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『パリには猫がいない』第5話

第5話「モンサンミッシェル」


パリ滞在中唯一の、休肝日ならぬ休館日。パリじゅうの美術館がお休みしている1月1日の早朝、私とRは、とあるバス会社の待合室にいた。

今回のパリ旅行で行く場所を選ぶ際、私たちが気をつけたのは「観光エリアをあまり広げないこと」だった。パリと一口に言っても、範囲はものすごく広い。例えば藤田嗣治が晩年を過ごしたアトリエや、ヴェルサイユ宮殿などはパリ中心部からちょっと離れたところにあって、そこだけで半日以上が潰れてしまうため、リストから外した。
そんな中、唯一の例外がこの日のモンサンミッシェルだった。

最初は公共交通機関で行く案も出たが、正月の混雑を心配し、現地の日本人向けツアーに参加することにした。心情的に、パリにいるあいだはなるべく日本人の集まっているところには行きたくなかったけど仕方ない…と思っていると、客だと思っていた隣の席の、黒髪・黒縁眼鏡&黒ロングコートの個性的な出で立ちのおじさんがすっくと立ち上がり、

「はーいでは古城巡りツアー参加の方、ついてきてくださ~い。」

と宣言して、外にすたすた出ていった。どうしよう。古城には全然興味ないけど、あのおじさんの解説絶対面白そう…と少し興味をそそられながら、
「はい、ではモンサンミッシェルツアーの方たち、お待たせいたしました」
きれいな声の添乗員さんに呼ばれて、立ち上がった。

観光バスに乗り、片道約5時間。途中、港町で少しだけ寄り道をした以外はずっとバスの中なので、非常に楽チンである。まわりも日本人ばかりで尚且つ空いているから、昨日までに比べ、スリの心配も各段に少なくて安心。

ところで、私たちの方の添乗員さんも、実は古城巡りツアーの人に負けないくらい個性的な人物だった。50代くらいの小柄でスタイリッシュな日本人女性で、パリで長年生活されているためか、物言いがすごくテキパキしている。
先ほど休憩に寄ったサービスエリアのトイレでこんなことがあった。
彼女は女性用お手洗いの長い列を一瞥すると、
「ちょっと様子を見て、空いていたらお呼びしますね」
と言うと、なんとおもむろに男性用お手洗いに堂々侵入。自分の用を済ませると、私たちを手招きしてこう言った。

「どうぞ!2、3人いらして!」。

2、3人いらして…。

言葉はとても上品なだけに、ギャップが激しすぎて絶句。
しかし彼女は全く動じず、手招きをやめない。

「若い女性は遠慮なさるけど、いいのよ!気にしないで!」

幸い、私とRは女性用の順番が回ってきたのでそちらに入れたが、何人かの勇気ある女性たちは、男性用にチャレンジしていた。

トイレの話が出たついでに、ここで、パリのトイレ事情にも少し触れよう。
パリのトイレの印象は、ずばりシンプルである。
個室は広くもなく、狭くもない。白い便器とその背中部分に押しボタンがポツンとひとつ。これが水洗ボタンである。汚いというわけではないが、日本のように落ち着く場所では決してなく、「便所ごはん」という発想など生まれようはずもない空間。つまりは用を済ませたら、さっさと立ち去ろうと思うトイレなのである。
しかし、ここ数日フランス式トイレを利用するうち、私はつくづく思った。

「日本に来た外国人はさぞ、日本のトイレに戸惑うだろうなあ~…」

便座クリーナーに始まり、音姫、ウォシュレット、ビデ。幾つものボタンが並んでいるうえ、肝心の水洗ボタンは上げた便座のフタに隠れた目立たないレバーだったりする。外国語の説明がついているところも確かに増えてきたが、「何も説明がなくてもわかる」のが、外国においては最も重要なポイントなのだと、自分が経験してみてよくわかった。

行きのバスで、Rは疲れからか顎をあげて爆睡していた。それをこっそり写真に撮る。私はそれほど眠くなく、窓の外の景色をぼんやり眺めていた。
パリはやはり都会だと、こうして郊外に出てみてわかる。
バスの外に広がるのどかな風景は、まさにオディロン・ルドンの絵に登場するような樹や、三角屋根の家。方角は全く違うけれど、ルドンが幼年時代を過ごしたボルドーも、こんな景色だったのかなと思いを巡らせた。

モンサンミッシェルの近くまで来ると、バスを降ろされた。

ここからは歩くか、別で来る無料のシャトルバスを利用するのだそうだ。扉から人が溢れるほどの乗車率だったシャトルバスはあきらめ、のんびり歩いても30分程と聞いた道を、だんだんと近づくモンサンミッシェルを見つめながらRと歩くことにした。
昔、大好きだった藤田和日郎先生の漫画『からくりサーカス』のクライマックスの舞台として描かれたのを読んで以来、ずっと憧れていたモンサンミッシェル。
その景色が、ゆっくりと今、近づいている。
本で読んで「行きたい」と願った景色を、実際に見にいく。それってシンプルだけど、すごいことだ。

モンサンミッシェルで過ごした時間はあっというまだった。
有名なプラールさんのプレーンオムレツは5千円近くしてめちゃくちゃ高額だったけれど、まあ一生の記念だと思えば、たまにはよかろう。ここでも注文してからだいぶ待たされた上、ちゃっかりアップルパイまで頼んでしまったので、レストランを出たあとは急ぎ足で観光にまわる。
何しろ許された滞在時間はたった3時間程。元旦の為、一番のメインどころである大聖堂には入れなかったが、おかげで空いていたし、時間を考えればむしろちょうど良いくらいだった。
帰りもまた、バスまで歩いて戻った。

遠ざかるモンサンミッシェル。
私もRも、何度も何度も振り返った。その景色から目が離せなかった。

なんといえばいいんだろう?

この景色に、自分がなにを感じているのかすらわからない。
ただ、少しでも長く、その姿を自分の目に映しておきたかった。
ほんのひとときのモンサンミッシェル。
生涯一度きりでもいい。本当に来られてよかった。





パリへと戻るバス。帰りは私が爆睡し、Rに写真を撮られてしまった。

すっかり日の落ちた市内へ入ると、添乗員さんがバスガイドよろしく、パリの名所について解説してくれた。まだ訪れていなかったシャンゼリゼ通りに凱旋門。年末年始ということでデモを警戒したのか、ハイブランドの店にはおよそ不似合いな暴動対策の板張りをちらほら見かけた。しかし、現地に住んでいる添乗員さんいわく、パリの人たちにとってデモは自分たちの主張を表現する正当な行為であるため、現地の人たちはむしろ支持している人が大半だという。
自由の女神像がパリの夜景とともにバスの窓に映る。あるトンネルに差し掛かったとき、添乗員さんが静かに言った。

「今バスが通っているこのトンネル。皆様、記憶にございますか?ダイアナ妃がパパラッチに追いかけられ不遇の死を遂げたのが、まさにこのトンネルです。」

思わず、はっとした。

そうか。あれは、パリだったっけ。
事故のあった車線とは反対側だったそうで見えなかったが、今でもその場所には花を手向ける人たちがいるのだという。

(つづく)

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モンサンミッシェルから見つけた素敵な落書き。/写真by宇佐江みつこ



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