけ色んな人間の中の黛灰はいるし、それは本人の黛灰に収束すると思ってます。

 これから続く黛灰の人生に、黛灰という通過点を通過した全ての人たちに、幸せが多くあることを願っています。

うさぎ


noteへの投稿は初めてなので、何か問題などあれば、マシュマロにご一報ください…!

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