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『パリには猫がいない』第3話

第3話「初日の夢心地」


ホテルを出ると、ようやく完全なる朝の明るさになっていた。

「少し回り道してルーヴルをみてみようよ」と、セーヌ川方面に足を向ける。明日行く予定のルーヴル美術館が対岸に見えた。
おそらく、夢のような景色に惚ける呑気な旅行者に映ったのだろう。人通りもまばらなこの場所で、私たちは強引な物乞いのグループに出くわしてしまった。

黒っぽい服を着た女性数人に囲まれて、異国語で何かを要求されながらものすごい力でコートを四方八方からひっぱられた。恐怖というより、むこうも半笑いで「ねーねー遊ぼうよー」と子どもがしつこく絡みついてくるような感じだった。
お金の入ったポシェットは事前にコートの下に隠してある。うまくかわした友人Rが、もみくちゃにされている私を心配そうに振り返る。もがきながら思いきって「ノン!」と大きく言い放つと、私も何とか振り切った。
日本語訳すると、「やめて!」というより

「やめんかい!!!」

くらいの勢いが効いたのか、私たちが足早に立ち去ると、そのあとを追いかけられることはなかったのでほっとした。

早々の洗礼に「浮かれるな」と気を引き締めて、ふたたびメトロに乗った。到着した駅の近くであつあつのクレープを朝食用に買い、ようやくひと心地。しっとりとした生地の中身はチョコレートソースのみ。シンプルだったが、そのチョコの味が濃厚で、びっくりするほどおいしかった。
Rと並んでほおばりながら、最初の目的地、エッフェル塔に向かって歩く。

この日は曇り空のため、塔のてっぺんがうっすらと霞んでいた。
青空を背景に見たかった気持ちの一方で、どこか生活感がにじむその様子に「今、エッフェル塔を現地で見ているんだなあ~」ということを実感する。

展望台に上がるためのエレベーターはすでにRが指定券を取ってくれていたけれど、まだまだ時間がある。すこし散歩をしよう。塔の足元に広がるシャン・ド・マルス公園をぐるりと一周し、移動して、橋を渡った先からも。あらゆる角度からエッフェル塔を見上げては写真に撮った。そしてふたたび公園に戻ると、塔がよく見えるベンチで休憩。
買ったばかりの大きなチーズパニーニを、Rと半分に割ってかぶりつく。

ああ、なんて贅沢な時間だろう。

外国の食べものは、スパイスやソースなどの味付けが濃いイメージだったけれど、先ほどのクレープと同じくパニーニも、味付けは至極シンプルなものだった。焼き目のついたバケットの香ばしさと、たっぷりとろけたチーズの塩気が絶妙である。
2連続のアタリ。今後のパリごはんにも期待が膨らむ。

いわゆる塔と呼ばれるものは、地上で見上げた時の感動に比べると、実際に昇った印象はたいていなぜか薄いもの。
世界一有名な塔と言っても過言ではないエッフェル塔にしてもそれは同じで、展望台からの眺めは意外と地味に感じた。パリの建造物には景観の規定があるのだろう。ほぼベージュ一色。空さえ青かったら対比でさぞ美しかろうに、あいにくこの日はそれも灰色で、唯一鮮やかなのは先ほど散歩した公園に広がる芝生の緑だけだった。
塔の上からパリを一望しながら、先ほど食べたパニーニの味を私はまた思い出していた。

次に赴いたのは、グラン・パレ。
エッフェル塔から20分くらい歩けば行ける距離にあり、今回の旅で私がどうしても行きたいと熱望した『ミロ展』がやっている場所である。
鑑賞前に、向いにあるプチ・パレに入りティータイム。
イート・インはパリに来て初めてだったが、注文も、席取りも、Rと分担してちゃんとできた。プチ・パレ自体も雅な宮殿を利用した美術館になっており、なんと所蔵エリアは無料で見ることができる。時間があればぜひゆっくり過ごしたかったけれど、後ろ髪をひかれつつ、予定通りグラン・パレへ移動した。
 
グラン・パレではちょうど『マイケル・ジャクソン展』もやっており、そちらがとんでもない大行列になっていた。私たちの行きたい『ミロ展』は入り口が別で、マイケルほどではなかったが、こちらも1時間ほど寒い館外で順番待ちの列に並んだ。
グラン・パレは1900年のパリ万博の会場として建てられたものなので、入り口のアーチには「1900」と刻印がされ、パレットを持った女神や、楽器を持った天使たちのレリーフが恭しくその数字をかこんでいる。しみじみとそれを見上げていると、私たちの番が来た。

入り口で観覧料15ユーロ也を払い展示室に向かおうとすると、クロークの前にいた女性(お客さん)に声をかけられた。
どうやら、コート類はここで預けなければならないシステムらしく、着たまま入場しようとしていた私たちに教えてくれたのだ。親切な女性と、丁寧に荷物を受け取ってくれた係員さんに心が和む。

グラン・パレは、なんとなく外国からの観光客より、地元の人が多く訪れる美術館という気がした。展示室の雰囲気は心地よく落ち着いていて、広さも日本の公立美術館に似ている。鑑賞中、すれ違った10代半ばくらいの現地の女の子ふたりと目が合うと、はにかみながら「コンニチハ」と挨拶してくれた。

ジョアン・ミロは学生の頃から好きな画家の一人だった。
日本にもファンは多いが、企画展はめったに開催されないので、まとめた点数を観られる機会が今までなかった。だからこそ、パリ旅行の計画を練る際に現地で開催中の企画展を調べ、この『ミロ展』を見つけるや「ここは絶対に行く!」と赤丸をつけた。事前に購入しておいたお得な「ミュージアム・パス」の対象外だったことが唯一の難点だったが、Rにお願いして、了承してもらった。15ユーロを別で払ってでも、最初で最後かもしれない『ミロ展』を観たい気持ちに変わりはなかった。

企画展の内容は回顧展にふさわしく、ミロの画業を辿る代表作を年代順に網羅していた。特に印象的だったのは《青》と《死刑囚の希望》それぞれの三部作。
《青》は画集を眺めていた頃から大好きな作品で、作品に目を這わせていると、絵ではなく音楽を鑑賞しているようなふしぎな感覚になる。
《死刑囚の希望》には、それとは対極の緊張感があった。
カタルーニャ独立運動家のサルバドール・プッチ・アンティックの死刑回避を願ってミロが描いた作品。しかし絵が完成したちょうどその日、彼は縛り首になってしまう。淡泊な画面に、描き損じたような線が一本。画集からはそんな印象しか受けなかったのに、実物と相対していると、さまざまなものを封じ込めている画面から生々しい感情の残滓がにじみ出て展示室に浮遊している―そんなおぞましいイメージを感じた。
展示内容はすべて素晴らしかったけれど、この最後の2作だけでもここを訪れる価値がある、と思った。

鑑賞の興奮冷めやらぬまま、ミュージアムショップになだれ込む。おかげでパリに来てまだ一つ目の美術館だというのに、初日分の現金を上回りカードを使わねばならぬほどミロ・グッズに散財してしまった。
時刻は午後7時。外はもう真っ暗だ。
Rと相談し、夕食を探して不案内な夜の街を初日からうろつくよりはと、目の前にあった美術館内のカフェでおいしそうな総菜やケーキを選び、テイクアウトしてホテルに戻ることにした。
最寄のサンジェルマン・デ・プレ駅まで着くと、近くにあるスーパーに入った。水道水は飲めないのでペットボトルの水を買い、紅茶のパック、リンゴジュース、チーズなどのつまみと、明日の朝に食べるパン。そして今日からの滞在でゆっくりと呑むための赤と白のワインを1本ずつ選んだ。



早朝に荷物を預けた時とは別の女性が受付に座っていて、鍵を渡された。
部屋に入ってみると、間接照明に照らされたこじんまりした空間に、鮮やかな花柄のカーテンとベッドがふたつ。
ゆっくり腰を据える前に、Rと交代でシャワーを浴びた。バスタブはなく、小さなシャワースペースにはカーテンもついていなくて、使い慣れない私はそばのトイレをびちゃびちゃに濡らしてしまった挙句、石の床に足を滑らせ踵をしたたかぶつけて、流血。絆創膏も初日から使うことになろうとは…。

さっぱりとした顔で赤ワインをあけた。
椅子をふたつ窓辺に寄せて、小さな物置台に買ったばかりのバジルサラダや生ハムとチーズ、ピスタチオのケーキなどを賑やかにならべる。
長い一日だった。
楽しみつつも、常にスリを警戒しなければならない緊張感からもようやく解放され、食べながら、無性にまぶたが重かった。初日の感想をふたりでゆっくり語りたかったのに、だんだん会話もままならなくなる。
ごめんと断ると、使った皿もそのままにして私はベッドに倒れた。

パリ1日目の夜は、もったいないほどあっけなく終わった。


(つづく)


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最初の晩餐。/写真by宇佐江みつこ





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